花 刀 41
どれほど鬼となろうとも、
心はいつも柔らかで傷付き易く、
故に傷を負ったままで、
痛むままにゆかねばいけない。
そう言ったあいつの言葉は、
一言一句、
忘れずに覚えている。
でも、
それを裏切ったような、
そんな気がするんだ。
心が楽になった。
どこかで痛みが薄れた。
俺に、いったい、
何が起こっただろう…。
睦月、二十三日。たった一人で手桶を提げて、土方はその墓の前に立っていた。引き結んでいた唇が、ふ、と開いて、彼は小さな、小さな声で話しかける。
「なぁ…サンナン。そっちからなら、こっちは案外よく見えるんだろう? 俺はきっと、何かを忘れた。そいつを、教えちゃくれねぇか…」
ぼう、っと暫し佇んで、やがてはくすりと小さく笑い、着流しの裾を払って、砂利に膝をつく。おのれが殺した人間に、何を縋っているのかと。
「この色でよかったか? あんたの好きな色なんか、知らねぇからな。これにした」
手桶に挿した曇りの無い白の菊と、あざやかな黄の菊を、花活けに飾る。そうして手を合わせることはせずに、すらりと立ち上がり、踵を返した土方は、知らぬ間に真後ろに立って居たものの姿に、声無く目を見開いた。
「……」
「命日は、来月だと思ったが」
土方と同じように手桶を下げて、そこへ花を挿した姿は、斎藤一、だった。花はうっすらと紅色の、小振りの菊花。
「……あんたも、ひとりで来たかったのか」
斉藤はそんなふうに言いながら、おのれの不器用さに慄いている。前に、どんな口のきき方をしていたか、もう思い出せないし、覚えていたとしても、その頃と同じ言い方がうまく出来るとも思えない。
でも土方は気分を害した様子はなく、ただ、どこかぼんやりとして、斎藤を見ていた。
「副長…」
「あ、あぁ。本当の命日は、たぶんここはごった返すだろうからな。だから…」
言いながら斎藤の提げている花へと視線を落し、薄紅の小菊に、少し口元を緩める。似合わない、そう思った。士たる山南の墓に供えるのも、この無愛想な男がそれを提げているのも。言われずとも分かったのか、斎藤はその菊花を見下ろしながら、ぼそぼそと呟く。
「寺の近くの花屋に、もうこれしか無かった」
「いや。賑やかになって、喜ぶだろう」
伸ばされた白い手が、斎藤の手桶から菊を抜き取り、今一度墓に向いて、おのれの飾った花と同じに、それを花入れに挿した。そうして土方はすらりと背を伸ばし、他に何か言うでもなく、斎藤の横を擦り抜ける。ほんの一瞬、手と手がかすめて、何か…痺れのようなものが走った気がした。
意識などする前に、斎藤は土方のその手首をとらえる。酷く驚いたような顔をし、土方は彼の顔を見た。瞬時に振り払われて、斎藤にはそれ以上、出来ることは欠片も無かった。
ただ、ほんの少しのこの時間に、彼は全身で、魂までも傾けて、土方を感じた。貪るように、という言葉が似合う。けれども静かで、酷く静かで、手を捕えた一瞬の衝動が嘘のような。
「知りたいのか…?」
斉藤が、ようやっと声になったような声で言った時、既に土方の姿は、彼から遥かに遠い。けれども、思い出してくれなくていいなんて、一度も思えない。失われたそれは、斎藤にとって、すべて、だったから。
市中見回りの只中に居て、あやしいとあたりをつけた空き家を、三番隊は調べに入った。助勤であり隊長でありながら、己が死番を名乗り出て、その時に、彼は随分とぼんやりしていたのだ。半年以上も土方の傍にはよれず、久々に手が触れるほど近付いたその時のことを思い出して、心ここにあらずで、ぼう、っと。
「隊長、気を付けてくださ」
気が抜けているのが、後ろからでも分かるからだろう。隊士の一人が案じて、そう声を掛けたその時。物陰から、人の気配がしたのだ。
キン…っ。
大きく上へ鞘走らせた斎藤の刀の、はばき近くで火花が散った。朽ちて立て掛けてあった襖の陰で、刀を構えていた男が、斎藤の肩へと刃を振り下ろしたのだ。暗い屋内でその火花の色が残像となり、それ以外には殆ど何も見えなかった。
鍔で刀の動きを封じ、それを己の左身脇に力で下ろすようにしながら、斎藤は肩で相手の体を突いた。だ、だんっっ、と大きく音が鳴った頃、漸く行燈の明かりが後ろから差しつけられる。
埃の白く積もった床で、浪人がひとり仰向けになり、刀を奪われた右手首を、斎藤の草履が踏みつけていた。そしてその牢人の首のすぐに脇に、彼の刀が突き立っている。生け捕ったその男は、組でずっと探していた男だった。
監察への身柄の引き渡しは斉藤が、上への報告は、何故か下のものがした。土方の自室に報告をしにいくなど、したことのない隊士だったため、告げる言葉はたどたどしく、溜息を吐きながらも土方が問わねば、隊名も告げないような有り様であった。
「誰を捕えたのかは分かった、監察が今取り調べていることも。それで? どこの隊だ? 何故隊長が来ない。来るように言え」
「は…っ、は、はいっ、さ、三番隊でありますっ。そのように隊長殿に伝えますっ」
「三番隊だと?」
「は…っ。な、何かっ?」
ようやっと退室できるとほっとしたところへ、またそう問われ、平隊士は青くなって振り向いている。何か叱責でもされると思ったか。
「…いや、いい、来るように言え」
だが三番隊長は来なかった。人を呼び、今一度呼ばせたが、それでも来なかった。どういうつもりだ、と土方は苛立つ。苛立って、どうにもそのままにはしておけず、自室の障子を開け放った。吹き込む風に行灯の火が、ゆらり、ゆらり揺れて消えそうになり、土方は元通りに、障子を閉めた。
何故だかは分らない。けれど一つだけ分かる。認めたくはないが、土方は怖気たのだ。自室に呼び付け、他に誰も居ない場所で、あの男と二人になることを…。
山南の墓でのことを思い出す。一瞬腕を掴まれたあの時、本当にほんの一瞬のことなのに、手首に跡が残った。あの瞬間から、斎藤が"怖い"。
「忘れたのは…」
ぽつりと呟いた言葉も、途中で途切れてしまう。残りは声にすることも出来ず、脳裏だけで続けられた。
忘れたのは、
あいつのことなのか?
もしそうならあいつは多分、
そのことを、
知っているのだ。
聡い土方のこと、本当はとうに気付いていた。他の隊士のことならば、組に所属してもっとずっと日が浅くとも、様々なことを把握している。なのにただ一人、斎藤一のことだけは、ところどころ故意に記憶を抜き取ったかのような空白を感じる。
知りたい。
恐らく、知らねばならない。
けれど。
「あいつのことは、気に入らねぇ。得体が知れねぇ。読めねぇ。分から…ねぇ…」
閉じた障子の向こうに、揺らぐ灯りを土方は見た。人の気配を感じさせぬその灯りに、幽霊をでも見たような顔になったが。
「土方さん、起きてますよね?」
聞こえてきたのは、常の明るさのままの沖田の声だった。
続
超話が進まなかったです。あばば…。でも書けたことはほっとしました。ちょっと延び延びになっていて、ずっと気にしていましたので。
流石は聡い土方さんのこと、自分の記憶がどうもおかしいことには気付いていたのですね。そしてそれがどうやら斎藤に関わることだとも気付いている。だからこそ、気味が悪いとも思っているみたいです。だって、明らかに斎藤はずっと自分を避けていたし、何か月ぶりかに接触したと思ったら、アレ、でしょう。
そして沖田はいよいよ動いたわけなので、もうちょっと土方さんと斎藤さんの間の緊張感を高めたいところです。次回ね。頑張ります。
16/01/04
