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腐り果てた俺が、
きれいなあんたを穢さぬよう。
遠くへ、遠くへ、遠くへと。

姿の見えない場所へ
声の聞こえないところへ、
かおりの届かない遥かへと、
遠ざかりたいと請う。

傍に居る今も、
この身の裂かれる地獄だから、
行き先は、
戻れぬ地獄で構わないのだ。




 
 ガタっ、ガタタ…ッ。

 自室に戻り、気が抜けたのだろうと思う。普通に開けようとし、やっと隙間の開いた障子に土方は掴まり、そのままへたり込んでしまった。膝に、腕に、力が入らない。指からも力が抜けて、とんだ腑抜けだと自身を笑う。だが…。

 真っ平だと、言われた。
 傍に、居たくないと。

 そんなことがそれほど辛いか、堪え難いか。零れた血の赤と血の匂いと『彼』の手の甲から生えていた。鋭い刀の切っ先。そこにぴかりと弾けた銀の、月の、明かり。言葉と同時に、自分を見据えた昏い双眸を思い出せば、ガンガンと土方の頭は痛み出した。

 へたり込むほどの想いをしている、その理由が、ひたひたと足元に寄せてくる。あっという間に嵩が増え、腰まで、胸まで、喉元まで。喘ぐ口にもそれは流れ込んで、息するのを阻むのだ。


 さ、斎藤。
 お前、まさか。
 脱走するつもりか。

 やめて、くれ。
 そんなことをしたら、
 どうなるか。

 新選組副長、土方歳三。
 この俺が、
 どう、せねばならないか。

 
 ごろん、と穴に転がった、サンナンの頭を思い出す。黒い塊がこちらを向いて、血の気の無いその顔形は、サンナンではなく「彼」だった。

「う…ぐ…っ」

 懐紙に吐いた。苦しくて、涙が止まらなかった。勿論、彼が大事に思う他の誰であっても、苦しいに決まっているけれど、それでも想像の中で、胴から離れたその首が、斎藤のそれであったことが、あまりに苦痛で、そんなことを想った脳を、頭蓋からこの手で引きずり出したくなる。

「なん、で…。どう、して……」

 ひゅうひゅう、と喉で風のような音を鳴らしながら、くの字に体を折り曲げて、のたうちまわって、爪が剥がれそうなほど、畳にその指を立てた。

「斎…藤ぉ…。斎……」

 その時、部屋に誰かが近付く気配がしたのだ。土方は散り散りに砕けた理性を掻き集め、吐いた後を始末し、着乱れた襟を整え、廊下の外に膝付いた気配に、それが誰であるかを悟った。

「……山、崎か…」
「御意に。急ぎ、副長のお耳に入れたいことが」

 目で部屋の暗さを確認し、伸べてあった夜具から、たった今起き上がった態を取り、土方は己直属の監察に入室を許した。山崎は聡い男だ。土方が普通ではないことを、障子の外に居るままでも悟るだろう。悟られる屈辱と、危険さを感じないでもなかったが、あくまでもそれは私情だ。

「失礼を」

 す、っと音無く障子が開き、屈んだまま膝で進み入ると、山崎は一切顔を上げず、畳に付いた己の膝を見ながら、こう告げた。

「私の憶測を含めて、であることをお許し下さい。兼ねてより窺っておりました『ね』の字、のことで」

 顔をそむけたままの土方のことを、山崎はどう思ったか。声は平素のままだったが、もたらされた報告は、平素のものなどでは有り得なかった。
 
 伊東甲子太郎、他、余名、分派の計画あり。

「…分、派」

 土方の脳裏から、一度は斎藤のことが消し飛んだ。報告を終え、山崎が辞してからも、彼の体は微動だにせず、まるで「組のこと」のみ考える絡繰ででもあるかのように、半刻、一刻と、長い時間が過ぎるまで、土方はじっと考えている。伊東のしようとしていることの、先の先まで、読み切らねばならない。

 読み誤れば、或いは、何もせぬままに居れば、いずれは「組」に、深い亀裂の入ることとなるだろう。ただし、慎重派の伊東のことだ、未だ大きくは動くまい。今はだから「知る」ことだ。より深く、細かく、ヤツの懐の奥の奥まで、手を入れて探るがごとく。それには、間者が必要だ。

 脱走、脱隊、以外の方法として、分派を持ち出し、伊東は腹心と、志を同じくするものを連れ、この組を抜けようとし…。

「……そう、か…」

 ぽつり、そう呟くと、暗がりに土方は一本の蝋燭を灯す。顔を上げてその揺れる火を眺めながら、土方はじっと、斎藤の姿を思い出していた。この先、どれほどの間、見られなくなるか分からない、その顔を。 




 それからひと月ほどの後、あの神社の前で、土方は斎藤に会った。幾夜も幾夜も、そこで彼の通るのを待った後にである。

 黒い着物を着、墨塗りの提灯を下げ闇の中で息を殺し、まるで暗殺でも計っているかのような風情だったが、彼は伸ばした手で闇の中からいきなり斎藤の腕を掴み、有無を言わせず彼を引き止めたのだ。

「っ、離せ…ッ!」

 土方だと悟られた途端、斎藤からは鋭い拒絶が跳ね返る。けれど、ギリギリと指の食い込むほど強く、彼の腕を捕えたまま土方はその声に怯まず、低くこう言ったのだ。

「三番隊隊長、斎藤一、たった今お前に、お前の望んでいるだろう任を与える。組を、裏切れ」

 斎藤の見開かれた目が、土方を映していた。ずっと彼の手首を強く握っていた指の力を、土方はゆっくりと緩め、黒提灯の中の火を吹き消した。新月の夜のことだ。刹那にして辺りは闇に飲まれ、ただただ何も見えない中で、土方の声が斎藤の耳に届いていた。

「そうまで俺ぁが嫌いなら、丁度いい。触れられたくもねぇ、姿を見たくもねぇ、その感情を隠さず振る舞え。伊東の側につき、あいつらと共に、組を出ていけ」
「………」

 こんなにも真の闇なのに、寧ろ真の闇だからこそ、零れ聞こえる息遣いで、斎藤の顔が見える気がした。今きっと、顔を歪めている。見えぬ土方の顔を、見られぬままに斎藤は凝視しているだろう。山崎から伊東の謀の報の聞いた、あの夜の土方と同じく、しばらく見れぬだろう顔を、焼き付けるように。

 土方の指が、ほろり、と解かれて、斎藤の手から離れる。

「そして、いずれは、俺の傍らに戻れ」

 斎藤。

 と、息だけの声で、土方は彼の名を呼んだ。いつも、二人きりの時にしか聞けなかった、何処か甘いような、かすれた声だった。

 一人、深い暗がりのの中に残されて、遠ざかる土方の足音も掻き消えてから、斎藤は刀の柄を、未だ包帯のまかれた左手で撫でる。彼は低く、承知、とそう言った。例え誰も聞いていなくとも、それ以外の声は、どうしても、出せなかった。








 
  

 



 
 ちょっと短いですが、頑張ったので、お許しくださいっっっ。

 っていうか、更新が遅すぎてそれだけで許されない気がしていて、ゴメンなさいっ。いっつも組ってこうですよね。あぁ…(> <)。でもさ、続き書こうかなって思って五話ほど読み返したら、面白くってドキドキしてさっ。自画自賛だ? しゃーないじゃろ、好みの通りに書いてるんだもん、花刀好きなんだもんっっっ。

 斎藤に、真っ平だって言われて、傍に居たくないって言われて、まさか脱走する気か、とまで考えて、彼に切腹を言い渡すことまで思って、嘔吐している土方さんが、いじらしくてもうどうしようかと思いました。

 記憶がなくてもさぁ、もう好きなんだって自覚してるんだろうよ、彼の心の底はっ。ってことで、花刀44話、書けましたっ。

 はぁぁ、44話って…。なんだよ……もー…。


17/01/02