花 刀 50
記憶とは、
なんだろうかと思うのだ。
それは頭の中にあるものか?
それとも心にあるものか?
そのどちらからも消えたとして、
体にも、
残ることがあるのだろうか。
殆ど夜通し、
酷い無体を受けながら、
憎いと思わずいるのは、
何故なのだろう。
安堵のようなこの感情は、
いったい、
どこから来るのだろうか。
「…う……」
覚めるなり土方は低く呻いた。体中、痛みの無い個所などなく、覚めたばかりだというのに、瞬時に全部を承知したのだ。消えている記憶は何一つ、取り戻せなかったのだろうけれど、でも、間違ったことをしたとは微塵も思わなかった。
痛みのあるあちこちが「彼」を感じさせる。長いこと会っていなかった。顔も、声も。ただ、時折届けられるふみの、神経質だけれど癖のある文字に、何度もこう思ったのを覚えている。
今に、帰らせる。このままにはさせねぇ。
傍に呼び戻すために、あえて、離した。
「…、ってぇ…。あいつ、本当に容赦のねぇ…」
わざとのように軽く言いながら、これからどうするべきなのかを考えかけ、そしてようやく、部屋の中に彼がいないことに気付いた。
「…斎……?」
触れた布団は冷たい。随分前から居ないのだ。朝まではまだ遠いと空気でわかる。いつもならもう少しあいつはいるのに。
いつも なら ?
ちらり過った思考に、怖気のような嬉しさのような、両方が混じったような心地になりながら、土方はなんとか立ち上がる。全裸だった。下帯が脚に絡んでさえいない。暴れ狼みたいに、彼を貪り喰いながら、引き裂けそうな力で、斎藤が土方の肌を覆うもの全部を奪ったのだ。
その狂気のような所作に、恐怖よりも喜びを感じた。確かに、感じた。
「斎藤」
裸のままで、からりと障子を開けた。なんという無防備かと、常なら思うだろうが、その時の土方は余程普通でなかったのだろう。ただ、火急でなくば誰も来るなと、日頃から言い置いてあるから大事はない。
その向こうの雨戸がほんの少しの隙間だけ空いていた。そこから刃のような冷たさで、外気が差し入っている。それだけではなく、雪、も。その雨戸にまで手をかけて、身一つ分開けた向こう、ちらつく雪の中に立つ斎藤を見た。
裸足の足に目が行って、あどけない程の声が出た。
「馬鹿。寒いだろう。さ、」
「…ッ、ひじか…っ!」
「いと…っ…」
名を呼ぼうとした体を、部屋の中へと押し戻される。冷えた体ですっぽりと包まれ、幾多の意味で身が縮んだ。斎藤はきちりと着物を身に付けていた。脇差まで腰にあり、その柄が素肌に触れて、氷のようだ、と土方は思った。
「わざとか、あんたは…ッ」
「なに、が」
「そんな裸で、庭に」
「…そういや」
自身のしたことの異常に気付くより、抱きすくめられていることが、あらゆる角度で心に刺さって、斎藤の背へとまわした両手で、土方は彼の両肩を掴んだ。力の入っている肩の、腕の形だと思った。斎藤は震えている。鼓動が凄い。
あぁ、そうか。
夢じゃ、ねぇ。
帰ってきたんだ、此処に。
離れている間、
どうして平気で居られたか。
数日前までの自身が、
もう既に分からない。
記憶は欠けたままのくせ、
こんなにも。
「…俺ぁは、斎……」
その時、いきなり体を引き剥がされた。驚いて彼を見たら、見開いた目で彼も土方を見ていた。彼は言ったのだ。
「聞くが、俺は、どうなる? あんたは俺をどうするんだ。武士にあるまじきとして斬首か、温情でも切腹か? 密偵の褒美として、あんた自身を一晩くれただけか」
「なに」
「また、生きたまま遠ざけられるよりは、その方がいい」
矢継ぎ早に言われて、土方も思い出した。彼を伊東につかせ、組から、自分から遠ざけた理由。そうだ、さっきも朧に思っていた。呼び戻すためにあえて離した、そうでもしなければ、お前は俺を嫌って、あんなに嫌って、逃げていくと思ったからだ。
脱走すらしかねないと思っていた。副長として追っ手を差し向け、引き戻されたお前に、俺は切腹の沙汰を言い渡すことになる。
死んだ山南。その落ちた首。伊東派についた藤堂も死んだ。俺の沙汰のせいだ、俺の采配のせいだ。なのに、この上、俺が、お前を殺す、と…? あまりのことに喉が引き攣るようで、中々声が出なかった。
「…切、腹? 斬首だと? 俺がおめぇを? なんで? おめぇは、これ以上ないぐらい見事に命を果たしたじゃねぇか。おめぇがあいつらに、一度は寝返ったなど、誰にも言わせねぇ。偽りを働いたのも組の為で、俺の命だ。もしも誰かに誹りを受けたら言え、俺から誰にでもそう言ってやる」
ぶつ切りの言葉で動揺を表して、土方はようやく、おのれの裸身に着物を引き寄せた。袖を通し、前で掻き合わせる。隠された土方の素肌に残る、酷い程の無体の跡を、斎藤は逆に生々しく意識した。
「待ってくれ。今、部屋に、誰も来ないようにする」
動揺を幾ばくかでも隠そうとし、忙しく文机に向かうと、土方はほんの短い言葉を書いた。
『少し、頭病みがする。考えたいこともある。どれほど急ぐ用でも、まずは外から声をかけるよう。必要ならこちらから出ていく』
こんなものを書かずとも、いきなり副長室に入ってくるような、無茶な勇気の持ち主もそうそう居まいが、とにかくその紙を二つ折りにし、雨戸に挟む。
「これでいい。誰も来ねぇし、万が一来ても、俺が外に出て対処する」
そこまでする間、何処へも行こうとしない斎藤の様子に、土方は多少安堵して彼に背を向け、ただ身をくるんだだけの着物を、出来るだけきちんと着なおした。着流しに着物を着付け、髪も直して、もう普段の彼にすっかり戻ったかのようだ。
斎藤は座って、瞬きせずにそれをじっと見ていた。本当に、過去にいるような気がしてきて、その体を後ろから抱きたい衝動を堪える。彼の目の前でそうやって、無防備にしている土方は、でも、何も思い出してはいないのだ。
「……ひとつ、詫びたい」
そう言ったのは土方の方で、斎藤は詫びられるものがあることにも思い至らなかった。
「詫びて済むものじゃないのは、夕べわかったが。それでも。なぁ、斎藤。おめぇとのこと、忘れて…悪かった」
きちりと着物を着た土方は、夕べの姿など思い浮かべられないほど澄んで、きりりと美しく見えた。斎藤は神々しいものをでも見るように、そんな彼を見つめて、ほんの僅か項垂れた。何も言わない斎藤に、さらに土方の言葉が降る。沢山、降って落ちてくる。
「…お前ぇとどんなふうだったのかは、色々、わかった気がするんだ。正直、俺ぁがお前ぇと? って思う。そも、男とあんなこと、怖気が立つ以外ねぇと思ってたのにな。だからいろいろ俺は俺が不思議だ。なんでそんなふうになったのか。なんでお前ぇだったのか。きっかけ、とか。初めて…その、だ…かれた時の、その時のこととか、一体なんで、って思う。想像がつかねぇ。分からねぇ。……なのに…」
土方は、ふ、と言葉を切って、斎藤の斜め前に座して、着流しに着物を着た足を、行儀悪く胡坐に組んだ。ちらり、下帯が覗く。白い脚の、素肌も。
「なのになぁ、斎藤、あんなひでぇことをお前ぇにされながら、俺はさ。俺は…なんか……」
言おうとして、言おうとして、土方は言えずに困ったような顔をした。言おうとしたことを言わないままで、急に言葉を変えて、彼ははっきりと言った。
「斎藤、俺がお前を切腹の沙汰にする、など、それはねぇ。万が一にも、ねぇんだ。だって、そうしないために俺はお前ぇを伊東につかせた。お前ぇが俺を嫌だというから、嫌って嫌って、どうでも傍に居たくなくて、脱走なんざする前に、隊の仕事で俺から離した。それしか方法が無かった。そうしたら俺の言うまま、裏切り者の汚名を着てくれた。だから戻れと命じれば戻ると信じて待てた。感謝もしてる。仲間を裏切るようで、随分、きつかったろう。……にしたって、お前ぇよ。褒美に俺を、なんざ、な」
くすり、と土方は笑う。何処か可愛らしい顔で、一瞬笑って、それから隠すようにして、斎藤に斜め背中を見せた。
「いくらなんだって、この新選組副長の土方様にだぜ。大した度胸だ。余計手放せねぇ、って、そう思った」
聞いている間ずっと、斎藤は殆ど眩んでいた。あまりに幸福過ぎて、覚める夢ではないかと疑った。首が折れそうなほど項垂れ、短く零した嗚咽が聞こえたのだろう。土方は首を横に傾けて、斎藤の顔を覗き込もうとする。
「斎…?」
「あんたの、傍に居て、いいのか」
土方は、随分長く逡巡したのち、たった一言だけで答えた。
「死んだって、居ろよ」
続
凄く迷って書いたんですけど、書き上げたのにまだちょっと迷っています。伊東の元から斎藤は戻り、そこで彼は別の意味でも戻ったんですね。土方さんの記憶は戻っていないし、消えた記憶がいつか戻る時、この二人の関係はまた崩れるのでしょうか。
多分ですが、そうでもないのではという予感がします。次の一瞬に命があるかどうか、という極限に居れば居るほど、それは些細なことになのではないだろうか。
それにしても「死んだって、居ろよ」は、ずっと先の史実を思うと、うっかり斎藤を責めてしまいそうな私がいますよね。そこを書くことがあったら、どうするのかと今から頭を抱えるのでした。この話は決着をつけるのが、きっと、責め苦のように難しい。
ともあれ、半年以上ぶりになんとか書けました、イイ区切りの50話。書けて良かったです^^ おや、今日って七夕ですねぇ。
2019.07.07
