花 刀 34
泣いたらきっと
あの人は自分の罪と思うから
今ここで泣いておくんです
あなたの為でも
私の為でもありません
あの人のためにだけそうするのです
私はなんでもできる
人斬りの人形すらなれる
その為に
血を吐いてでも生きているんです
その夜、幾人もが馬の駆ける音を聞いた。屯所から外へ出て、音はどこかへと消えて行った。このような夜更けに誰が、と幾人もが思っただろう。一騎のみゆえ、何かの知らせの速馬か? それとも…?
不吉な予感と共にそれを聞いたものは、少なくとも三人いた。誰の乗った馬だったのか、想像のついたものはそれ以上に居た。土方は動かなかった。夜が明けるまで、目を見開いたまま天井を見て、切れるほどに唇を噛んでいた。
予感など、当たらぬでいい。
馬鹿な想像だったと、
そんなわけがなかったと、
自身の疑いを笑いたかった…。
「土方副長っ、山南総長の馬がおりません、総長ご自身の姿もですっ」
「………」
障子の奥から、土方の声はせぬ。厩番の隊士が、寝ているものかと思い、さらに声を張り上げる。
「お休みのところご無礼をっ! 総長の姿がありません、馬もですっ。夕べ遅くに馬の駆ける音を確かに聞きましたっ。如何致し…っ」
すらり、と音もなく障子が開いた。半身ほど開いたそこに、立っていたのは土方ではなく、一番隊隊長の沖田であった。虚をつかれて、厩番は言葉を無くし、酷く冷え切った声を、上から振り下ろされる。
「馬の姿が見えないぐらいで、すぐに総長の在不在を確かめに行くなど、随分と気の利いたことを。気の利くついでに、もうひと方へも報告に行ったらどうです? それとも今ここに来たことすら、ご指示通りというわけですか」
「…ひ…、ひぃ…」
静かながら、その恐ろしいような声。剣先を喉に押し当てられたかに、厩番は喘いだ。震えて後ずさるのへ、さらに冷えた声が追い打ちする。
「今は詰まらぬことでこの剣を穢したくない、とっとと去んで下さいませんか」
鯉口を切る、仕草だけ。厩番は尻で後ずさり、みっともなくも廊下から落ちて、腰砕けになりながら逃げ去っていく。逃げた方向は参謀の部屋のある方。それを見て取って、沖田は開けた時と同じ仕草で、すらりと障子を閉じた。
「すみません、続きを」
そう、沖田は言った。二間続きの副長室の、奥の間。その広くは無い空間で、数人の男たちが沈黙している。近藤局長、土方副長、一番隊隊長の沖田、それから他にも、古くからの仲間が、皆。
「追っ手を」
そう言った土方の声に、原田が焦り片膝を立てる。
「何でだよ。相手は山南さんだぜ。ちょっと魔が刺しただけなんだよ。脱退だとかそんな手紙、うっかり筆が滑ったんだ。戻るのを待ってようぜ、きっと戻るって、絶対戻っ」
「文の筆致も綴られた言葉も、冷静で常の通りだった。覚悟の上だろう」
「な、なんの覚悟ですか、ま、まさか死」
「死ぬ覚悟ぐらいなければ、こんな文は書くまい」
先の藤堂の言葉は、酷く動揺して声がかすれていた。続いた永倉の声は、重い。自分達だとて建白書の折、そのぐらいの覚悟はあった。
「覚悟のうえで、何かを為すため、なのやも…しれませんね。サンナンさんのことだから」
ぽつりと言った井上のさらに奥で、口を引き結んだまま、近藤は沈黙していた。がっしりとしたその肩が震えているのが、薄暗い中でも分かった。まだ未明なれど、誰も灯りを灯そうなどとせぬ。互いの顔を、はっきりと見たくない。そんな空気が流れている。
「追っ手は、総司に…。で、いいか? 局長」
皆一様に顔を上げた。沖田だけは身動ぎをしなかった。いや、土方の斜め後ろに居る斎藤も動かなかった。ただ、土方の息遣いを感じていた。それが勤めだというように。
「あぁ、そうだな、総司、頼む!」
「…わかりました」
低く応えの言葉に被せるように、土方が言った。
「見つけたら、直ちに連れて戻れ。文には、隊を脱して故郷へ戻るとあった。どの道を行ったか分からぬ故、どう追うか、どう連れ戻るかは、任せる」
「ええ。…はい、土方さん、わかりました」
笑んだわけではなかったが、笑んだかのように、皆には見えた。そして沖田が去ってから、皆は祈るような気持ちのままその部屋を出た。最後に残っていた斉藤が、何を言うでもなく、土方のすぐ横を通って出ていく。軽く触れた斎藤の袖の感触を、撫でるように、土方は己の腕に触れていた。
魔が差した、筆が滑った。などと、そんな筈はなかった。覚悟の上、と言う方が、きっと余程近い。どう追うか、どう探すかは任せると、土方の言った真意は分かっている。だから沖田はもっとも手間のかかる道を行き、通らぬだろう方向へ向かい、いくつもの遠回りしながら、山南を探した。
今まだこんなところにいる筈がない、居たらおかしい。通るとしてもずっと前に通り過ぎて、今頃はもっともっと先へ行っている筈だ。そう感じながらも、辺りを見回し、大きな宿があればそこに居ないか確かめ…。いないと分かるごとに安堵していた。
『見つけたら、直ちに連れてもどれ』つまりは『見つからぬなら、連れて戻らずでも良い』と言う意味だ。土方が本当に山南を捕えようと思うなら、追っ手が一人など有り得ぬ、すぐに見つからなかった場合の指示がない筈もない。
二日、探して戻るか。それとも三日は探すべきか。そう思いながらも胸のあたりが苦しくて、その苦しい理由を、やがては沖田は知ることになる。
「ここだよ、私は」
探し始めて一日が経ち、目立つ大通りの大宿の、通りに面した窓から、山南が手を振っていたのだ。沖田は目を逸らした。怒りともなんともつかない思いで、胸が潰れそうだった。追い打ちのように澄んだ山南の声が、また一度。
「沖田君、ここだ」
顔を上げた沖田を眺めて、山南は悲しげに笑ったのだ。
「すまないね、辛い思いをさせて」
宿の山南の部屋で、沖田はそれでも一度は告げたのだ。口にしたのは土方の言葉と風情をそのままに。
追っ手は私一人に。見つけたら連れ戻れと。
探すべき道も示さず、どう追うかも私に任せると、
土方さんはそれだけを言いました。
剣を振るうしか、能の無い私に、
そんな難しいことが、出来る筈もないのにですよ。
山南さん、おかしいと思うでしょう?
そうは思いませんか?
山南は静かに笑い、手ずから入れた茶をすすり、染みるように静かに笑って、こう言った。
「そうですね、沖田君ひとりにその任は随分難しい。わたしも協力しましょう、そんなことも、これで最後だろうから」
沖田は震えて、ほんの少し項垂れた。表情は微塵も変えず、ただ、ぱたぱたと涙を零した。どうし泣くのですか、山南はやはり澄んだ目で問うて、沖田は食い縛った歯の間から、こう言った。
「今しか泣けないからですよ。あの人の前で泣いたら、私の泣いたことまであの人は自分のせいにする。だからあの人の前では平気でいなくちゃならない。そう思うからですよ」
その時になって初めて、山南は沖田の気持ちに気付いた。君は、と何かを問い掛けると、沖田はそれを遮るように、畳の目に向かったままで言ったのだ。
「独り占めしたい欲も、嫉妬も、とうに越えました。山南さんも、そこまで行けたら楽になれたのに。他のことなんかどうでもよくなるぐらい、あの人に傾いてたら、まだまだ共に行けたのに」
やがては涙の枯れた後、沖田は淡々と言った。
「介錯は、私が」
山南は畳に両手をついて、深く、頭を下げた。
「ああ、そうだね…。宜しく、お願い致します」
告げるべきを告げ終えて、そのあとは潔く死ねるように、君が見守っていてくれ、と。
続
こんなシーンだというのに、何故だか淡々としています。死をも覚悟した、常の日々。この時代はそうだったのだと思う。特にここに描く彼らは。
切腹、斬首のシーンも書くとは思いますが、あんまり怖くなく精神を書く感じでいきたいと…。難しそうだなー。頑張ります。怖いシーンになってしまったらすみません。
山南さんがこんなふうに死んだこと。いえ、自身の命により死んだことは、当然土方さんの心に重くのしかかりますよね。それがその後の展開に引きずられていくわけで。暗い話ですみませぇぇぇぇぇぇぇぇ…。(フェードアウト…)
ではまた来年っ。
13/12/14
