花 刀 28
いいえ
私はけして死んだりしない。
生き尽くしたと思うまで、
この世にしっかり
縋りついていてやるんです。
病なぞ、いったいなんの話でしょう。
先生、ほら、そこ。
刀掛けに刀がありますね。
それほど私をお疑いなら
あの刀で、今から先生を、
三度は殺してご覧にいれますよ。
乾いた竹刀の音がする。幾度も、幾度も。通りすがった斉藤は、足をとめて道場の中を眺めていた。素振りをしている筈の面々は、揃って皆、端の方へ身を寄せて、一組の隊士が竹刀を打ち合わすのを見ているのだ。
面小手をして顔は見えないけれど、腕の立つ一人が誰なのか、道場の外から見ている斉藤にもはっきりと分かる。切られて空気さえも血を流しそうな、鋭い打ち込み。鳴っている音は重くはないが、その代わりに随分と高かった。速さの故だ。これがもしも真剣なら、相手の皮膚どころか骨までをも断つ。
「ま…っ、ま、負け…負けました。こ、降参です…ッ」
打たれては苦痛の声を上げ、それでも少しは持ち堪えていたらしい若い隊士が、必死になってそう言いながら、急いで面を外して頭を下げる。顔の色は怯えで真っ青だ。
どよ、と、周囲がざわめき、負けた男が道場の右奥に引っ込む。そこで打ち身を摩ったり、しょげた顔をしているのは恐らく、たった今も勝ったこの男に、打ち負かされたものたちだろう。ざっと十人。
「次…っ!」
きり、と立ってそう言った声はやはり沖田のもの。そこへのんびりとした声がかかる。
「まぁまぁ、総司、今日のところはそのくらいにしといちゃあ。打たれっぱなしの皆がいい加減気の毒だ。お前も病み上がりなんだし。元気な病み上がりもあったもんだがなぁ」
温和な声でそう言ったのは井上源三郎で、さすがの沖田も「源さん」の言葉を聞かなかったふりなど出来ない。肩をすくめて面紐を解き、薄っすらと汗をかいた顔を曝した。
「じゃあ、今日はこれまでにしておきます。手合せしてくれた皆は、ありがとう。平素の訓練に戻っていいですよ、その気力があるようでしたら」
少々の皮肉も混ぜてそう言うが、からりと明るい子供のような笑い顔だったから、そう腹を立てるものもない。
「源さん、それじゃ、今日は出掛けている局長と副長に、沖田はもうすっかり大丈夫だと後で伝えてくれますか。特に副長には念入りに言って下さいよ。まったく心配性のあの人にかかったら、私などは一生床から出させて貰えないですよ」
笑ったまま言いながら、沖田の眼差しが、すい、と流れた。道場の外から、誰かが自分を見ている気配に気付いていたのである。しかし視線を向けた場所には、庭木が一本立っているばかりであった。
見事、と斉藤は芯からそう思っている。病み上がりとてあの太刀筋ならば、恐らく誰にも引けはとるまい。足捌きも身のこなしも、どこにも何も遜色は無い。だが、それでも…斉藤は気付いてしまっていた。剣先の「ブレ」。時折不自然に息を継ぐ間。
面で隠したあの顔が、辛さに歪むのを、見てしまったような気がした。あぁ、もしもあれが俺なら、あれほどまでの剣筋が、たかが病であんなにも崩れて、立て直そうとも体が持たない、など。もしもあれが俺なら、血を吐くほど、きっと苦しい。
試合中だというのに、沖田が自分の視線に気付いたと分かり、斉藤はこうして逃げて屯所の外へ出てきてしまったのだ。都合よく今日は非番だが、どこへいく当てもない故、川に寄り添う道の途中で、無駄に足を止めて川面に視線を流して暫し。
暫し、ほんの一刻ほど。
無理にでも頭を空白にして、何を考えるでもなくぼんやりと、その視線の先のきらきらとした水面を見ている斉藤。その横を、不意に人影が通って行く。直前まで気配すら立てずに、土手へと下りかかるその姿は。
背の高い草の中に踏み入って、その先までは行かずに腰を下ろすと、その男、沖田はそこで仰向けに体を投げ出してしまった。草の中に姿をすっかりかくして、彼はぽつりと言った。
「…見抜いたでしょう、さっき」
「………」
返事の無いのも構わずに続ける。草が風にさやさやと鳴り、途切れて聞こえるその声を、いつしか斉藤は耳をそばだてて聞いている。
「我ながら、ずるい遣り口だ。気付かないか、気付いても気のせいと思ってくれそうな人しかいない時に、せいぜい元気な振りして、それを後からあの人の耳に入るようにして」
「…だが」
気のせいのような小さな声が、かすれた音を纏い付かせて零れる。前を向いたまま、表情の一つも変えずに斉藤が言ったのだ。
「だが、医者が『もう治る』と言ったんだろう」
「あぁ…それ、土方さんから聞いたんですか? えぇ、言ったでしょうとも。私が無理に言わせたんです。死にたくなくば、と脅して」
士道にあるまじき、ですね。首を落されても文句は言えないや。くしゃりと顔を歪めてそう言って、沖田の視線が斉藤を見る。揺れる草越しの無表情に、彼はいったい何を見たのだろう。
「嫌だなぁ…。そんな顔、しないでくださいよ。別にすぐ死ぬわけじゃない。幸い、若さ故に今は病より私の体が勝っている。そんなところのようですから。なら、勝ち続ければいいだけのことでしょう」
返事などなくとも、沖田の声はぽつぽつ続く。川の音も草の音も、さよさよさらさらと響いて、流れて、止まらない。何かが零れる音のようだ、と沖田は思うのだ。とめどなく流れる有限のもの。命の、ように。
いつ死ぬかなんて、わかりゃあしません。
でも、いつとも知らない終わりに怯えて、
剣から手を離してなるものですか。
そうでしょう、斉藤さん。
死んでもいいのか、なんて言われても知らない。
寧ろ、剣を捨てた瞬間に、私は死ぬんだと、
そう…思うんですよ。
あの人を守れない自分など、
生き永らえる意味がないのですから。
私、どこか間違っていますか。
ゆっくりと沖田は起き上がり、光る川面に流れる何かを見た。白い野草の花だった。戯れに子供が折って投じたものか、それとも何か意味ある花か。それが二人の前を過ぎて行き、遠ざかって行こうとするその時。沖田は不意に立ち上がって、その花を追い駆けるように川縁へと下りて軽く駆けた。
膝を付き、片手を強く先へ伸べたが、指がかすめるも届かずに、花はずっと流れて行く。くるくる回りながら、沈みもせず。立ち上がってそれを見送ったあと、小さく苦笑して、沖田は土手を上ってきた。草を掻き分けながら斉藤の傍まで来て、擦れ違いながらこう言った。
「ありがとう、聞いてくれて。少し、気が楽になりました」
元より、斉藤と沖田は秘密を分け合う二人であった。その代償に何を失おうとも、口にせぬと決めた過去。知っていると気付かれぬよう、ずっと秘めると決めている、あの日のこと。図らずも、その事が二人を同胞にしたのだ。
斉藤は土方のことを思い、暫しして我に返ると、もう沖田の姿は視野になかった。
まだ、夜半までは暫しある時刻。かた、と廊下で微かな音が鳴った。すぐに振り向いて、閉じた障子を開けに行きかけて、土方は無理にでも顔を引き締める。
「誰だ」
「………」
「悪いが今日はそういう…」
言葉ばかりは冷淡に、断りの言葉を告げている途中、みなまで有無を言わせずに障子が開いた。さらりと擦るような音をたてて、斉藤と土方の間の隔たりが取り払われる。
「…っ。忙しいんだ。悪いが、またに」
逃がそうとした視線は既に捕らわれていた。こうして部屋を訪った時の斉藤の目に、土方は実は心底弱い。求められていることが、ざくりと刺さるほどに分かる。一瞬息が止まって、それでも無理に声を出して、何とか帰らせようとした土方の唇は震えていた。
文机の上に広げ、たった今読み返していた「ふみ」が、ばさりと音を立てて落ち、揺らぐ蝋燭の明かりに、近藤の字が浮かび上がっている。そこに、伊東甲子太郎の、名。旅先の近藤からのふみである。確かに「そういう」気分にはなれない夜だったのかも知れぬ。
「あんたの言うのを聞いていたら、いつ触れていいのか分からない」
そう言いながら、斉藤は障子もまだ閉めぬまま、土方の体を引き寄せて抱いた。声を押し殺して、荒くもがく所作も生々しいが、伸ばした土方の指先が真っ先に障子を閉めている。
「馬鹿。お前の言うなりだと、あける間がねぇよ」
土方は思っていたのだ。新たな人物の加入で、きっと組は変わっていく。そのことを思案する筈の夜だったものを、流されるのか、こんなに簡単に。そんなことでは駄目だと思うのに、叱責の言葉など出てこない。
そして戸惑いつつも掻き抱かれる土方は、ほんの微かな違和感を感じた。この男の身に、何かがあったのか、と、そう思う。土方の耳朶に触れた唇が、一言一言、区切るようにこう言った。
「あんたは、出掛けていたようだったが、今日、沖田さんが道場で体を慣らしていた。随分、回復、したようだった」
「…そうか…。医者も、随分回復したと言っていたしな」
嬉しさに、ゆらり揺れている土方の声を、もう聞きたくなくて、斉藤はすぐにもその唇を塞いだ。そんなに簡単に信じないでくれ、俺の下手な、見え透いた嘘なんか。いつかこの先「失った」時に、あんたはどれだけ泣くだろう。そんな時に俺は、あんたを少しでも支えられるのか。
「斉藤…?」
「…あんたが欲しい。あんたをくれ」
「しょうがねぇ犬っころだ。そんなに腹が減ってんなら喰やぁいい」
もう抵抗をやめた土方の喉に、斉藤は己が顔を隠すように唇を触れるのだった。
続
甲子太郎さんが名前だけと、あと源さんが出ましたが、あまり深い意味はない…。今のところは、ね。でも甲の字さんについては、何か土方さんの不安を煽るような立場になって欲しいとか思いました。斉藤さんはそれを見てぐらぐらすればいいよ、うむ。
そしていつの間にか、いっぱし?の恋人同士みたいになってる二人ですが、い感じですね! お二人さんっ。今は楽しんでいたまえよ(ふふふ、と笑う惑さんは、ほんと黒いと自分で思う〜) 遅れましたが花刀更新です。読んで下さる方ありがとうございますっ。
12/10/19
