花 刀 46
ここには居ない
あんたの姿を想う。
あんたの言葉を想う。
あんたのかおりを想う。
あんたの肌を想う。
傍に居さえしなければ、
と、思った己の、
愚かさを知った。
ゆっくりと日々、
狂気に沈みゆく。
ここには居ない、
あんたの心を想う。
戻れと言った、
その声を。
与えられた一室で、斎藤は大刀の手入れをしていた。目釘を抜き、柄と鍔、刀をばらばらに。そうして本来の姿ではなくなった愛刀を、暫し静かに見下ろしている。
こんなふうに、
本来あるべき形を崩されて。
まるで、俺のようだ。
自分を抑えられなくなるのが恐ろしくて、傍に居るのが怖くて、手の届かない場所に遠ざかりたかった。そうすれば楽になれると思っていたのに、まるで息の出来ない水底に、深く沈められたような日々だ。
あれからもう、幾度も思い出した。かの人は、斎藤を此処に送り込む前に、笑ってさえいてこう言ったのだ。
お前ぇにだって、
大事にしてぇ何かがあるだろう。
人か、物か、或いは想いか。
それを守るつもりでヤツを守れ。
そうすれば、信用されるだろう。
酷いことを言うものだ、と、そう思った。俺が守りたいものなんて、この世にあんたしか居ないものを、そのあんたがその口で、他の誰かを守れという。
信用? なるほど、それはそうだろう。俺があんたを守りたいのと同じ気持ちで、同じ覚悟で、他の誰かを守ろうとすれば、それ即ちすべてを賭けて臨むということなのだから。
「……承、知」
と、あの日言った言葉を呟くと、斉藤はばらけた刀へ改めて手を伸ばす。その途中で、障子の外から声が掛けられたのだ。
「斎藤君」
伊東だった。作業の手を止めもせず、斎藤はそちらの方へと視線を流す。黙ったままでいたら、穏やかな声がまた掛けられた。
「入っても構わないだろうか」
「…この館は貴方の所有だと聞いた。お好きに」
「では、失礼するよ」
入ってきた伊東は、相変わらず隙の無い身なりだ。まるで今から重鎮にでも会いに行くような姿で、しかも、淡く花の香の薫りがする。
「…共をともし仰せなら、今刀がこの様なので、申し訳ないが、別のどなたかに」
わざとそうして丁寧な口調を作って言えば、伊東は笑った。そして相手の手元がよく見える位置に座ると、笑んだままで、斎藤の姿をゆっくりと眺めている。
「私のなりを見て言っているのなら、こんなものは普段着で、別段着飾っているつもりもないが。そうだな、…あえて言うなら、何処に居ようと、気を引き締めておくのは良いことだ。まさに今の、君のようにね」
「お褒め頂いているのなら、恐れ入る」
斎藤の身脇には、脇差がある。すぐに手の届く位置にあり、しかも、ほんの僅か、鞘から刀が抜けている。何かあれば、すぐにも対処の出来る置き方であり、それ即ち、この館に居て、気を許してなどいないということだ。
伊東もまたこの部屋に居て、気を抜いてなど居ない。座ってはいるが座した位置はいささか遠く、障子は身一つ分空いたままで、仮に飛び下がれば、すぐさま外であった。斎藤は刀身についた古い油を拭いながら、極短く伊東に尋ねる。
「何用で…?」
「いや、別にこれと言って用は無い。強いて言えば、君という人を知るために来た。まだ少し、量りかねているのでね」
伊東はひそかに、目元を鋭くして笑みを深めた。それに対峙して表情一つ変えずに、斎藤は手入れしている刃の持ち方を変え、すう、と中段の位置に。鈍く光るその刃を見ながら、目を細める。
「…量るほどのものなど、元々俺にないからでは…?」
「私はそうは思わない。君は君なりの意味を見出して隊に属していた筈だ。だから、余程想いの変わるようなことが、君の身に起こったのだろうと思っている。…なんにせよ、歓迎するよ。君ほどの腕だ。一度手の内に入れれば、失うのはあまりに惜しい」
さらり、と美しい仕草で立ち上がり、伊東は斎藤を上から見下ろして、もう一度笑った。
「…大切な手入れの最中に、失礼したね」
その数日後のある宵、斎藤は他二人の士と共に、伊東の共に着いた。伊東もまた、組の幹部同様に敵は多く、とある路地前を通り過ぎる時、それは起こった。
一瞬の、土を食む音。恨みの沁みた僅かな呼気。月明かりに閃いた白は、斎藤の刀のみであった。何が起こったのか、理解せぬまま死人と化したその刺客は、血の一滴も零さずに、喉からうなじへと貫かれていたのである。抜身の刀を握り締めたまま、男の体は、どう、と倒れた。
「見事」
短く、伊東がそう言った。何も気付かず、故に動くことも出来ずにいたもの達が、彼の声の後にようやっと、無意味にどよめく。
「いっ、伊東先生…っ、お、お怪我はっ?」
「…騒ぐことしか出来ないのなら、早く人を呼びに行きたまえ。如何に不逞の輩とは言え、遺体をこのままにしてはおけないだろう。私は先に戻る。館までは、斎藤君に共をお願いしよう」
屈辱的なことを言われて、その二人は、苛立ちを込めた目で斎藤を見た。けれど何か言うことも無く、番屋へと駈けて行く。伊東は、無残な遺体へは視線をやることもせず、またあの自信に満ちた笑みを見せた。
「…君のことを犬だと言うものはいるよ。仮にそうだとしても、君ほどの人が、いつまでも犬のままではいないだろう。斎藤君、君がいつか狼になるのか、それとも獅子か。私はそれを見てみたい。もし私の為に、であれば、こんなに誇らしいことはないね」
「…買い被りを」
君ほどの? いったい俺の何をどう見て言っているのだろう。思想も無く、語る理想も無く、矜持もろくに持ち合わせない。ただひとつのことにだけ、狂気を孕んで生きている、そういう男でしかないというのに。
伊東の敵は多かった。共について歩けば、四度の内一度は暴漢が現れる。いったいどういうつもりか知らないが、伊東は常に斎藤を傍に置き、己に振りかかる刃を、常に彼に払わせた。伊東の為に、刀を抜けば抜くほど、斎藤は奇妙な錯覚に捕らわれていく。
大切なものを守るつもりで、伊東を守れと言われた。まさにその通りにし続けている。後ろに庇う男の衣から、雅な花の香が薫る。それが、梅の香であるかのように思う。
たった今、
背に庇い、
己が守ったのは、
本当は、
あんたなんじゃ、
ないのか。
幾度も間近でかいだ、髪の匂い、肌の匂いを思い出す。振り向きさえすれば、そこにあの人がいるのでは、と。
振り向いて、けれどそこに居る人の顔までは視線を上げず、映った着物の袖が、切れていた。刺客は今日は二人だったから、ひとりを切り捨てている間に、もう一人が彼に斬りかかったのだろう。
斎藤の身の内で、心臓が、跳ねた。喉に何かが閊えて、声も出なかった。ようやっと目の中に捉えた姿は「彼」ではなく、伊東で、酷く強張った顔をした斎藤を、彼は驚いたように見ていた。
「そこまで本気で案じてくれているとは、意外だが?」
綺麗に笑んで、伊東は言う。けれどその笑みよりも、彼にとってもっとずっと美しい笑みを、斎藤は脳裏に浮かべていた。
「……当然だ、共は、あんたを守るために…いるんだ」
無理に取り繕って、そう言った。
多分、伊東は見抜いているのだろう。斎藤が何故、組を離れたか。そしてなぜここに居るのか。誰の命でここにいるのかということも、もしかしたら。それが危険だということぐらい、よく分かっていたけれど、命じられた仕事はまだ途中だ。戻ることも逃げることも出来ない。
眩暈がした。ぐらぐらと、視野が揺らいでいる気がする。あぁ、彼は此処には居ない。遠く離れた場所に居る。あれからもう、早四ケ月が経とうとしていた。斎藤はあきらかに餓えている。
いずれは、
俺の傍らに、戻れ。
斎藤。
耳の奥で、甘やかに、彼の声が響いた。
続
斎藤の心理面とか、ちょっと無理やりな展開なので、上手く書けない自分が悔しかったりも。っていうか、無理やりな展開にならないようにしなきゃならんかったのよね。後悔先に立たずでございます。
ほんの少しですけど、斎藤の剣技が書けて楽しかったです。伊東は、ほんとはもっと切れ者だと思うのですが、自負心が強くて愚かな感じになってしまうような。ううっ、ごめんなさいっ。もうすぐ死んじゃうっていうのにねぇ。
次の話では、土方さんの方を書きたいと思っております。冬になるまえに書けたらいいなっ、て。ありがとうございましたv
17/08/19
