花      27






ひゃくやつ
ひゃくとお

視界が揺らぐ

にひゃく

さんびゃく

叱られるかな

だけれど鍛錬ならば
無茶なくらいが今はいい
そうすりゃ心が空っぽになる

それが何より楽なんです




 医者が許す程度のことなんて、全然、ちっとも役には立たない。沖田はほんの一日でそれを悟った。無理をしないように、疲れを残さないように、たったの半刻動いたら、あとは一日休め、だなんて。そんなことじゃあ、剣の持ち方だって忘れてしまう。

 二日目、沖田は随分と早い時刻に床から出た。それでもちゃんと、自分の体調と相談しながら、自分なりにしたいような鍛錬をする。天然理心流のあの太い木刀。はじめからあれでは無理だから、その半分の太さの枝を切って、枯草の敷き詰められた林の中で素振りをする。

 最初の日はゆっくりと三十。次の日は少し早く五十。そうやって少しずつ体を慣らして、暫く経ったその日の朝は、出来るなら百五十まで、と決めていた。少しは大変かもしれないから、もともと早朝なのにもっと早く起きて、まだ空は夜の色を残している。

 どうしてその日に限って、そこを通ったのだろう。通るのはそこじゃなくてもいいのだし、いつもは違うところを通るのに。勿論、何かを知っていたなんてことはなくて、だから、その時は本当に驚いた。

 病み上がりの身で無理な鍛錬。見つかったら咎められるから、いつものように足音を忍ばせて、その庭を通りすがった時、土方の部屋の障子がほんの僅ばかり開いたのである。足を止めて、とっさに木の影に身を隠して、沖田は彼の姿を見た。

 あぁ、匂い立つような、その姿。
 
 土方は髪をきちりと結ってはいなかったし、着物もちゃんとつけていなかった。一度ほどけてしまった髪を、首の横で緩く纏めて、寝間の着物を軽く羽織って、前で掻き合わせただけの格好。そんな無防備な姿をして、障子を少しだけ開けて、彼は夜の明ける前の空を見る。

 こんなに暗いと言うのに、首元に覗く土方の素肌がほんのり染まっているように、沖田には思えた。離れているし、そんなわけはないと思うのに、その肌が甘い香りを放っているような気さえした。そしてそれが、今、傍らにいる人のせいだと、思ったのだ。

 もちろん、沖田が見ていることになぞ気付かずに、土方は障子を開けたまま、そっと室内に視線をやる。そしてほんの少し表情を緩めて、言ったのだ。

「斉藤…。そろそろ夜が明ける」

 土方は己の言葉が正しいかどうか、確かめるようにもう一度空へ視線をやって、東の空がほんのりと明るみを帯びているのを見て、淋しそうな顔になった。

「起きろ、斉藤。起きて身支度して、もう行ってくれ」

 傍にいて欲しくて切なくなるから、
 離れたくないと思ってしまうから、
 俺がはっきりとそう思ってしまう前に、
 早く、ただの部下に戻ってくれ。

 そこまで言葉にしなくても、そう言っているように、沖田には思えたのだ。かすれたような、少し甘えてでもいるような、弱い声。頼るような、すがるような、そんな声だったから…。



「あぁ、よかった…」

 そう、沖田は言った。障子がぴったりと閉じられて、中の気配ひとつすら、聞こえないところへと歩いて離れてから、ぽつりと、零すようにそれだけを言った。

 幸せなんですねぇ、土方さんは。
 貴方のそんな顔、初めて見た。
 そんな声だって初めて聞きいた。
 本当にきれいだった。
 目が潰れるんじゃないかと思うくらい。
 そして、苦しい。
 胸が潰れるかと思うくらい。

 沖田はいつもよりも深く深く、林の中へと分け入った。獣くらいしか通らないような場所まで来て、屯所からは遠く離れて、それからやっと木刀代わりの枝を構えた。ばくばくと、心臓が胸の奥で跳ねている。息遣いも酷く乱れていて、それでも、すぐに素振りを始める。

 十、二十、三十… 八十、百、百五十。

 あぁ、無茶だよなぁ、と、心のどこかで思いながら、腕はちっとも止まらない。そうして涙も止まらない。ぽろぽろ、ぽろぽろと、零れ続けて視野など目茶目茶。ぎゅ、と強く目を閉じると、瞼の裏には土方が見えた。ついさっき見た姿だった。嗚咽が、一つ、喉から零れる。

 百八十、二百、二百二十、二十一、二十二。

 もしも、今ここで血を吐いて、気を失うほど苦しい思いができたなら、さっき見たのを忘れられるかもしれない。

 二百五十、五十一、五十二。

 なんで吐けないんだろう。こんなに苦しいのに。

 二百七十、七十一。

 喉に溢れる血の中に、邪魔な気持ちを沢山混ぜて、吐き出して捨ててしまいたい。憎しみとか、悔しさとか、嫉妬とか。

 二百八十。

 あぁ、木刀って、こんなに重かったっけ。駄目だなぁ。体がすっかり鈍っているんだ。まだまだ鍛錬しなくちゃ駄目なんだ。雑念なんか忘れるくらい、まだまだ、もっともっと、もっと…。

 二百九十……九十三、九十五。

 あぁ、目が眩む。何も見えない。私はまだ、泣いているのかな…。

 


 そして、沖田が閉じていた瞼を開いたとき、一番に見えたのは土方の顔だった。夢かと思って、ぼんやりと見上げていたら、それに気付いた土方が、赤い唇を、きゅ、と噛んで、唇が切れそうなくらい強く噛んでから、言ったのだ。

「し、心配、掛けるんじゃ…ねぇ…ッ」

 怒ったその目に浮かんで、零れる前に急いで拭われていたのは、涙なのかもしれなかった。土方の膝の上に頭を乗せられ、いっぱいに伸ばした彼の腕に、体のそこかしこを撫でられて、止まっているように思えていた心臓が、確かに打っていると意識する。

 呆けたみたいな言葉が零れて、え、何、どうしてです、なんて、やっと言えた時、そこが一人で鍛錬していた林だと分かった。
 
 あぁ、そうか、無理をし過ぎて倒れたんだ。それでそのまま疲れて気を失うか、それとも倒れたきり眠ってしまうかして、部屋を空にしてたから、心配させてしまったんだ、こんなにも。

「土方さん」
「…なんだ…っ!」

 尖った声が、それこそ噛み付くみたいに降ってきて、沖田は無意識に手を伸ばしていた。触れた頬は温かくて、もう、誰かのものと分かっているのに、それでもそうして触れることが出来たのが、酷く嬉しかった。

 やっぱり、死にたくなんかないなぁ、
 どんなに辛くても、いられるだけここにいたい。

「私の事、少しは大事ですか…」
「……ったりまえ、だ…」

 言葉はよく聞こえなかったけれど、ぶるぶると震えている土方の肌が、全部の答えをくれていた。傍には土方以外誰もいなかったけれど、沖田にそれ以上したいことはなかった。

「ふふ…」
「何がおかし…っ」
「なんでもないんです。なんでも。嬉しい、って思ったんです」

 すみませんでした、心配かけて。

 そう言った沖田の胸の上に、土方は己の額を伏せて嗚咽した。少し乱れた後ろ襟の中、その右肩に、小さな噛み跡が見える。それを見ないように、沖田はそっと目を閉じるのだった。












 沖田のターンでして、斉藤は欄外?にしか出て来ませんでしたねー。この話の中で、もしかしたら沖田はまだ子供なのかもしれません。土方の体に性的なことを感じないわけではないけれど、それよりもなによりも、思ってもらって、案じてもらうことが、ここでは嬉しかったのだと思います。

 斉藤が一番でも、少なくとも自分は三番までには入ってる。それでいい。と、そう言っていましたしね。もちろん、斉藤だって土方の体目当てだけではないですけど、ワンコ斉藤にとっては「体」「性的なこと」も重要みたいね。手に入れたことを実感する手段でもあるのかもしれませんですよー。

 なんとか一か月過ぎないうちに、27話が書けましたっ。読んで下さっている方、ありがとうございます。


12/09/12