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何故かは問わないで欲しい。
ただ、あのひとに近しいものは、
今は傍に居ない方がいい。
あのひとは、矜持の高いひとだから、
見られたくないと、思う筈だから。

これまでだって、何回も、
こんなふうに、胸の瞑れる様な想いを。

あぁ、本当に厄介なひとで、
私など、
たまったものではありません。



 
 その時、土方の傍についていたのは山崎だった。監察ではあるが、山崎の直属の上司は土方一人。命じられていたことをすべて終わらせて、指示待ちの彼に沖田がそうしてくれと言ったのだ。それは、あの日から何日も過ぎた、気持ちのいいほど晴れた朝だった。

 気付いたら土方の目が開いている。びくりと腰を浮かせて、山崎はただ、副長、とだけ声を掛けた。そのまま暫しの沈黙。首をくたりと横へ倒して、土方は怪訝そうに眉を顰めた。

「なに、をしているんだ、こんなところで」

 言ってから山崎の後ろに見える部屋の様子が、自室とは違うと気付き、ここは何処だ、と彼は問うた。

「私の名で空き家を借り受けました。副長が急なお怪我をなさいましたので、動けるようになるまではここに、と」
「怪我…?」
「はい」

 顰められた眉がなお強く顰められる。怪我など、と言い掛けながら身を起こそうとするも、四肢にも体の芯にも力が入らない。当然だ。眠り続けていたとはいえ、もう五日も飲まず食わず、全身を繋ぐ糸が悉く切れたようになっている。

「白湯を。私の家が近いので、後で重湯を作って持って来させます。今少し辛抱なさって下さい」
「……」

 何が起こったのか、と土方は問わなかった。ただ静かに山崎の顔を見返して、その、酷く青い顔から何かを知ろうとする。土方の意識の無い間に、こう言おうと考えておいたことを、山崎は淡々と言った。

 この為に、きっと自分はここに置かれた。このひとを刺激しない為に、適任だと思われた。だからいったん頭の中身をカラに。何も見てない。何も知らない。

 ただ、悪い酒に酔った町人が、
 この人を「壬生狼」と知って絡んだ。

「相手は町人たちですから、得物は素手か、せいぜいが棒切れ。散々打たれた節々はまだ痛むでしょうけれど、今にすっかり治ると、医者が。…刀をお使いにならなかったのは組の評判を気になさってでしょう。でも唯一無二の御身、もっと大切になさって下さらないと、私どもが困ります」

「酔った…町人。あぁ、そうだったな」

 言われて、ちらりと脳裏に何かが見えた気がした。酒臭い匂いを覚えている気がする。呂律の回らない声も、聞いていた気がする。組に対する恨み言を、多分何か聞かさせた。でも、斬りたくなかったのだ。血を、見たくなかったのかもしれない。それとも…。

 これは罰か、と確かにあの時思った。それを、覚えている。
 だからってこんな、と、あんたはきっと、怒るだろうけど。

 サンナンの困り果てた顔が見えて、土方は少し、笑った。 

「すまん、世話を掛ける」
「い、いえそのような。この山崎、光栄ですとも」

 頭を下げて、山崎は顔を隠した。震える体を見せないようにと、すぐさま室から出て来た。屯所へと急ぎ走りながら、沖田の言う意味が分かった気がする。

 なんて危うい人だ。まるで研ぎ澄まされた刃の上を、素足で一人渡っているように。凜と背筋を伸ばした姿に見えていて、本当は、今にも…。ここについていてくれと言った、沖田の眼差しを思い出す。あの日、震えながらあのひとを抱いていた、斎藤一の背中を思い出す。 

「あぁ、本当に…。光栄、ですとも」

 これは大切な任だ。組にとって、とても大切な任だ。これまでの仕事とは勝手が違っても、必ず、命を賭してでもやり遂げねばなるまい。そう思って、沖田の居場所まで、彼は走った。





 土方が意識を取り戻した。

 一番隊は屯所番で、沖田は自室で山崎からその報を受けた。どんな様子だったかも詳しく聞いて、彼は心底安堵しながらも、胸の底がざわざわと騒いで仕方なかった。土方は何も取り乱したりはせず動揺の欠片もなく、山崎がそこにいることを、嫌がったりもしなかったというのだ。意外だった。そんな筈は、と思った。

 だって、あんなことがあったのに。
 その場で舌を噛んでも果てても、
 仕方のないようなことが。
 それに、
 あの時、沖田は確かに聞いたのだ。


 おめぇだったのか。


 あれが何のことなのか彼には分かる。そして斎藤にも分かった筈だった。その証拠に、意識の戻らない土方を斎藤は一度も見舞おうとしない。知られてはならないことだと、ずっと分かっていた筈の事実を、知られたのだと彼も気付いている。

「まだ、私にしか知らせていませんね…?」

 分かっていることをそうして確かめて、しっかりと頷く山崎に、沖田は礼を言った。

「ありがとう、あなたが居てくれてよかった。それで、申し訳ないが、今後もしばし、副長の様子を見に行っておいては貰えませんか。私も、今日の仕事を終えた後に、顔を見に行くことにしますよ。局長や他の必要な人への報告は、私からします」
「畏まりまして」

 その日の夕、屯所番の終わる刻限を待って、ひそりと沖田は外へ出た。念のために随分回り道をして、その間、深く深く考え事をしながら、日の沈んだ後にようやく土方の居場所に着く。

 声を掛けずにそっと戸を引き、次の戸も開けると、小狭い部屋の真ん中に布団。土方は猫か幼子のように体を丸め、薄っぺらい布団を被って眠っていた。いい室だ。そう、漠然と思った。多摩の田舎の貧乏な屋内と、どこか似ている。

「副…。土方さん…? よく、眠ってるんですねぇ。よかった」
「……ナン…」

 答えた訳ではなかろうが、小さく寝言のようなものが聞こえる。サンナン、と言ったのだろうか。呆れ返ったような、からかうような響きに思えて、それだけで分かる。きっと多摩にいる夢を見ているんだ。

「…いさみ、さん…」

「近藤さんもいるんですか…? そこに? いいなぁ、入れて欲しい」

 その夢の中に。

 憂いなど、あっても余程小さかったあの頃。それより未来への夢の方が、ずっとずっと大きかったあの頃の時間の中に、あなたの頭の中の世界に居たい。そしてあなたが、喜ぶことをしていたい。

「…総……」

 あぁ…、私も。

「はい、居ますよ。土方さんの中にも、こうして、傍にも」

 けれど夢は覚める。褪めて、遠い色になる。沖田の声が届いたのか、土方の瞼が震えて、彼の目が今ここにある現実を映した。体を捩じって寝返り打って、土方はまだぼんやりとした顔で、沖田の姿を見た。

「何日、経った…?」
「五日です。過労で具合の悪いところへ、組嫌いの町人に絡まれて、少し怪我を、と、皆にはそう言いました。怪我よりもその疲れを癒すために、閉じ込めてでも休ませろって、近藤さんが」

 何気ない風で、選び尽くした言葉だった。山崎がどう言ったかも聞いているから、それと食い違わないように、そして、土方の心の中に今、何があるのか無いのかを、知りたいがために。

「だいたい、過信が過ぎるんですよ、土方さんは。前も口を酸っぱくして言ったじゃないですか。浪士組で京に向かう途中、あの時も無理が祟って、あなた具合を悪くして」

 心の臓が、胸奥でばくばくと騒いでいる。怖ろしい賭けだと分かっていた。この言葉は土方の心を抉るだろう。忘れたくとも忘れられない汚毒のようなあの過去は、つい数日前の出来事とあまりに酷似している。

「だから、今回も『こんなこと』になったって、分かってます?」

 今にも心臓が壊れそうだ。あなたがどんなにか傷付くと分かっていて、先に自分の体が裂かれるようだ。

「ひじか」
「総司、小言はいい。皆には言いました、って、殆ど起こったそのまんまじゃねぇか」

 無理でも身を起こそうとして、起こそうとして、出来ずにふててまた横になる姿が、沖田の目の中に映っていた。

「……」

 短い沈黙の中、何処かで血の滴る音がする。殺された三人の町人たちの血だろうか。きっと、誰に殺されたかも分からないままにされてしまう、あの男どもの血。殺されて当然の。

「…えぇ、そうですよ」

 そうですよ、土方さん。
 あなたが覚えていないなら、現実もまたその通り。
 ほんとうのことなんか、知らなくっていい。
 嫌なことは、忘れていい。

 表情の止まってしまった沖田のことを、気付いた様子の欠片もなく、土方は煩そうにこうも言った。

「それに、そんな古いことまで持ち出しやがって、覚えちゃいねぇよ、俺ぁは」
「えぇ…? 酷いなぁ、あの時わたしがどれだけ苦労したか」

 覚えちゃいない、というその言葉は、偽りなのか、それとも本当なのか。沖田にはそれ以上を確かめることがもう出来なかった。ただ、聞こえなければ聞こえないでいい、と、そんなことを祈りながら、言葉の中にぽつりと、その名を混ぜる。

「そんな口が聞けるほど元気なら、そろそろ帰営します。元気すぎるぐらいだったって、心配してる人たちに伝えないと、みんなこの狭い室に押し掛けて来ちゃいますから。局長には真っ先に、心配性の源さんや、藤堂さんや原田さん斎藤さん、永倉さんにも」
「言わねぇでいい、そんなもなぁ」

 土方はそれだけしか言わなかった。そこへ混ぜた名前など、聞こえなかったのだと思うが、だるそうに寝返り打ち、また体を丸めた。変に小さく見える姿。

「あぁ、総司。重湯じゃ腹がもたねぇから、もっと精の付くものを頼むと、山崎には言っといてくれ」

 首だけもたげて言ったその言葉に、沖田は深く安堵しながら、同時にうすら寒いような思いをしたのだ。おめぇだったのか。土方は確かにあの時、そう言った。人形のような、死人のような顔をして、そう言ったのだ。なのに…。


 嫌なことは、忘れていい。
 心からそう思うけれど、
 もしも自分が
 忘れられてしまうとしたら、
 きっと、そうは思えない。















 お話がまたちょっと戻ってしまいました。無計画なせいで、本当にすみません。ここは書きたかったなーって思うところも多々あって、そのせいでちょっと話が後退。しかもまだ前話で書いたところに追い付いていません。

 動揺する斎藤を次回こそ書きたいと思いますっ。ゆっくり更新なので、きっと次は夏の終わりごろか、秋の初めころかと! 読んで下さった方、ありがとうございますっ。



2015/06/07