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どうして忘れられたのか。
考えなかったわけじゃない。

あの人が忘れたのは、
酷く醜い、穢れ、なのだ。
きれいなあの人に、
まったくそぐわない
腐って汚い、穢れ、なのだ。

守ると言いながら、
きっと俺はあんたを汚す。

そんな俺が、
どうして傍に
居られるだろうか。





 さやさやと竹の葉が鳴っている。枝に在りながら。茶色く枯れて散りながら。地面に積もりながらも。さやさや、さやさやと。その音の中に、近付く足音が聞こえた時、その人はもう、斎藤の目の前に居た。

 慄いて、踵を返そうとして、鋭い叱責に会う。

「副長助勤斎藤一っ、三番隊隊長としての、責務を果たさぬ理由を述べよ…ッ!」

 土方が何のことを言っているのかなど、明白だった。浪士捕縛の報告を、下のものに任せて自身ではしなかった。隊長からの報告を、言伝あったのにも関わらず、それも無視した。そのまま、仕方なしと捨て置かれるとも思えない。

「ひじか……っ…」

 言い掛けて、斎藤は唇を噛む。名で呼ぶなど、更なる叱責の種にしかならない。けれど、その言葉が聞こえた筈の土方は、一瞬、確かに震えたまま、黙っていた。

 二人の間に流れているのは、さやさや、さやさやと繰り返す、竹の葉の音。蛍が、見えたような気がした。この春浅い季節に、そんな筈はないと思っても、その残像を斎藤は追い掛けてしまう。彼を、腕に抱いた感触が今も欲しくて、堪らない。

 斉藤から見た土方は影だった。土方から見た斉藤も影だ。双方提灯など持っていない。月明かりは竹の隙間からほんの僅かばかり、顔も当然、見えてはいなかった。

 凍ったように動けない斎藤に、浅い闇の向こうから土方が、こう言った。

「……申し開きは、まぁ、いい」

 急に解けたように、口調を崩したその声。もうあと数歩、土方は斉藤に近付いて、神社の石段に腰を下ろしたのだ。

「ちょっと、座らねぇか? ここに」
「…出来、兼ねます」
「どうして? そもそも、その物言い、らしくねぇ気がする。正直、俺ぁは今、おめぇのことを、よく分かっちゃぁいねぇんだ。それでも、そぐわねぇ、って、思うぜ?」
「……」

 跳ね返ってきた沈黙に、短い嘆息を土方は零す。石段に腰を下ろしたことで、腰の脇差が酷く邪魔だった。それを抜き取り、膝上に横にする。

「俺も、少し、らしくねぇ話をしたくなった。なぁ、斎藤。おめぇら助勤は、俺の刀だよ。その下の隊士ひとりひとりもそうだが、その中でさ、隊長職以上を任せたおめぇらは、これ以上はねぇってほどの、選りすぐりの名刀なんだぜ。隊は俺の体だ。局長は隊の頭。その隊を守る刀を、一本一本、検分して手に入れ、揃えて、磨いてきたきたつもりなんだ」

 何の話を、と正直斎藤は思っていた。こんな場所で呼び止めてまで、何故、今。でもその先を土方が言った時、この話の理由が分かった。

「なのに、俺は何でかうっかり、その大事な刀の一本のことを、忘れたらしい。武士として、どうなんだ、って話だよ」
「…副、長」
「そこ、違うだろ? 忘れた癖に何をって思うだろうが、目が鋭いのはどうやら健在みてぇでな。お前ぇに、ずっと違和感がある。床に着いてる俺を、ずっとお前ぇが見舞わなかったこと、その目が俺を、とことん避けて居やがること、それでいて、こないだのサンナンの墓の前での、あれ」
 
 もはや、斎藤は金縛りにあったも同然だった。指の一本も動かせないのだ。ただ、耳が土方の声を聞き、その影でしかない姿を見ているだけで、息が止まりそうだった。

 きっと、何を問われても、声など出ないだろう。それでも問われたくはなかった。なのに。

「なんで」

 あの時、あんなことをした?

 そう問われるのだと、斎藤は覚悟をした。あの接触は斎藤にとって、抱擁、以上の一瞬だった。強烈な印象が、今も身の内を焦がすほどの。

 けれど、続いたのは別の言葉だった。

「なんで、俺ぁは、お前ぇを忘れた? 他の誰を忘れるんでもねぇ、お前ぇを忘れて、なんでこの胸の奥に、空洞が出来たようになってんだ? お前ぇは、俺の、何だ?」

 どくん、どくん、と、斎藤の心の臓が鳴っていた。「それ」が言えるものなら、とうに言っている。石段に腰下ろしたままで、土方は身を捩じって、斎藤の影を見ていた。

 その時、とうとう月が、竹林の切れた上へと現れる。まるで音のする如く、銀の光が二人へと注いだ。土方に見えたのは、酷く、怯えたような、斎藤の顔。彼は言ったのだ。

「どれほどの刀であっても、時には、腐る。俺は…」
「ふ」

 短く呼気が聞こえて、銀の光の下を、その時白い影が走った。翳りを半身に纏ったまま、その白は、六間ほどの距離を、一瞬で消し去る。閃いたのは一刀に弾けた月の明かりだったろう。天空に在る月の銀と、同色の光が刀で跳ねて、一つ。あと、刹那の後に、もう一つ。


 き  ぃん … ッ  


 鋭くも美しい、その音。散った火花は、青い。

「…なぁ、斎藤。腐り刀も折れぬほどの、俺の脇差、だと?」

 ぐ、と上から更に重みを掛けられ、斎藤の身が、僅かに沈んだ。刀身と刀身がこすれ合って、ちりちり、と、また青いものが散る。間近から真っ直ぐに、斎藤の目を見た土方の眼差しが、つ、と斜めに逸れた。彼の頬が、ひとすじ、切れている。

「ほらな、ちゃんと今も、自慢の一刀、だ」

 押し切るような圧力を、ふ、と解かれた途端に、斎藤はその場に尻をついた。まだ月明かりの下にあるままで、土方の目が面白がってそれを笑った。

 自慢の一刀。
 
 その言葉が、斎藤にとって、どれほどの宝玉だったか。この身の内の腐った心を、その醜いケダモノの本性を、知らぬからこそと分かっていても、歓びは抑えようもなく、それが身を縛った鎖を、あっと言う間に溶かすように思えた。

 でも、それを、捨て置けるものではないのだ。

「ぐ…っ」

 押し殺す声と共に、土方に届いたのは血の匂いだった。斎藤は、抜身の刀の柄を下にし、刃を上に。そうして、その切っ先の上に、己の左の手のひらを。

「な、何してやがる…ッ」

 駆け寄ろうとした土方の身を、斎藤の声が鋭く制した。

「士道不覚悟。浪士を捕縛したことのみを報告させ、隊務に差し障る程の、負傷あるを隠した。隊長自ら報告に出向く、その決まりを無視したことの顛末が、これです」

 月の明かりに血の赤が、滴り、落ちる。真っ青な斎藤の顔は、わらって、居たのだろうか。
  
「……なんで、そこまで…」

 土方は、彼に駆け寄ることが出来なかった。斎藤が、血を流しながら己を見据えるその目に、怖気たのだ。一歩たりとも、動けなかった。

「真っ平だ。もう、あんたの傍に…居たくない」

 腐り刀のこの腐臭を、そのきれいな体に、移すぐらいなら。そうして芯から嫌われるぐらいなら。まだ、望まれている今のままで、傍を離れる。もっと、ずっと遠くへと。

 血の匂いだけを残して、斎藤が去った後、土方は、抜いたままだった脇差を、音無く鞘へと帰らせた。

「それでもお前ぇは、俺の刀だ」







  

 





 
 わけわからん人のまま居て貰わなくちゃならないので、実は、とても苦労してます。土方さんは思慮深い人でもあるけど、多分、自分の直感や衝動にも従う人だから、思い出せなくてもあいつのことは信頼していい、って思ったんだろうけどね。

 その、もしもいきなり、信じた相手に犯されたりしたら、どうなの?っていう、さ。まぁ、書いてみたいんですが、今は我慢致します(えっ、じゃあいずれ書くの?っていう、ね////)。

 しかし、また間が開いてしまってすまんでした。数か月間、色んなことで身辺が落ち着かず、こんなに待たせてしまいました。ごめんなさいーっ。


2016/07/18