口吸い。舌を絡める。そのたびに、一瞬抗う俺の様。お前は眩んだような顔をして、なお深く求めてくるんだ。
もうやったろ、こんなに、全部。なのにまだそんなにも求めるのか? 深く甘く、深く奥まで、重ねる体。たがいちがいに、一つになって、お前は俺を、自分自身へ混ぜ込むようだ。土やら泥やら煙草やらの、俺の匂いを胸へと吸って、ギンコ、ギンコと呼ぶんだよ。
朝、が、どんなか知っているかい? 寝ているくせに俺を離さず、背なを撫で、腰を引き寄せ脚を触れさせている。起こさぬようにその腕解いて、逃げることがどんなにいつも、難しかったか。
好きだぞ。なんて、そんなものは知ってる。眼差しで指先で重ねる体で、いつも焼け付くぐらいに、俺へと放っていたお前を。
好きだぞ、なんて、
そんな言葉を聞けたから、
もういいよなぁ、って、
俺は思ったんだ。
これなら永久に、お前の夢を、
見続けていられるだろう。
何もかも、もう充分。
『あ、むししの兄ちゃん…っ』
あの日、無邪気に話し掛けられて、小さな手を開いて見せられた。茶色く乾いた蝉の殻。その奥に感じた、生きている『夏』。
『すぐそこの桜の木で見つけたんだよ! こんなおっきいの初めて見たんだ、すげぇだろっ』
得意げな子の頭を撫でて、ちょっと、貸してくれないかとそう言った。俺もこんなに大きくて立派なのは初めてで、よく見たいからだのなんだの、あまり上手じゃない嘘をついて。次に来る時には必ず返す。それまでどうか貸してくれ。
言うまでもなく、蟲の気配。子供を突き飛ばし、奪い取らずにいられたことが不思議な程の。受け取った途端、憑かれたのがわかった。蟲に好かれる質は、こういう時に助かると、自嘲を一つ。
蝉の殻は、蟲の住処だ。殻の内に残された長い長い蝉の夢を喰うと言われる。けれども稀に飽食の個体があり、蝉の夢滓を食い尽くした後、別の生き物の夢まで喰おうと待ち構えている。
夢を喰われている間、夢のあるじも共にその夢を見続けると言う。万が一にも目覚めぬように、体を異界に連れ去られ…。
そのまま…。背を向ければよかったのかもしれない。坂の上に見えるお前の家に、吸い寄せられるように向かってしまった。会えなくなるのだろうと、ほぼ確信していて、それでも変わらぬ自分で居たつもりだった。
そうして聞いた『好きだぞ』。
俺はお前から形見を貰った。断らずにすまないと思っている。そしてお前に『殻』を預けた。壊すなよと念押しまでしたよ。それがどういう意味なのか、勿論お前には分からなかったろうが、俺にははっきり分かっていた。
それは帰り道の扉。背の割れた蝉の殻の形をしていながら、ぴったりと閉ざされた夢の帰り道。
そして草の原で、覗き込んだ形見の硝子の向こうには、縦に裂けたように入口が見えた。その向こうに満ちている日差しの、なんと強いことか。刺さるように乱暴な。けれどまろく揺らぐ幾つもの木漏れ日の、その優しさが目に染みて。
良い世界だと、そう思えた。
体が、溶けて失くなるような感覚。お別れか。振り向いて、その裂けた口が閉じていく様を見たのだ。すまん、化野、不思議なもの好きのお前に、溶けぬ不思議を一つ置き去りに、しちまった。
俺が行くのは俺の夢の中だ。だから思いのままなんだよ。会うも会わぬも。ただ帰り道が、ないだけで。
きらきら、きらきらと輝く日差し、じりじりと肌を焦がすような熱。生い茂る緑は微風に揺れて、生命の香りをさせている。太陽は現実よりもゆっくりと空を渡り、美しい夕空は長く長く、宵も遥かに星は瞬き、緩やかな月の満ち欠けの、なんと穏やかで麗しい…。
会いたくなったら、指先で丸いガラスを撫ぜる。細かな傷も愛しくて、目を細めながら、またお前の姿と出会う。俺の望みのままならば、どんな様子のお前だろうと思ったが、あまりのそのままで、少し笑った。
あぁ、理想のお前よ、俺の恋人。
お前は夢のお前だから、教えてやるよ。
好いたのは俺の方がずっと先。
初めて口付をかわしたのも、
ずうっとそうしたいと思ってきたんだ。
肌など重ねるようになれるなんて、
あまりに願い通りでそのたび眩んでいた。
求められて嫌がるのは振りだけだ。
慣れた所作だと思われたくなかった。
もしも、もしも万が一、お前の傍へ戻れたら、そん時こそは箍が外れて、お前の前で、乱れるかもな。お前、どんな顔するか、想像するしか出来ないよ。帰れる気は、やっぱりしない。
だってお前に言ったんだ、大事に扱え、なんてなぁ。壊さなければ通れない扉を、壊すなと言って預けたのだ。
夢のお前は縁側で、よく来たなぁ、と俺を出迎える。いそいそと茶を入れに立ち、戻ってきた時はもう目がきらきらと輝かせて、土産は何だと催促するんだ。
差し伸べたその同じ手のひらが、宵には俺を愛撫する。共に茶を飲んだ唇が、随分と情熱的に、俺の体へ跡をつける。呼び声は時に甘く、時に切なげで苦しげで…。
「化野」
理由もなく俺はお前を呼び。
「ん? なんだ? どうした? お前がまた来てくれて、俺はこんなに嬉しいぞ。またきっと来てくれ。ずっと待っている」
珍しく、現では有り得ないような、真っ直ぐな言葉が来た。いっそ言ってしまおうか、これは夢だからなんて、余計なことは言わないで、これからは会いたい時に会えるのだと、待たせることはないのだと。蟲など寄せぬと夢に見て、ずうっと傍を離…
ふつん、と、突然に何かが途切れた。
ジジっ、ジーーーー。蝉の声が聞こえながら遠ざかる。
何が起こったのか、ギンコにはすぐに分かった。叶えようと思えば何でも叶う、幸せな幸せな世界の壊れたのが、どうしてか、嬉しかった。
草に、さぁさぁと雨が降る。
星の見えない雨天の下で、ギンコは生まれて初めて見るもののように、その男の姿を見ていた。まるで、生まれ変わったかのような心地がしている。初めて目に映す姿が「彼」で、涙が流れそうなほど幸せで。
声は掛けられず、彼の前に膝を付いた。濡れた草に蹲り、嗚咽している化野の前に。世界の壊れた瞬間に、ここにあった俺の「殻」は消えたのだろう。どんな想いをしたのか、震える背なが物語る。
「化野…」
「…っ」
びく、と背が跳ねて、それからおそるおそるに顔が上げられ、なんて顔だと思った。涙でぐちゃぐちゃで、泥や草の切れ端をくっつけて。その上、声もうまく出ないらしくて。
「ぉ…あ…」
「俺だよ。…ギンコだ」
「…ギ……」
「あぁ」
そんな酷い姿の彼の、手の中にはぺしゃんこの、潰れて壊れた蝉の殻。
「よくぞまぁ、こんな見事に、壊して」
だからこそ戻れた。それは言わないことにしよう。言ってしまったら、俺が現世を諦めたことも、言葉にすることになってしまう。蝉の殻は蟲の住処。壊されて、今はどこぞへ逃げたことだろう。
「悪ぃな、実は、勝手に借りてた。返すよ、これ」
潰れた蝉の抜け殻を捨てて、その手のひらの上に、ギンコは化野の片眼鏡をのせた。
やっと、怒った顔をして、化野はギンコに縋り付く。ギンコもそうっと化野の背中を抱いた。いつも朝にされているのを真似て、ゆっくりゆっくり撫でていた。
自由にならない、自由になれない、現がいい。
「で、どういうことだったんだ」
当然のように問うてくる化野に。
「戻ったんだから、聞くな」
と、幾度も返す。幾度目かの続きに、こう言った。
「お前が壊した殻の代わり、探さにゃならん。手伝えよ。桜の木、ここらにあるか?」
焚火で服を乾かして、夜が明けてからの帰り道のこと、まるで子供のように二人は蝉の抜け殻を探す。すぐにいくつか見つかったが、最初のより大きいのがいいとギンコが言うので、なかなかいいのに当たらない。
「見つけてどうするんだ」
「んんー? 借り物だったんでな、返すのさ」
「って、誰にっ?」
「いいからいいから。おっ、こいつはどうだ。大きさも中々だし、色艶もいいぜ? どこも壊れてねぇし」
蟲も、ついていない。
そして化野の里に入って、ギンコはとある家の戸を叩いた。折よくあの子が戸を開けてくれ、せがむその手に蝉の抜け殻をのせてやる。
「うわぁっ、あん時のよりおおきいっ」
「だろ? 実は化野がうっかりあれを壊してな、どうせらならって思って、今まで二人で探してたのさ。苦労したんだぜ?」
経緯はどうでもいいらしく、子供はひたすら喜んでいる。
「…そういう、ことか」
ぽつり聞こえた化野の声を、ギンコは聞かぬふりをした。ギンコは化野の里の子供を守った。そのためにあんな危険を侵したのだ。礼を言うべきだと分かっていたが、言いたくなくて、化野はそれきり黙っていた。
里の小路を歩きながら、ギンコは先を行く化野の背に、ぽい、と言葉を投げたのだ。
「俺も、好きだぜ、化野」
「……な…っ」
振り向いた化野の顔の、真っ赤なことと言ったら。
「なぁ、今夜、さ」
「…ばっ、馬鹿、ギンコっ。こんなとこで、夜の誘いなんかするなっ」
余程大きな声で言い放ち、そのあと見事に真っ青になり、ギンコは盛大に吹いた。笑いは中々収められなかった。
「多分、今夜の俺は」
先に言ったのは化野の方だったが。
「箍が外れているかもしれんぞ?」
ギンコも目を見て言いかえした。
「いいさ、きっと俺もだ。でも今夜の俺の様は」
お前には、見せたことの無い俺を曝す。欲しいものへと本気で手を伸ばす俺を。でもきっとそれも今夜だけのことだろう。自分でも御せなくなったら困るから。
「今夜だけの、夢だと思っておいてくれ」
終
結構悩んだのですが、ちょっとテーマが難しくて。化野に好きだと言われたのなら、普通だったらどうしても現世に縋り付きそうなもんなんですが、ギンコの場合、真逆っていう、そういう微妙なところが、どうしてもうまく書けませんでした。
セリフがちょっとヌイさんっぽいのは、わざとです。うふv
もう少し長くなりそうだなーとも思った瞬間があったのですけど、予想に反して暴走しなかった。長くなるか、ならないかは、暴走するか否かなのでありました。
全三話、お読み下さりありがとうございましたv
てか、ありえん誤字あった。4/30なおしたw
14/04/27