花 刀 33
剣の腕は彼に遠く及ばぬ
いつしか傍近く居るようになった
あの男のようにも今更なれない
あぁこんな私でも
まだここに必要だろうか
こんな私でも
出来ることはあるだろうか
ここに居ることを君は許すか
ここに居ることを
私自身は、許すのか…
「ねえ」
その時、彼は少し女々しいような声の掛け方をした。市中のとある川縁で、流れる水を眺めていた山南にである。酷く冷えた早朝だったから、道行くものの姿は殆どない。
「沖田君」
弾かれたように顔を上げて、それでも山南は静かに沖田の名を呼んだ。酷く疲れたような顔をしている。もう何日も、眠れていないような顔を。なのに山南は沖田を気遣った。
「よく眠れているのかい? 病は何より、体力が無くては克服できない。もどかしいこともあるだろうが、まだ若いのだから、時間はいくらでも」
「困ってましたよ、土方さん」
山南の言葉など、端から聞こえていないように、沖田はそう言った。目を少し怒らせて、彼は間近から山南を真っ直ぐに見ている。
「どうすりゃサンナンを黙らせられる。あいつが俺を邪魔してくる、ってね」
「……黙らせる」
ほかりと空を見つめたままで、やはり所詮、と山南は思っていた。所詮は自分如きの言葉など、土方は真剣に考えてはくれぬ。考えるに値しないと、既に思われているのだ。虚しい思いが胸を占めて、欄干に深く身を乗り出した。
流れ流れていく川の水。土方はこの水のような男だ、一度流れる場所を定めたら、容易にはそれを変えない。共に同じ方向へ歩むものをしか許さない。虚しい、虚しい、このまま誰の役にも立てず、朽ちかけた樹のように、黙って動かず何も言わず、誰をも動かせず生きて行けというのか。どうせ何も為せないのなら、すっかり朽ち落ちていなくなれと…。
「山南さん。私は今、確かにあの人の言葉そのままを言ったけど、それをそのまま飲んじゃ駄目ですよ。いったい何年あの人を見てきたんです? 本当に疎んじているだけだったら、黙らせたいとか邪魔されるとか、そんなことさえ言いやしません」
わかるでしょ? 沖田が困ったように山南を見ている。年よりも随分幼く見える顔で、じっと。
「落ちないで。気をつけて。山南さんが一番したいことが何か、ちゃんと考えて下さい」
乗り出していた体を、腕を強く掴んで引き戻し、沖田ははっきりそう言った。言い終えるとあっさり背を向け、屯所とは逆の方角へ橋を渡り切り、何故か土手から川の傍へと下りていく。姿はすぐに見えなくなった。
戻ろう、屯所へ。そうして考えてみればいい。もしも土方にとって、自分がただの邪魔者ではなく、無用のものでもないのなら、いつかは耳を傾けてくれるやも知れぬ。例え沖田のように、剣で役立つことがもはや出来なくても。
顔を上げて見た橋の袂に、伊東が立っていた。そして彼は山南の傍に来て、こう言った。
「一番隊隊長どのが、居ませんでしたか?」
「え、いや…」
「私の話でも、していましたか…?」
真っ直ぐな問い掛けに、山南はたじろいだ。
「いや、今日は…」
「今日は? つまり、今ここに居たのは沖田君だが、私の話が出たのは、また別の時に彼と話した時だった、と? …あなたは、嘘の付けない人だ」
笑う顔が不気味に思えた。でもそれはほんの一瞬のこと、橋の上に伸べられた、枯れて葉の無い枝を暫し見上げてから、伊東もまた真っ直ぐに山南を見た。
「副長殿は今、確かに揺らいでいる。貴方の箴言は彼に届いているのですよ。やはり貴方を選んだ私の目は間違ってはいなかった。嘘の付けない貴方に今一度問いましょう。貴方がもっとも為したいことはなんですか? もっとも恐れることは? このまま行っても隊の先は長くは無い。揺らいでいる彼に、今こそ道を示すことです」
山南さんが一番したいことが何か、
ちゃんと考えて…。
私のしたいこと、為したいこと。
もっとも恐れること。
いつの間にか、また山南は一人になっていた。体が冷え切って、震えて、その震えは止まりそうになかった。ゆっくり考えるような時間が無い。気持ちばかりが焦って、また土方に会おうかとも思った。でも面と向かって、面倒臭そうにあしらわれると思うと、心が萎えていく。
人の口から聞けば、自分はまだ何かを為せると思えるのに、自分自身で自分を良く評価することは出来ない。酷く女々しい自分に嫌気がさして、それから数日、山南はまた床についた。
あれからひと月もが過ぎて、深夜、山南が一人で過ごす居室に、コツ、と何か音が響いた。体が怠くてすぐには起きられず、足掻くうちに閉じていた障子がほんの隙間だけ開く。月明かりを浴びて、そこに見えた顔を、山南は一瞬、嫌悪した。
斉藤一の顔だった。
「あんたを、密告したものが居る。ねの字と共に、あんたが組を裏切ると」
それだけ告げて、斎藤の姿は闇へと溶けた。開けた障子に縋るようにして、山南は名を呼んでいた。一度ではなく、二度、大きく。
「斎藤君…っ。どういうことだそれは。斎…っ」
消えた筈の斉藤が、もう一度目の前に現れて、山南の体を押し戻す。自身も入って、障子をぴたりと閉めてから、薄闇の中で斉藤は言った。
「言った通りだ。ただし、辿っていったら文の主は、ねの字に傾倒する隊士だった。…だからあんたが、踊らされているのではないかと」
「何故…」
動転して、山南の口から言葉が零れた。
「何故、君が言いに来た。それは誰の意見だ…」
問われた斉藤は酷く不可解そうに眉根を寄せる。今ここで、そんなことを問う真意が測り兼ねた。
「たった今、副長の部屋に投げ文があったんだ。表沙汰にせず、まずはあんたに直接問いたいからと、あの人が言った、だから」
「こんな刻限に、君が土方君の部屋に…?」
「そうだが」
「いったい、何用で…っ」
山南の頭に、かっ、と血がのぼった。平気で答えた斎藤の姿にも怒りがわいた。けれどそれは寧ろ、斉藤にではなく土方への怒りだった。
私が今までどんなに、
土方君のことや隊のことを憂いていたと思ってっ。
こんな私でも君に道を示せたらと
何度、疎まれても嫌がられても、考えては悩み、
ずっと言葉を伝え続けてきたのに。
なのに
君は
一隊士と、そんな
「何用でだ。言いたまえ、斎藤君」
言い放ち、顔を上げた山南を、斎藤は黙って見下ろしていた。いつの間にか山南は座り込んでいて、自力では立ち上がれないほどに身を震わせていたのだ。その姿を斉藤は静かに眺め、そして哀れむような目をして、見つめていた。
「俺はあんたのように学が無いから、間違っているかもしれないが、今、そのことがそれほど大事だとは思えない。密告の文は副長だけでなく、局長の部屋にも投げられたかもしれない。今はあんたに、裏切りの嫌疑がかかろうとしているところなんだ。だからあの人は、誰にさせるより速い手段として、俺をここへ走らせたんだろう」
一度言葉を切って、斎藤は極軽く、山南の着物の襟を掴んだ。
「仮に、あんたの思っているような理由で、俺があの人の部屋にいたのだとしても、それでも、あの人は俺を使ったさ。あんたに掛かる疑いを、早く晴らす為だけに」
ゆっくりと、斎藤は山南の襟を離した。そのまま崩おれてしまいそうな姿に、尚更憐みがわいた。
「俺は自分の部屋へ帰る。副長はあんたのことを、ひとりで待つと言っていた」
斉藤の姿は、今度こそ闇の中へと消えた。残された山南は、放心したような顔になり、閉じた障子を随分長い間見据えていた。
こんな愚かな人間は
もう、要らない。
誰でもそう思うだろう。
私自身でさえたった今、嫌気が差した。
真っ当なことを言っているつもりで、
導くとか、道を示すとか、
愚かにも程があるというものだよ。
真っ直ぐなつもりで、
もっとも醜かったのは私だった。
それでも君に改めて欲しいことが、
ひとつだけあるから、
それをお終いに、
告げて旅立とうと、思う…
続
長いこと続きを書かなくてごめんなさいっ。やっと書きましたっ。
そしてですねっ、今回の山南さん。すみません、山南ファンの方に、惑は殺されそうですっ。でも心弱き人だと言う印象があり、このような展開になってしまいました。あぁ、ぶって下さい(心の中だけで)存分にっ。すみませんでしたぁぁぁぁ。
珍しく最後にも、詩?的なものを添えたのは、山南さんの心情を次回まで持ちこしておくのが辛かったからです。そんな感じですっ。はいっ。次回は来月書きたいと思いますっ。私も展開が気になるからねっ。
13/11/04
