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何かを失ったと分かっている
何を失ったのかは分らない
けれど
何か分らぬそれは
きっとこの身の一部だったのだ

棘のような
針のような
刃のような

それが何かはわからぬままで
激しい痛みを伴うそれを
取り戻したいとどこまでも

もがけ
あがけ

俺よ

…お前よ



 

 斎藤がおかしい。

 はっきりそれを口にしたのは、近藤だった。確かにおかしい。その頃には誰もかれもが気付いていた。彼は伊東と行動を共にするようになった。その分、それまでの仲間とは距離を置いた。その変化はあからさまで、それゆえかえって、土方に進言するのを誰もが恐れて、口を噤んでいたのだ。

 ある夜半、突然居室を訪ねてきた近藤に、真っ直ぐそれを告げられ、土方は、

「知ってる。…まぁ、茶でもどうだい」

 と、言って薄く笑った。近藤は土方の様子に一瞬唖然としたが、差し出した湯呑みを胸の真ん中へ、とん、と当てられ、すう、っと冷静になった。

「お前の指図か、あれは」
「…そんなところだよ」

 そう言われ、前のめりだった姿勢を正し、近藤は大きな手で、ぽん、と膝を打った。

「なら安心だ。またお前の得意の、敵を欺くには味方から、というヤツなんだろうが、今回ばかりは肝が冷えたぞ。だってなぁ、もし」

 斉藤が本当に
 「ね」へと寝返るつもりなら
 最悪、斬らねばならんことにも

 言わずに済ませた近藤の言葉は、重々承知だ。分っていても、身の内に震えが走るぐらいには、思い知っている。もとより、伊東のことを無関係にしても、そうなり兼ねなかったことを彼は知っていたし、どんな手段を使っても、それを回避しての今の結果なのだから。

「斬らねばならんのは、寧ろ」
「あぁ、皆まで言うな。つまりはその為の斎藤、なんだろう? 納得した。いや邪魔をしたな、歳」

 もう一度満足げに膝を打って、近藤は帰っていく。少し閉め方の甘かった障子を閉めようと、立って行って手を掛けた時、今一つの気配に土方は気付いた。渡り廊下の手前、柱に背を寄り掛けて、いったいいつから其処に居たものか。

「『そんなところだよ』ですか」

 青い青い顔色だった。月明かりのうちの青を、彼ひとりだけが、全部吸ってしまったかのようだった。

「あの時、あの人に会って欲しかったのは、こんなことの為じゃなかった。私は、貴方が失くした…」
「何も失くしてなんかいねぇさ、あいつは隊の幹部だ。だから俺の刀だ。俺の刀は、俺のところ以外に行きようがねぇよ」

 淡々と、けれど強く言い放った土方の言葉に、一拍置いて沖田は笑った。自信なんかそんなには無いだろうに、この人は、自分自身すら騙そうと必死なのだ。夜の闇の中に、微かに残るほどには声を立てて笑い、沖田は身を折って肩を揺らしていた。

「…じゃあ、戻ってくるんですね、あの人は」
「戻るさ。そう命じた。ふりで『ねの字』に尻尾を振ってるんだ。あいつは俺の指示を拒否しなかった」

 けれど、笑っていた沖田の顔から、すう、と笑みが引いたのだ。

「よかった…。あの人だけでも、戻るんなら」

 そう言った彼の言葉に思わず、ふい、と土方は視線を逸らす。土方の元にだけは、既に届けられている分派の人員。その中に、藤堂の名があることを、近藤でさえまだ知らないし、沖田が知る筈はないのに。けれど沖田は、もう一度、無理にでも笑んで、こう言った。

「選んだのは『彼』だ。みんなが止めるのを分かってて、止められないうちに遠ざかっていった。戻れないのは、承知の上でしょうよ。覚悟を決めた相手には、こちらも覚悟を決めて見せなくちゃあね」

 言い終えると、す、っと後ろへ下がって、やがては沖田の姿は闇に溶けた。

「……いい覚悟じゃねぇか」

 土方は言って、己が身を顧みた。たとえ言葉だけだとしても、心は揺れに揺れているとしても、離れるもんなら離れていきゃいい、と、沖田は既に藤堂を振り切っているのだ。比べて自分は、斎藤を諦める気はないし、きっと、諦め切れない。

 あいつとの何かを忘れておきながら、
 まったく、身勝手なもんだ。
 
 伊東を弑す。だからこそ強くそう思う。奴らを解体しなければ、斎藤はこちらには戻らない。上辺だけ手放し、また手に入れるには、それひとつだけしか、方法はないと心に刻む。

 それより先のことは、
 またその時考えりゃいい。
 斎藤、おめぇも、俺もな。

 空いっぱいを覆っていた雲が、いつしか僅かばかり割けて、月明かりがそこから零れ出ていた。ほんの僅かの光でいい、それを静かに、けれど貪欲に、求め続けていくだけだと、彼は思っていた。




 
 その頃、暗い夜道で、とある二人が並び歩いていた。どちらも若い男だった。新選組から分派するものたちが、伊東の妾宅に招かれ、酒肴を振る舞われたその帰りである。他の皆はずい分後ろに遅れている。

「あえて問いませんけど」

 そう言ったのは藤堂で、

「あぁ」

 とだけ返したのは斎藤だった。

「でも私も覚悟の上で『今』を選びましたから、先生を守り抜くつもりです、あなたがたとえ…」
「好きにすればいい。俺も好きにするさ」

 藤堂はじっと斎藤の横顔を見ていた。曇りも迷いもない、真っ直ぐ前を見据えるその顔は、このところの隊の中で見ている斎藤の顔より、ずっと静かに見えた。彼は本当に、隊に嫌気がさしたのかもしれない。それ以外のことなど何も無いのかもしれない。

 間者だとか、刺客だとかいうものは居たが、違うと藤堂は思いたかったし、今に芯から信じられる時が来ればいいと思っていた。

「伊東先生は立派な方ですよ」
「…そうかもしれない」
「斎藤さんにも分かる時が来ます。きっと近いうちに」
「……」

 真っ直ぐな眼差しが横顔に痛くて、斎藤は少し歩調を遅くした。後ろを歩く皆と混じりたいからだと思ったのか、藤堂は彼よりももっと歩みを緩め、やがては彼らと混じった。斎藤だけが、まだ一人離れていた。

 伊東は人物だ、と、もし仮にわかったとしても、それには何の意味も無い。心底、どうでもいいことだ。志も、信念も、目指すものも、無くていいし、無い。
 
 俺の中にあるのは、あの人だ。ずっと、あの人だけでいい。二度と会えないとしても、また会えるとしても。

 見上げると、頭上に高く、月。重い雲を払うように光るその姿は、遠くとも酷く眩しくて、目を逸らせなくなった。あぁ、きれいだな、と、柄にもなく呟いて、彼もまた伊東派の者たちの中に、すうっと混じった。












 またこの一話も短く終わってしまって、そこんとこが少し残念。そして近藤と土方、土方と沖田、藤堂と斎藤のシーンはこうして書けても、斎藤と土方のシーンはいつ書けるのかなって、淋しくなる。というか、再会まで何を書けばいいのかなっ(まだ考えてないぞ、いつものことだけど!)。

 次は順調に行って、夏の間に書けたらいいなぁ、って思います。読んで下さった方、ありがとうございましたっm(- -)mペコリ