夢 の 殻   2





 ふみが欲しい。無事でいると確かめたい。そう思って数日が過ぎた。不安な思いは消えずに、何も手に付かない日々だった。割ってしまったびいどろの盃の欠片を拾い集めながら、化野は唇を噛んでいる。

 日にかざしていたという光るもの。
 季節に似合わぬ陽炎。
 そして、ふいに姿の見えなくなったギンコ。

気のせいだとか、見間違いだろうと、商人はおのれの見たもののこと言っていた。けれど、もしも見間違いじゃなかったら? 
 
 目には映らぬ不可思議な世界と、あいつはどこかでいつも繋がっているのだ。ここにいる時も、ぼんやりと何か見えぬものを見ているギンコを、俺は幾度、見て見ぬふりしてきたか。聞いても仕方ない。困ったように笑まれるだけだ。だから黙って、酒をすすめる。

 そしてほんの少し、いつもより近く見えるあいつに手を伸ばし、触れて、俺の方を向かせて、俺の手管で声を上げさせ、せめて共寝の間だけでも、確かにギンコはここにいるのだと思いたくて。

 あぁ、今わかった。そうだったんだ。
 俺はそんな気持ちで、お前を抱いていたんだな。
 だから触れられもせず、姿の見えぬお前が、
 こんなにも恋しい。会いたい。

 ギンコ、お前今どこにいる。俺が見上げるこの同じ空の下にいるのか? ここに流れる風の元、風の先にお前はいるのか? こことは隔たれた世界に、連れ去られたりなぞしていないか…?

 商人の言葉が、ふと耳の中で鳴った。手にしている欠片が、日を浴びて、きら、と光る。

『あれは何か、ガラスのような…』

 顔を上げ化野は奥の間の、普段は使わぬ抽斗を開けた。長く使っている間に縁が欠け、いくつも細かな傷が入り、新しいものを用意してからは、ずっとしまったままにある筈の片眼鏡。布にくるまれている筈のそれが、どこにも無くなっていた。

 いつから無いんだ? 俺は場所を移したりしていない。この前の冬の間、うっかり新しい方を見当たらなくして、見つかるまでは古い方を使っていたのだ。そして、こんなこともあるのだからと、すぐに取り出せるここにしまったのをちゃんと覚えている。

 他愛のない雑談の一つと、それをギンコに話して聞かせたことも。

「ギンコ、お前なのか…? 持って行ったのか」

 …俺の、代わりに?

 ふと浮かんだ思いに、震えが来た。どういう意味で俺は震えたのだろう。理由も分からないのに、震えはおさまらず、化野は身支度をした。出掛ける支度だ。動きやすいなりに着替え、水や食べ物を用意し、笠を持ち、里人へは細かく文を書いた。

 常に使う薬の類はわかりやすく用法を記し、もしかしたら数日家を空けるやも知れぬと書いた。一番近くに住んでいて、身軽に脚を運んでくれる医家の友の名前と連絡先も、忘れず記した。

 こんなことは、里を預かる医家としては無責任だろう。そうと分かっていても止められなかった。こんなに不安で、恐ろしくて、なのにここで待つだけでいるなど、到底出来る気がしない。

「…待っていろ、ギンコ。すぐに行くから。お前の居場所へ、俺がいくから」




 商人に教えられた原へと、化野は走るような気持ちで向かっていた。行って戻っても半日と掛からない距離だが、急げば息も上がる。ギンコが其処に居たのはひと月も前の話で、急いでも仕方がないと思ったが、それでも脚は緩まなかった。

 辿り付いて草を踏み分け、一面若い短い草の原を踏み、化野は縋るような気持ちであたりを見回す。何もない。人影もなければ変わったことも見当たらず、結局は何にもならなかったかと落胆しかけた時、それを、見つけた。

 背の高い草の奥、きっとわざと押し込んであるのだろう、それはギンコの、木箱だったのだ。心臓が跳ねる。近付いて膝を付いて、そっと引き出して、紛れもないあいつのものだと確信する。
 
 目立った印の一つもなくとも、俺には分かるさ。何度も何度も目にした。特にあいつが縁側から発ち、あっさりと去っていく時に、いつも背にあるこの木箱。日に褪せた色合いや、使い込まれた古びた姿を、見間違えるなど有り得ない。

 だから、化野はどきどきと煩い心臓が、止まってしまうような気持ちで思ったのだ。

 ギンコ、お前は「此処」に、いるのだな…。

 化野はもう一度、草の原を見渡した。幾度見ようと何も変わったものなど無い。商人の言った陽炎も見えない。ひと月前の足跡があるわけもなく、ここは草の原だから、もともと歩いた跡が付くなど滅多にないだろう。

 為す術はもう無いのかと、化野の息が震えた。原の真ん中に立ち、さっき歩いてきた道の方を振り向き、それでも、気付いた事が一つある。ここは少しだけ道から離れているし、道とこの原の間には幾本もの木が生えているから、道から此処を見通せる場所が限られるのだ。

 化野は木箱を其処に置いたまま、一度道へと戻り、道の方からこの原の、どこが真っ直ぐに見通せるのか確かめた。見えるのは真ん中よりやや南側の奥だと分かり、今度はそこへと近付いて。

 するとほんの僅か、何かが変わったような気がした。気のせいかもしれないが、ほんわりと少し、空気が温くなったように思えて、手をゆっくりと伸べてみる。そう、まるでそこだけ日の光を浴びているように、柔く空気が温まっていた。

「この温みが、陽炎を見せるのか?」

 でも何も見えない。ギンコの姿が現れるでもない。あとはどうしたらいいのか、何も思い浮かばず、化野はそこへと膝を付いた。

「ギンコ…。なぁ? 俺の声が聞こえないか。ようやっと此処まで来たんだ。俺はお前に少しは近付いたのか? 答えの欠片ぐらい、教えてくれてもいいだろう?」

 お前のすること、言うことは、俺にはいつも少し難しいけれど、それでも俺はいつも一心に聞いているじゃないか。蟲と言う見えない命のこと、見えずとも、蟲と人とがこの世を共有しているのだという話。それを見るお前の気持ちのことも。

 お前は俺の差し出す酒に酔い、常は言わぬ様々なことを語ってくれる。少し俺の様子を心配そうに見ながら、それでも一つ、一つと、話してくれるじゃないか。

 お前は気付いていただろうか。そんなお前の語り掛けが、本当は俺は、いつも少し哀しかったんだよ。見えないだろうが、分からんだろうが、気付かないだろうが、と、繰り返されるその言葉が、立っている世界が違うのだと、そう告げているように思えていたんだ。

 酔わせては、その話を聞いて、聞いては切なくなって、お前の体を抱き寄せていたことを、俺だってついさっき気付いたばかりさ。

 だからギンコ、手を伸べて、その腕を掴めぬ場所へなど行かないでくれ。酒をどうだと差し出せぬ場所へ、遠くならないでくれ。もしもお前と夢でしか会えなくなったら、現の世界は、きっと色を失くしたように見えるだろう。俺は…。

 項垂れたままで、化野は懐へと手を入れた。胸へと大切にしまって持ってきた小箱を取り出し、蓋を開ける。別れ際に、ギンコから手渡されたそれが、どういう意味のものなのか、未だ知り得ないが、茶色に乾いた抜け殻をそっと手に取り…。

 その時、だった。

 幻聴が聞こえた。はっきりと、これは幻聴だと分かった。聞こえたのは蝉の声だ。ジリジリと煩い蝉の声が、ずっと遥かな遠くから聞こえたように思えて、むわりと、そこから立ち上る熱気。そうして空気をゆがませる陽炎が。

 そして化野の目の前に。

「ギ、ギン……」

 あぁ、やっと、会えた。けれどもその姿は朧に消えかけたような、淡い姿でしかなかった。化野の足元の草の上に、仰向けで横たわる、ぴくりとも動かぬその姿は、まるで、今だけ漸く見える幻のようだ。

 地面の草が透けて見え、輪郭がうっすらと光る筋になって見えるだけの、恐らくは、触れてはならぬ、儚いもの。

「お前、お前なのか? ギンコ…。ほんとうに…?」

 触れて確かめたい。その温度。
 けれども怖い。消えそうだ。
 
 触れるどころか吹く風も怖い。やめてくれ、俺の愛しいギンコが、大切なギンコが消えてしまう。止まらぬ時の流れも怖い。これが今だけここに見える姿なら、時さえ止めたかった。

 息すら止めて膝をついて、触れぬように体を屈め、化野はギンコを見つめた。涙が零れそうで堪える。温度のある雫一つで消えそうに思う。そんなのは嫌だから。そんな彼の思いを嘲笑うように、空は急に曇って、ぽつり、ぽつりと、雨が。

「…あ、嘘だろう…っ。やめてくれ。降らないでくれ、ギンコが」

 肩に斜めに掛けた荷物を解いて、着ている上着を脱いで、自分の体と広げたその上着で、出来る限り雨を遮る。差し伸べた化野の腕は、すぐに疲れて棒のようになり、震えた。土についた膝も足も、此処へ来るまでで疲れ切っていて、そうしているのは辛かった。

「やんでくれ、頼むから、頼むから…」

 なのに、静かな雨は夕まで続いた。原の真ん中で蹲り、上着を広げている化野の姿を、旅人が怪訝に眺めては、変なヤツだと笑って去っていく。笑うがいいと頭の隅で思った。例えこの腕折れようと、俺はギンコを守るのだ。

 歩む旅人の姿も絶えて、気付いたら夜が来ていた。雨も止んでいて、化野はゆっくりと腕を下ろす。ギンコの姿はまだそこに在る。夜の闇色を吸っても、まだ輪郭だけが白く不思議に光って、酷く美しいと思った。

 そういえば、あの蝉の抜け殻はどうしたろう。焦っていたから懐へ戻したかどうかも覚えていない。壊すなと言われたのだ。大切に扱わねばならないのに、酷く動転していたせいだろう。視線を離すのは怖かったが、探すためなら仕方ない。

 化野はそろりと振り向き、背の低い草のどこかに、あの抜け殻が転げていないかと探した。踏まないように気を付けながら、慎重に、ゆっくり。時々はギンコの方を振り向いて、そこに消えずにいてくれることに安堵しつつ。
 
 だが…。カサ、と小さな音が、聞こえたのは踏み出した足の下、だった。びくり、震えて、草鞋の足を退けた下に、無情にも。

 ぺしゃりと潰れた、蝉の抜け殻が…。













 ここで続くになるところが、惑はドSなんだと言うことですか。すみません。あの…悪気はないんだ。化野に恨みもございませんっ。待て次回とか言うことです。

 それでもあまり、追い詰めない書き方をしているつもりなんですよ。本気を出すと、悪魔のように辛い展開になってしまうので、それではギンコ好き化野好きの方々に、惑が刺される…っ…! 

 出来るようならラストにはらぶらぶなところを持って来たく思いますが、出来なかったらごめんなさいっ。



14/04/06