花 刀 51
やっぱりわたしは
長生きなんかできないのだ
そうと気付いた幾度目に
弑した相手の顔を全部
思い出そうしてみたんです
いやぁちいとも
思い出せやしなくって
ひどいものだと思いました
誰もにひとつの大事な命を
あっさり斬って捨てておいて
死にたくないなんて愚かですかね
でも、わたしの命もわたしのもので
たった一つこれしかないのです
惜しんだっていいでしょう
悔しがったっていいでしょう
死んだら出来ないことなんですから
誰か一人に
焦がれていたって
いいでしょ
斎藤の帰営から、やっと三日が過ぎた。
朝、井戸に桶を投げ入れると、少し奇妙な音がする。構わず手元に手繰り、割れた氷が浮かんだ水を、斎藤はじいっと見下ろした。冷たそうだ。目は一瞬にして覚めようが、流石にこれで顔を洗うのは苦行だろうか。
屈んで躊躇していると、うっすら積もった雪を、素足に下駄で踏んできて、永倉と原田がそれぞれこう言った。
「おう、何してんだ? 顔洗うんなら台所へ行けば、汲み置きの水がある。氷水より随分マシだぞ」
「行くんなら早くしねぇと、早いもん勝ちだからよっ」
「あぁ」
斎藤は表情も変えずに返事をした。それを見て、二人は何故か嬉しそうな顔をする。原田などは、バシバシ遠慮なく斎藤の背を叩いて笑うのだ。
「その不愛想な面ぁ、また見れて良かったぜ」
「ほんとうに変わらんな、斎藤。こっちだ、こっち。汲み置き水。火に近いとこにあるのがぬくいぜ?」
永倉が斎藤を引っ張っていきつつ、妙に顔を寄せてこう言った。
「お前が戻って嬉しい。ずっと仲間じゃないか、なぁ」
原田も腹の一文字傷を掻きながら、ふらりひょろりとついて来る。永倉の言うのは本当の本心だ。原田も勿論、他の古い仲間も同じだろう。思想の違いで分かたれるのは仕方ないと、一度は割り切ったが、死ねば、仲間だったのにと思う。死なないで欲しかったと思うものだった。
でも戻ったのは斎藤だけだ。もっと彼がうまくやってくれれば、あの日までに彼のことも共に連れ出してくれれば、と、彼らはおそらくひとかけも思ってはいない。危うい均衡の中、斎藤が戻っただけでも心底嬉しいのだ。
「やっと昨日、あいつのこと弔ってやれたしなぁ…」
「うん、うん」
二人が言うのは藤堂の葬儀のこと。ごく少人数でひっそりと、と終わってから聞いた。今の今では斎藤の立場もまだ微妙だから、教えるものがあっても出向くことはしなかったろう。
ふ、と微かに線香の香りがするのは、多分永倉か、それとも二人ともの着物に、香りが移っているからだろうか。その香を無言で嗅いで、藤堂のことを思うが。そうやって悔やむ気持ちになりながら、己の心の偏りを斎藤は承知している。
今だって頭の中は、土方の元に戻ることが出来た安堵と喜びで、隙間の無いほどだ。逃げるように永倉と原田から離れ、一人で部屋へと戻る途中、斎藤は立ち止まった。屯所の門の傍らに土方が立ち、斜めにこちらを見ていたのである。
「共を、と思ったがまだそのなりか?」
首に手拭いを掛けた斎藤の姿に、土方は小さく笑いを見せた。
「まぁいい、すぐそこだ」
そうしてそのまま、門の間を抜けて土方はふらりと出て行ってしまう。土方の何気ない立ち姿と微かな笑み顔に、斎藤は眩んで、それから我に返り、急ぎ最低限の支度をして追い掛ける。
門を抜けた先でどっちへ行ったかすら分からなかったが、右か左かの二択を決断して駆けると、竹林の横を通り過ぎた向こうに土方の背中が見える。褪せた朱色の鳥居を前に、彼もまた誰かの背中を見ていた。
「総、司…?」
古い神社に向かって静かに立つ、細い姿が土方を振り返る。
「えぇ、私ですよ。私も、列席出来なかったから」
藤堂の葬儀に、と沖田は言下に言っている。土方も、ちらとだけ顔を出して帰ったのだ。だから今ここには、まともに藤堂を送り出せなかったものだけが集まっている。
斬るのならこの手で、と思っていた私が、出られませんよ。
今回も、俺は最後まで悪役でいいんだ。悼む顔は出来ない。
もっとも彼を救える立ち位置で、出来たことなど、何一つ。
「みんなそれぞれ思うところがあるみたいですけど、あの人、やけに生真面目で優しかったから、怒ってなんか、いやしません。だから、もう、これで悔やむのはおしまい」
ね? と涼しい顔して沖田は言った。裸足に草履履き、足の指の先、全部を寒さに真っ赤に染めて、きっと長いこと此処に一人いたのだろう。とん、とん、と少しばかりの階段を降りつ、斎藤とすれ違う時、沖田は言った。
「無事のお戻り、何よりです、斎藤さん。それに…」
二人の間を抜けてから、沖田は体で振り返り、何故かその時、顔は伏せて、子供のように雪を蹴る。
「土方さんも、戻った、のですか?」
「俺が? なんの話……」
言い掛けて、土方は、はっ、とした。沖田の言うのは、土方が失くした記憶のことだ。彼が取り戻せていない記憶。だけれどもう、何を失ったのか気付き始めている記憶。
「沖…」
「土方さんときたら、なんて顔。私のことを誰だと思っているんです? 昔っから、いつも土方さんのことを見てたんですよ? 私に隠し事が出来ると思ってるなんて。寧ろ私はね」
沖田は笑ってそう言って、痩せた腕を左右に広げ、深呼吸するように仰のいた。
「斎藤さんみたいに腕の立つ人が、これからずっと土方さんの傍に居てくれるって思ったら、すうっ、と体が軽くなってく気がしますよ。あぁ、もういいんだ、大丈夫なんだ、って」
「お前、何、言ってやがる」
土方は言い澱む。何か不吉なことを聞いた気がするのは、一体何故だろうか。沖田が今何を言ったのか、恐らく土方よりも斎藤の方がはっきりと理解した。
木の葉のように薄くなった体。月のように白い頬。声には力が無い。彼に暫くぶりにまみえた斎藤には、それが酷く鮮烈に見え。だからこそ、彼はこの時、こう言ったのだ。
「ひとまず戻ろう、屯所へ。ここは随分寒い、風が、冷たい」
「…そうだな、とりあえず火鉢にでもあたって」
斎藤の声に、安堵で少しばかりほどけた土方の声が返る。そうして土方の視線が自分の上から離れた途端、沖田は小さく咳き込み始めた。こん、こん、と最初は聞こえない程度、それから段々、その咳は大きくなって、そして。
「総…っっ」
駆け寄り伸ばしたその腕に、沖田が縋ったその一瞬。あたりを埋めた雪の白さを裏切るような、赤。赤い、色が。
「ご…ふ…ッ」
「総司ッッっ!」
じじ、と蝋燭の炎が鳴いた。深夜である。真っ黒に横ひとすじ、切れ目を入れて少しずつ広げるように、彼の視野が開く。沖田は目を開けて、暗いその室内を見たのだ。
「あ、れ…私」
「気付いたか?」
沖田の視野の右にも左にも、取り囲むようにぐるりと顔があった。近藤、井上、永倉、原田、斎藤。そして、山崎。土方の姿だけが無い。無意識に探す沖田の視線が、忙しなくもう一度、みんな顔をなぞって動いた。
「倒れてから丸一日と半だ。歳だけがずっと一睡もしてなかったから、みんなで言って、やっと自室へ帰らせた。眠ってるといいんだがな。総司、お前はよく眠ってたぞ? それだけ眠れりゃ、少しは安心していいんじゃないか、って、今言ってたところでな」
変に優しい近藤の声を聞きながら、沖田は淡い蝋燭の光を、酷く青い顔に浴びている。彼はやがて、自身の唇に指で触れつつ呟いた。
「血。私の血、あの人に、かかりました…?」
「………」
「……」
皆が一様に黙るその中で、唯一その時を見ていた斎藤が、彼に事実を教える。
「あんたは、片手で土方さんの腕につかまりながら、それでも顔だけは外に背けて吐いた。それほどの血の量じゃなかった。雪を被せて隠せる程度だった」
「そうですか。よかった。万が一にも、うつったら嫌ですから」
「そ、総司、お前のはただの」
上擦ったように言い掛けた井上の言葉を、沖田は自分の声で遮る。おかしそうにくすくすと笑う声にも、ひゅうひゅうと、風の音のような掠れが混じっていた。
「ただの、風邪と疲労と心労のせい、って? いつも診てくれる先生がそう言ったんでしょう? 嘘ですよ、それ。それ以外のことを言ったら斬るって、散々脅しましたからね。私のは、大病なんだそうです、本当は」
誰もが、何も言えなかった。ここにいる者たちは皆、嘘などうまくつけない。長い沈黙の後、永倉が静かに言った。
「大病だろうと、そうじゃなかろうと、治るように努力してくれ。お前が居なけりゃ困る。みんな困る」
円になった顔が、それぞれに頷いていた。沖田はにこりと笑って、重たい瞼を閉じてしまう。
「…そうですか? 居ないなら居ないで、きっとなんとかなるものですよ。だってもう何人も居なくなったでしょ? だから大丈夫。絶対、大丈夫に決まってますよ。あぁ、もうちょっと眠らせて下さい。凄く眠いんです」
その部屋から、一人、一人と人が抜けた。沖田が眠るのを邪魔しないように。そして、沖田の居ない場所で、きっと大丈夫だと言ってくれる、誰かの言葉を聞きたくて。
最初に抜けたのは山崎で、最後に残ったのは斎藤だった。沖田と二人になって、斎藤は、小さな声で言ったのだ。
「…あの人の記憶は、戻ったわけじゃない。何一つ戻ってはいないが、多分記憶以外の何かで、あの人は俺とのことを覚えていた。だから"戻った"とも言える」
沖田は目を開かない。でも呼吸が少し、速くなった。聞いているのだと分かって、斎藤は彼に言った。誓うつもりで、言ったのだ。
「俺はずっと、あの人の傍に居る。生きていても、死んでも。…あんたの、分も」
眠ったふりをしたままの、沖田の痩せた頬に、白い流れがひとすじ、伝った。
続
組はいつも難産だけど、今回はまた、くちゃくちゃに難産でした。なんでか気付いたんですけど、前回でお話が一区切りだったからなんですね。それでいて史実はここから忙しくなって言ってて、何でも好きなように作り組み立てられる物語と、この花刀の物語は違うので苦行なんです。
こうきたから、こうしたい、と思っても、簡単にはそうさせてくれない史実の出来事がねーーーーっ。
ここで沖田の病が、っていうのは史実的なタイミングで悪くない筈なんです。近藤さんの邸で療養してた時期があるそうです。それをちゃんと通過しつつ、書きたいことも書いていくとか、むずすぎるだろうっ。史実、勘弁してー(勘弁なるわけないだろう)。
はいっっっ、いつも言ってるかと思いますが、次回も頑張ります。読んでくださった方、ありがとうございます100ぺん土下座。
2020.01.09
