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私の中の殆どが、
あの人で埋められているように。
彼の中もきっと、
殆どがあの人のことばかりだ。

それなのに。

わたしなら泣くだろうか。
わたしなら恨むだろうか。
わたしなら願うだろうか。

   思い出して  くれ … と。

あの人を苦しめると分かっていても。
それでも告げるだろうか。

消えた記憶の中で、
とうにあなたは、
俺のものだったのだ。


 


 日に数回、食事を運ばせるごと、身の回りの世話をしに行かせるごとに、慎重に探りを入れさせた。それはもう、間者としてただひとり敵地に赴くが如くの、難しい仕事であった。山崎はそれを見事にこなし、殆どそれを突き止め切れたものと思う。

 即ち、土方が何を分かっており、何を分かっていないか。或いは、何を覚えており何を忘れたかと、言い換えてもいい。

 分かる限りを知って、沖田は山崎の前で、ぽつり、こう言った。

「わたしなら少なくとも、よかった…とは、とても言えない…」

 言ってしまってから、はた、と気付き、沖田が山崎の顔を見ると、山崎は視線を下に逸らして、何も聞かなかったふりをしていてくれた。沖田の聞きたがること、探らせたがることから、おそらくはもう、ほぼすべてを分かっているだろうに、それでも閉じた貝であろうと、していてくれる。

「…さすがは、土方さんの信頼した人です」

 その言葉にも、ただ山崎は口元だけで微かに笑んで、顎を引いただけだった。
 

 

 夕刻、屯所にほど近い神社の前に、人影があった。異様なほど赤い、赤い太陽の光に溶けて掛けて、そのまま消えてしまいそうだったその影に、けれど斎藤は気付いていた。

 そのまま通り過ぎるかに歩き、もっとも距離が狭まった時、斎藤が少しばかり歩調を緩めると、濃い赤色に身を染めた姿が、ひたひたと彼に近付いてくる。沖田、だった。

「斎藤さん」
「……あぁ…」

 すぐにはそれだけしか言わなかった彼が、声にならぬ息だけの声で、あの人のことか、とそう言った。

「えぇ…。聞きたかったでしょう、ずっと。もうあれからひと月も過ぎた」

 土方は既に屯所に戻り、何も無かったかのように副長職に帰っている。何が起こったか知らぬものは勿論、知るものもそれを話題にはせず、何もかもが元の通りに戻って行く、今は、その過程であった。

「…怪我は、大丈夫なのか?」
「えぇ、すっかり」

 それしか問えない斎藤を、沖田は気の毒に思う。あの時土方が何を思い、あの言葉を放ったのか、想像するだに恐ろしく、何も出来ずに近寄れずに、ひと月をずっと隔たったまま過ごした斎藤が、不憫だ。

 おめぇ、だったのか…。

 それは、多摩から京へとのぼる時、土方がならずものに暴行された、あの時のことではないのか。あまりのことに、一時的に失明していた彼を、斎藤が己の素性を隠したまま助け出した、あの…。あれは斉藤だったのだと、けして土方には悟られてはならない筈の。

「斎、藤…さん…」

 どう話すか、どう伝えるか、考え尽くしてきた筈なのに、沖田の舌の上で、言葉はどれも散り散りになってしまった。

「斎…。あの人は、あなたのことを、覚えていない」
「………」

 ゆっくりと、ゆっくりと見開かれる目が、既に赤黒く濁った夕空の色を映していた。震える唇が噛み締められるのが見えて、沖田は急いたように続けた。

「いえ…! 違うんです。すべてを忘れた訳じゃない。貴方と言う隊士のいることも、剣の腕が立つことも、ちゃんと覚えているんです。ただ、あの惨かった日のことは、どちらも綺麗に忘れている。そして…それと同時に、貴方とのことを…」
「…わかった」

 ふらり、と、斎藤は沖田に背を向けた。たった今屯所へ戻るところだったろうに、何処へ行くというのだろう。遠ざかる背を見送りながら動けずにいる沖田へ、ようやっと届くばかりの、小さな問いが聞こえた。

「…会わない方が、いいと思うか?」

 沖田が言葉を返す前に、斎藤は今一度振り向いた。闇の濃くなっていく中、傍らの竹林の影が、彼を檻に捕らえたように見せていた。頑丈な、けれども幻影にしか過ぎない檻の中から、斎藤は言った。

「会えば、思い出して"しまう"と、思うか…?」

 赤く染まった視野の中で、斎藤の姿は遠い。沖田は何も言えなかった。会わない方がいいとも、会えばいいとも、どちらも言葉に出来なかった。答えなど持っていないからだ。

「…暫し、考える」

 その言葉だけを残して、斎藤は赤い闇の中に溶けていく。沖田はよろめき、たった数段のみの神社の石段に腰掛け、顔を覆う。

「どうか…」

 呟かれた言葉の続きはなかったが、それはきっと祈りだったろう。どうか、すべてが少しでも良いように…。

 

 
 それからさらに数か月が過ぎた。季節は夏を越え、秋を過ぎて冬となった。大きい火鉢のある土方の部屋に、用など何もなく沖田は入り浸り、遠慮のない原田や永倉なども時折そこに出入りする。

 土方は煩そうに彼らをあしらったが、出て行けと繰り返すことはなく、少し、彼の持つ空気が変わったと、誰も口にはせずにそう思っていた。

 山南のことでついた傷が癒えたのだろう。あのあとすぐに屯所も変わり、なんやかんやと隊は忙しかったから、少なからずそれらが彼を、どこかでひとつ、変えたような。

「こないだよぉ、斎藤が」

 ふと思い出したようにそう言葉にしたのは、火鉢の一番傍で自分の部屋のように寝そべっている原田だった。

 それは、正月の間のことである。

「斎藤? そういやずっと見掛けないような」
「それだよ、それ。飲みにもいかねぇし、仕事が終わったらすぐ消えちまうし、付き合いがわりぃってこないだ突っかかってみたんだよ」

 ぶつぶつ、ぶつぶつと、永倉を相手に原田が彼を話題にする。元々寡黙で人付き合いの少ない斎藤だが、古くからの仲間には違いない。仲間に対しては誰とでも絡みたいこの男が、いつもの気紛れやお節介で絡んでも、それは別に珍しいことではなかった。
 
「煩がられたろう」

 もう半分笑いながら永倉が問う。原田は着乱れた着物の腹を撫でながら、斎藤を強引に飲みに誘ったことを話した。腕を捕えて無理でも店につれて行こうとした、散々無碍に断ったのち、とうとう黙って付いてきたが、料理屋の部屋へ通される時、結局どこかへ消えていたというのだ。

「そりゃ、私だってそうするでしょうよ」

 ぷ、と吹き出し、沖田がそう言った。

「そんな時の原田さんが、酔えば絡み酒になり易いのは、古馴染みの人ならみんな知ってますもん」

 言った沖田の何気ない言葉は、その実、この一瞬で考え尽くされたものだった。

 原田さんも永倉さんも、斎藤さんのことは仲間だと。
 古くからのよく知っている仲間だと思ってるんです。
 私にとってだってそうなんです。ねぇ、土方さん。
 土方さんの中で今、
 あの人は、どんな人なんですか?  
 
「そういや、あいつが酔ったとこなんて見たことねぇかな」
「新年の宴でも、ふらっといつの間にか一人で消えやがってよ。いっぺんあいつ、べろべろに酔わせてみてぇよなっ」

 そうやっていつまでも続いている雑談を、あまり気のない声で、土方がこう咎めた。 

「要の隊長職が、そう何人も一度に酔うな」
「いやいや、あいつを酔わすだけだって。俺らは別に」

 原田の反論の最中、土方はどこかぼんやりしていた。沖田はそれを見ていた。まるで、よく思い出せない何かを思い出そうとするような顔だった。不安げで、心此処にあらずで。

 火鉢の中の炭がやがては切れた。すぐに人を呼んで足そうとしない土方が、いい加減出て行けと三人を這い払う。文句を言いながらの原田を、永倉が急かし、沖田もその二人について出たが、すぐに彼だけ戻ってきた。

 新しい炭を貰い、それを火鉢に足して、まだ温まっていないのに、両手のひらをかざして、沖田は笑っている。

「どうしたんですか? 心此処に在らず」
「…いや、別に。なんでもねぇよ」

 ふてたような土方の横顔を見て、沖田は思っていた。賭けるのなら、今、だろうか、と。














 大分前の花刀を読み返して、ちょっとだけ方針変更。少しは近付いて貰うことに。でもそう簡単にはいい方に向かわない、でしょうね。この後の史実を眺めて、一人頷くのでありました。読んで下さった方、ありがとうございますっ。

 原田と永倉、書いててなんか楽しかったっす。



15/10/18