花 刀 23
蛍は
澄んだ水を知っていても
揺らぐ風を知っていても
人の心なぞ知らぬだろう
何を見たとて
それを気に止めたりなぞ
ほんの少しもせぬだろう
抱擁も
口付けも
睦言もなにも
仮に見たとて聞いたとて
それが何とは分からぬだろう
それでも、今は…
「よせ…」
土方は斉藤の肩に頬をつけたまま、震える声でそう言った。やめろ。続けて息だけでそう言った。逃げる所作はない、嫌がる素振りもない。だけれど己を抱きすくめている斉藤が、ほんの一瞬、息を詰めただけで、ぶる、と震えるように首を横に振っている。
「そんな時じゃ、ねぇんだ、よ」
言葉だけで抗うのは、随分酷い仕打ちだ。斉藤はそれでも、腕の力をゆっくりと抜く。それでも…。離れる前に、土方の首筋にそっと唇を付けた。そのまま軽く食むようにして、唇を触れさせたままで呟いて聞かせる。
「だったら、こんなことも許さないでくれ。その刀で、どうでも…斬るなりなんなり」
「…斬る? お前を…? 馬鹿なことを」
足元には蛍が一匹、戻ってきている。流した視線で、土方の目がその光を追う。くく…、と彼は小さく笑った。
「応じるか、斬るか…、か? 随分、酷ぇ選択肢だ。間ぁ取っとくさ、今日のところはな」
土方は片方の手を斉藤の背へと回した。刀を握る右手を、だった。
「……くなる。だから、お前ぇも養生して、早く」
「え…?」
沖田が聞き返すと、土方は言葉を止めて眉間に皺を寄せた。もともと難しい顔をしていたのが、ますますしかつめらしい顔つきになり、それでも言っていたことを噛み砕いて言い直した。
「つまりだ。新選組もいよいよ上に認められて、これからますます忙しくなるだろう。だからお前も早く体を治せ…って言えば分かるかっ? 総司っ」
「嫌だなぁ。土方さん、わざわざ言い方を易しくしなくたって分かりますよ、それくらい。それに私、そんなに大層な病人じゃあないんですから」
起き上がっている沖田の手が、布団の端を軽く撫でる。様子を見に現れる仲間たちから、治せ治せと言われるたび、それほど自分の体が「悪い」のかと思えて、本当はもう聞きたくない。
「…でも、そこに座ってるヒトは」
ふい、と視線を上げて沖田は土方の後ろへと話し掛けた。
「治せとかそんなこと、ひとつも言いませんね。私を一番分かってるのは、もしかして土方さんより、斉藤さんなのかなぁ」
「な、なに、言いやがる」
ぐ、と一瞬詰まってからそう言って、土方は自分の後ろを振り向いた。少し離れた部屋だというだけで、同じ屯所内では共も何もないものを、土方の後ろから斉藤がついてきて、ふたり一緒に沖田を見舞っているのだ。沖田は不意に、表情を明るくして言った。
「土方さんは忙しいんでしょう? 顔に書いてありますよ『こんなとこに来てる暇なんか、本当はねぇんだ』ってね。いろんな難しい話や小言はもう聞いたし、あとは斉藤さんから見舞いの言葉を貰いますから、お仕事しにいってください」
「…ったく、口の減らねぇ」
ぶつぶつと言いながら、土方は立ち上がって踵を返した。部屋の外へ出る時、そこへ座した斉藤の肩に、着物の袖が軽く擦れる。すぅ、と静かな音を立てて障子がしまった時、斉藤は無意識の動作で自分の肩に指先を触れていた。
ふと見た沖田の顔が、ついさっきまでと違って青いのは、気のせいだろうか。今は夜で、蝋燭の灯りしかないから、ただそう見えるだけか。それとも…。
「…すみませんね」
「とは…?」
詫びの言葉を言った沖田に、心底意味が分からないふうで、斉藤が言葉を跳ね返した。
「あのヒトを守っていく対の刀、…って、自分と貴方のことを思ってたんです。でも、存外、私は…ぼろ刀だったみたいで」
こんな弱気を聞かせた相手が、もしも土方や近藤や、他のよく知った仲間達だったら、反射のように沖田を叱責しただろう。
弱気を言うな。
お前は大丈夫だ。
すぐに治る。
医者でも無いのに、そんな気休めや、そうであって欲しいと願うままの、優しい鋭い棘で、沖田を刺しただろう。長く長く沈黙したあとで、斉藤はそれでもこう言った。
「だが、程度によっては、それほど『すぐ』ではないとも聞く」
「…なんだか残酷なようでいて、結局斉藤さんも優しいなぁ」
沖田はゆっくりと体を横にして、向こうを向いた格好で背を丸めた。仰向けよりもその方が余程楽なのだが、それでも喉が、ひゅぅ、と鳴いた。顔を見られたくなくてこうしたけど、咳をするのも見られたくなくて、無理に堪えて上擦った声になる。
「…もっと、ちゃんと掴まえといて」
「……」
「もっとっ、もっとですよ。あの人なんて、我が侭で凄い意地っ張りなんだ。酷いことがあった時とか、辛いことが起こった時とか、すぐに一人になりたがる。平気な振りして強がって、どんどん壊れてって、勝手に折れそうになっちゃうんですよ。私がいなくなったら、これから誰がそれに気付くんです? だからっ。…斉藤、さん…っ。頼ることを、あの人に教え…て…」
喉で風を鳴らすような音は、もう斉藤の耳にも届いていた。手を差し伸べて背をさするべきなのかも知れなかったが、そんなものは酷く余計な気がして、ただただ斉藤は沖田を見ていた。沖田の体の分だけ形になっている、布団の上をただ見つめていた。
「………承知…」
「ふ、ふ…っ。たの…みまし」
「承知した」
ざ、と音がしそうなくらい勢いよく立って、斉藤はすぐに部屋の外へ出た。辺りには人が居なくて随分静かで、その廊下から遠ざかっても、沖田の咳の音は追いかけて来た。途中からただの幻聴だったのかもしれないが。
もっと遠ざかろうとしたその足が、銀杏の木の下にいる人影を見て立ち止まる。その人は項垂れていて、空にかかる月みたいに白い顔色で。
「何を話した…?」
「…なに、」
「総司と何を話したんだ? あいつぁ俺には心配かけるまいと、強がって見せる気がしてなんねぇ。お前には本心を言ったんじゃねえのか? 具合のこととか、不安なこととか」
「…なにも」
隠し事のありそうな顔をしたまま、斉藤はそう言った。元来嘘など得手じゃない。
「ただ、あんたのことを心配していた。無理をするんじゃないかと。ちゃんと見ていてくれと」
「何を、馬鹿な…。つ…っ…!」
斉藤は土方の腕を取った。右の腕の肩に近い位置を、大きな手の平で袖の布地ごと掴み、容赦の無い勢いと力で引きずるようにして歩いた。行き先は土方の部屋で、そこへ着くまでの間、どれだけ抗われても放さない。大声を出して、人に見られていい状況かどうか、土方も一瞬で理解して口を引き結んでいる。
「強がるのはあんただそうだ」
部屋の仲間で強引に上がりこんで、障子を閉めた途端にそう言った。
「その上、意地っ張りだそうだが。確かに同感だ」
間近から、しかも正面から真っ直ぐに見つめて、斉藤はいつもの口調のままで言うのだ。
「言おうか、…正直、俺も怖い。怖くなった。俺だって、あんたの傍にいつまでもいられるとは…」
「言うな」
「病でなくとも、いつ敵方や不逞浪士の刀に斬られ」
「…言うな…ッ」
怒りをぶつける代わりに、土方は斉藤の胸を打った。そのまま額を彼の肩につけて、もう何も言わなかった。例え「士」であろうと、本当に死を恐れぬものなどいない。己の死を恐れないとしても、近しいものの死は恐ろしい。
「もう…言うな、わかった。わかっ…」
抱き締めた肩を、細いと思いながら、斉藤は抱く腕に力を込めた。もう、やめろ、とも、よせ、とも言われなかった。
続
スランプ中の惑さんでして、不調なのでこんな感じになりました。次回は斉藤と土方さんが…。いやいや、もういい加減進展しようよ、ねっ。
12/04/23
