花 刀 42
消えた記憶が欲しいなら、
欲しがればいい、求めればいい。
これから先、何度も何度も、
傷付きたければ傷付けばいい。
けれど、それが致死の傷ならば、
私が代わりに受けましょう。
どうせ先に逝く身です。
ただこれだけは言わせて欲しい。
あの人は、
私が貴方に選んだ。
貴方を守る刀の一振り。
影のように添い、
きっといつでもあなたを守る。
例えあなたが忘れても。
沖田の声を聞き、土方の体から知らず強張りが解けた。本当は、別の誰かじゃなかったことに安堵した己の思いを、当の土方は気付いていない。
「総司か。何用だ、こんな夜半に」
「なんだか眠れなくって。部屋に居たままぶらっと出て来ちゃったから、寒いんです。まず開けて下さいよ」
「悪いが、もう寝るところだ」
土方が言うと、沖田は暫し黙った。障子の向こうで、行燈の火がゆらゆらと揺れているのが分かる。少し不自然に感じるほどの沈黙が流れて、やがて聞こえたのは短い息の音。それと同時に、ふい、と揺らぐ火が掻き消えた。
「…冷たいなぁ、なら開けなくていいですよ。眠れないから来たなんて、ほんとうは嘘です。こんな夜更けじゃぁ、きっと誰も聞きゃしないでしょうが、小さい声で言いますからね。障子越しでいい、寄って下さい、もっと」
「何…」
息が、止まる。土方はそれ以上、何も言うことが出来なかった。沖田が何を言おうとしているのかが分かる。言われる通りに、額が触れるほど障子に近付き、耳を欹てながら、段々と大きくなる自身の心臓の音を持て余していた。
そうだ。
何故気付かなかった?
俺が何を忘れたのか知っているのは、
斉藤だけじゃない。
総司は、俺が怪我をした日から、
何くれとなく俺を気にかけていた。
つまり…。
「ねぇ、ひじか…」
言い掛けた言葉を遮るように、音立てて障子が開いた。何処か怯えたような顔を一瞬見せて、土方は開いた入り口の前から身を翻す。
「入れ」
「あぁ、よかった。芯まで体が冷えてくとこでした。もう二月なのに冷えますよねぇ」
まだ火が入っているのを分かっているように、沖田はすぐに火鉢の傍に行く。赤々と燃える炭に手をかざし、さっきのことなど忘れたように、彼は笑っていた。土方はその傍に寄ろうとはせず、勿論差し向かいで火にあたろうともせずに、離れた場所で横を向いている。
「春はすぐそこに来てる筈なのに、まだ夜は寒いですよねぇ、去年の今頃は、どうでしたっけ。月末頃でも梅がまだだったから、やっぱり寒くて」
そんなふうに、殊更明るく言う沖田だったが、土方は彼をそのままにはしておけなかった。
「俺は、何かを忘れたんだろう?」
真っ直ぐに切り込んだ土方の、青ざめた顔。部屋の隅に置かれた行灯の、薄暗い光では顔の色などよく見えないが、きっと青ざめているのだろうと沖田には分かった。目の前で赤々と燃える炭に、手のひらと、手の甲と、幾度も裏返し表へ返しして温めつ、やんわりと沖田は返した。
「……せっかちだなぁ、土方さんは」
「知りたい」
土方の震える声が、懇願するような響きを帯びて、そう言うのだ。沖田の言おうとしていたことが知りたい。それは今、自分が知りたくて堪らないことのような気がして、聞かずにはおれなかった。沖田は真顔になり、やっと真っ直ぐに土方を見る。
「聞いてよければ、何を、です?」
「言った通りだ。俺の忘れたことを、俺は知りたい。こんな夜更けをわざわざ選んだのは、それを告げようと思ったからじゃねぇのか?」
「……」
やっぱり、この人はもう気付いていた。ふ、と目を伏し目がちにして、沖田は呟く。
「そんなにも知りたいですか、土方さん」
あなたは聡い人だから、それだけじゃなく、多分分かっているんだ。忘れたのには故があって、思い出さずにこのまま居た方が、平穏でいられるのだと。知ればきっと、辛いのだと。
「どうして知りたいんですか? 今のままでも、何も不自由はない。忘れるなんて、その程度のことだとは思いませんか? 何もわざわざ、思い出さなくとも」
「自由か、不自由か。そんなことじゃねぇ。俺は…サンナンとの約束を守りたいだけだ」
あの日のことが、刺さるような痛みを引き連れて、土方の中に寄せてくる。あまりにも静かに、静かに土方の中にある想い。今は亡き同胞の、今は亡き友の、これは、最期の願いなのだから。
どれほど鬼となろうとも、
己が身に傷を負ったままで、
痛むまま…。
なぁ、サンナン。忘れたままの方が楽なことを、楽になりたいがために、俺は忘れたんだろ。
だから忘れたものを取り返したい。でなけりゃみんな嘘になる。あいつの気持ちを、裏切る。命まで賭したあいつの想いを。そして、今目の前にいるこいつの、きれいだった魂に付いた傷さえも、裏切ることになるんだ。
見れば、沖田の両手は膝の上に置かれ、両手ともきちりとこぶしに握られていた。その両手はあの日、濯げぬ血に染まった両手だった。
「土方さんは、曲がったことが大嫌いですもんね。それに、分らないことがあるのも…」
悲しげに笑って、沖田は立ち上がった。惜しむようにもう一度だけ、火鉢の暖に手を炙り、座ったままの土方を見下ろして言ったのだ。
「そんなに言うなら、自分で思い出したらいいんです。私に聞いたって全部なんて知らないし、良かれと思って、嘘をつくかもしれないでしょ? 私はね、あなたが傷付かないためにだったら、どんな嘘もつくし、どんな曲がったこともするんです」
あなたが思ってくれるほど、穢れのなかったことなんか、もう遠い遠い昔。多摩から京への道の途中の、井戸の底に置き去りにした。未練なんか、ありゃしません。
「なっ、総司…っ?!」
「そんな声で、総司っ、なんて言っても駄目ですよ、土方さん。他を当たって貰いましょう。…あぁ、そうだ」
沖田はふと思い出したように、懐から小さな包みを取り出して、土方の方へと差し出した。開かずとも分かる、甘味屋の包み。
「串団子。ここの団子は美味しいですよ」
ぱしり、と、幾分強い音を立てて、障子が締まった。土方は沖田を強い口調で引き留めることも、その身に手を掛け追い縋ることも出来なかった。何故なのか。
何を忘れたのか、何を思い出そうとしているのか。本当は、怖じけているからかもしれなかった。食べる気にもなれない団子の包みを、唇を噛んで見下ろす土方の耳に、今一度、沖田の声が聞こえてくる。
「…ここへ来るとき、神社の方へ行く斎藤さんを見ましたよ。三番隊隊長殿は、浪士捕縛の報告を怠っているっていうじゃないですか。隊の秩序を乱す行為だ。いつものあなたなら許さない。行って叱責したらどうです?」
「総…」
閉じた障子を開けもせず、一度名を呼びかけただけで黙った。足音が遠ざかり、すっかり聞こえなくなってから、そっと障子に手を掛けて、さらり、そこを開く。
高い空には、光の弱い月が掛かっていた。その月の明かりに呼ばれるように、土方は寝間の着物に羽織を羽織っただけのなりで、誘われるように外へと出た。ひいやりとした空気の中、ひたひた、ひたひたと、彼は歩むのだった。何かに引き寄せられるように…。
斎藤は、何もせずにぼんやりと、古びた神社の前に立っていた。月の明かりの届かない、生い茂った木々の影の中。あの日此処で聞いたことを、彼は思い出している。赤い赤い夕陽の色が、瞼の裏に焼き付いていた。
あの人は、
あなたのことを、
覚えていない。
目の前が、もっともっと真っ赤になった。まるで黒を混ぜたような赤。その赤のせいで、生きる意味さえ見失ったのかと思った。けれど、存在そのものを忘れ去られた訳じゃなかったから、それでもなんとか息が出来た。
あの日から、ずっと止まった時の中でもがいていたような気でいたのに、山南の命日のひと月前、彼の墓前で土方と会い、触れてしまった。あの一瞬に、斎藤は思い知ったのだ。
金輪際、けしてこの人に触れてはならない。近寄ってもならない。触れてしまえば、近くへ寄れば、きっと自分は、獣になる。相手のことなど考えない。ただ、欲しいものを手に入れたいだけの、愚かしい獣に。
そうしたら、
全部が、
本当の終りになる。
「……っ」
両手で作ったこぶしで顔を覆い、ぎり、と奥歯を噛み締めた。さやさやと竹の葉が鳴って、いつぞやあの体を抱き締めたことを彼は思い出いている。さやさやと竹の葉が鳴って、近付く誰かの足音を、その音の下に隠していた。
続
二月末くらいには書けたらな。って思ってたのに半月ずれ込みました。このままじゃ丸ひと月もずれ込むところを、声を掛けて下さった方が居て、こうして頑張れました。組作品も待ってて下さる方がいた…! まだ居て下さった! 嬉しいっっっ。本当にありがとうございます。どうぞ読んでやって下さいっっ。
せっかく土方さんが思い出そうとしているのに、沖田も支えるべく覚悟を決めたのに。斎藤さんは…。あぁ、斎藤さん…っっ。でも彼は自分自身の制御出来なさを、わかってるんだよなって。それも彼の愛なのね。
2016/03/13
