夢 の 殻   3







 口吸い。舌を絡める。そのたびに、一瞬抗う俺の様。お前は眩んだような顔をして、なお深く求めてくるんだ。

 もうやったろ、こんなに、全部。なのにまだそんなにも求めるのか? 深く甘く、深く奥まで、重ねる体。たがいちがいに、一つになって、お前は俺を、自分自身へ混ぜ込むようだ。土やら泥やら煙草やらの、俺の匂いを胸へと吸って、ギンコ、ギンコと呼ぶんだよ。

 朝、が、どんなか知っているかい? 寝ているくせに俺を離さず、背なを撫で、腰を引き寄せ脚を触れさせている。起こさぬようにその腕解いて、逃げることがどんなにいつも、難しかったか。

 好きだぞ。なんて、そんなものは知ってる。眼差しで指先で重ねる体で、いつも焼け付くぐらいに、俺へと放っていたお前を。

 好きだぞ、なんて、
 そんな言葉を聞けたから、
 もういいよなぁ、って、
 俺は思ったんだ。
 これなら永久に、お前の夢を、
 見続けていられるだろう。

 何もかも、もう充分。 



 
『あ、むししの兄ちゃん…っ』

 あの日、無邪気に話し掛けられて、小さな手を開いて見せられた。茶色く乾いた蝉の殻。その奥に感じた、生きている『夏』。

『すぐそこの桜の木で見つけたんだよ! こんなおっきいの初めて見たんだ、すげぇだろっ』

 得意げな子の頭を撫でて、ちょっと、貸してくれないかとそう言った。俺もこんなに大きくて立派なのは初めてで、よく見たいからだのなんだの、あまり上手じゃない嘘をついて。次に来る時には必ず返す。それまでどうか貸してくれ。

 言うまでもなく、蟲の気配。子供を突き飛ばし、奪い取らずにいられたことが不思議な程の。受け取った途端、憑かれたのがわかった。蟲に好かれる質は、こういう時に助かると、自嘲を一つ。

 蝉の殻は、蟲の住処だ。殻の内に残された長い長い蝉の夢を喰うと言われる。けれども稀に飽食の個体があり、蝉の夢滓を食い尽くした後、別の生き物の夢まで喰おうと待ち構えている。

 夢を喰われている間、夢のあるじも共にその夢を見続けると言う。万が一にも目覚めぬように、体を異界に連れ去られ…。

 そのまま…。背を向ければよかったのかもしれない。坂の上に見えるお前の家に、吸い寄せられるように向かってしまった。会えなくなるのだろうと、ほぼ確信していて、それでも変わらぬ自分で居たつもりだった。

 そうして聞いた『好きだぞ』。

 俺はお前から形見を貰った。断らずにすまないと思っている。そしてお前に『殻』を預けた。壊すなよと念押しまでしたよ。それがどういう意味なのか、勿論お前には分からなかったろうが、俺にははっきり分かっていた。

 それは帰り道の扉。背の割れた蝉の殻の形をしていながら、ぴったりと閉ざされた夢の帰り道。

 そして草の原で、覗き込んだ形見の硝子の向こうには、縦に裂けたように入口が見えた。その向こうに満ちている日差しの、なんと強いことか。刺さるように乱暴な。けれどまろく揺らぐ幾つもの木漏れ日の、その優しさが目に染みて。

 良い世界だと、そう思えた。

 体が、溶けて失くなるような感覚。お別れか。振り向いて、その裂けた口が閉じていく様を見たのだ。すまん、化野、不思議なもの好きのお前に、溶けぬ不思議を一つ置き去りに、しちまった。

 俺が行くのは俺の夢の中だ。だから思いのままなんだよ。会うも会わぬも。ただ帰り道が、ないだけで。

 きらきら、きらきらと輝く日差し、じりじりと肌を焦がすような熱。生い茂る緑は微風に揺れて、生命の香りをさせている。太陽は現実よりもゆっくりと空を渡り、美しい夕空は長く長く、宵も遥かに星は瞬き、緩やかな月の満ち欠けの、なんと穏やかで麗しい…。

 会いたくなったら、指先で丸いガラスを撫ぜる。細かな傷も愛しくて、目を細めながら、またお前の姿と出会う。俺の望みのままならば、どんな様子のお前だろうと思ったが、あまりのそのままで、少し笑った。

 あぁ、理想のお前よ、俺の恋人。
 お前は夢のお前だから、教えてやるよ。
 好いたのは俺の方がずっと先。
 初めて口付をかわしたのも、
 ずうっとそうしたいと思ってきたんだ。
 肌など重ねるようになれるなんて、
 あまりに願い通りでそのたび眩んでいた。
 求められて嫌がるのは振りだけだ。
 慣れた所作だと思われたくなかった。

 もしも、もしも万が一、お前の傍へ戻れたら、そん時こそは箍が外れて、お前の前で、乱れるかもな。お前、どんな顔するか、想像するしか出来ないよ。帰れる気は、やっぱりしない。

 だってお前に言ったんだ、大事に扱え、なんてなぁ。壊さなければ通れない扉を、壊すなと言って預けたのだ。

 夢のお前は縁側で、よく来たなぁ、と俺を出迎える。いそいそと茶を入れに立ち、戻ってきた時はもう目がきらきらと輝かせて、土産は何だと催促するんだ。

 差し伸べたその同じ手のひらが、宵には俺を愛撫する。共に茶を飲んだ唇が、随分と情熱的に、俺の体へ跡をつける。呼び声は時に甘く、時に切なげで苦しげで…。

「化野」

 理由もなく俺はお前を呼び。

「ん? なんだ? どうした? お前がまた来てくれて、俺はこんなに嬉しいぞ。またきっと来てくれ。ずっと待っている」

 珍しく、現では有り得ないような、真っ直ぐな言葉が来た。いっそ言ってしまおうか、これは夢だからなんて、余計なことは言わないで、これからは会いたい時に会えるのだと、待たせることはないのだと。蟲など寄せぬと夢に見て、ずうっと傍を離…

 ふつん、と、突然に何かが途切れた。

 ジジっ、ジーーーー。蝉の声が聞こえながら遠ざかる。

 何が起こったのか、ギンコにはすぐに分かった。叶えようと思えば何でも叶う、幸せな幸せな世界の壊れたのが、どうしてか、嬉しかった。

 



 草に、さぁさぁと雨が降る。

 星の見えない雨天の下で、ギンコは生まれて初めて見るもののように、その男の姿を見ていた。まるで、生まれ変わったかのような心地がしている。初めて目に映す姿が「彼」で、涙が流れそうなほど幸せで。

 声は掛けられず、彼の前に膝を付いた。濡れた草に蹲り、嗚咽している化野の前に。世界の壊れた瞬間に、ここにあった俺の「殻」は消えたのだろう。どんな想いをしたのか、震える背なが物語る。

「化野…」
「…っ」

 びく、と背が跳ねて、それからおそるおそるに顔が上げられ、なんて顔だと思った。涙でぐちゃぐちゃで、泥や草の切れ端をくっつけて。その上、声もうまく出ないらしくて。

「ぉ…あ…」
「俺だよ。…ギンコだ」
「…ギ……」
「あぁ」

 そんな酷い姿の彼の、手の中にはぺしゃんこの、潰れて壊れた蝉の殻。

「よくぞまぁ、こんな見事に、壊して」

 だからこそ戻れた。それは言わないことにしよう。言ってしまったら、俺が現世を諦めたことも、言葉にすることになってしまう。蝉の殻は蟲の住処。壊されて、今はどこぞへ逃げたことだろう。

「悪ぃな、実は、勝手に借りてた。返すよ、これ」

 潰れた蝉の抜け殻を捨てて、その手のひらの上に、ギンコは化野の片眼鏡をのせた。

 やっと、怒った顔をして、化野はギンコに縋り付く。ギンコもそうっと化野の背中を抱いた。いつも朝にされているのを真似て、ゆっくりゆっくり撫でていた。

 自由にならない、自由になれない、現がいい。





「で、どういうことだったんだ」

 当然のように問うてくる化野に。

「戻ったんだから、聞くな」

 と、幾度も返す。幾度目かの続きに、こう言った。

「お前が壊した殻の代わり、探さにゃならん。手伝えよ。桜の木、ここらにあるか?」

 焚火で服を乾かして、夜が明けてからの帰り道のこと、まるで子供のように二人は蝉の抜け殻を探す。すぐにいくつか見つかったが、最初のより大きいのがいいとギンコが言うので、なかなかいいのに当たらない。

「見つけてどうするんだ」
「んんー? 借り物だったんでな、返すのさ」
「って、誰にっ?」
「いいからいいから。おっ、こいつはどうだ。大きさも中々だし、色艶もいいぜ? どこも壊れてねぇし」

 蟲も、ついていない。

 そして化野の里に入って、ギンコはとある家の戸を叩いた。折よくあの子が戸を開けてくれ、せがむその手に蝉の抜け殻をのせてやる。

「うわぁっ、あん時のよりおおきいっ」
「だろ? 実は化野がうっかりあれを壊してな、どうせらならって思って、今まで二人で探してたのさ。苦労したんだぜ?」

 経緯はどうでもいいらしく、子供はひたすら喜んでいる。

「…そういう、ことか」

 ぽつり聞こえた化野の声を、ギンコは聞かぬふりをした。ギンコは化野の里の子供を守った。そのためにあんな危険を侵したのだ。礼を言うべきだと分かっていたが、言いたくなくて、化野はそれきり黙っていた。

 里の小路を歩きながら、ギンコは先を行く化野の背に、ぽい、と言葉を投げたのだ。

「俺も、好きだぜ、化野」
「……な…っ」

 振り向いた化野の顔の、真っ赤なことと言ったら。

「なぁ、今夜、さ」
「…ばっ、馬鹿、ギンコっ。こんなとこで、夜の誘いなんかするなっ」

 余程大きな声で言い放ち、そのあと見事に真っ青になり、ギンコは盛大に吹いた。笑いは中々収められなかった。

「多分、今夜の俺は」

 先に言ったのは化野の方だったが。

「箍が外れているかもしれんぞ?」

 ギンコも目を見て言いかえした。

「いいさ、きっと俺もだ。でも今夜の俺の様は」

 お前には、見せたことの無い俺を曝す。欲しいものへと本気で手を伸ばす俺を。でもきっとそれも今夜だけのことだろう。自分でも御せなくなったら困るから。

「今夜だけの、夢だと思っておいてくれ」


















 結構悩んだのですが、ちょっとテーマが難しくて。化野に好きだと言われたのなら、普通だったらどうしても現世に縋り付きそうなもんなんですが、ギンコの場合、真逆っていう、そういう微妙なところが、どうしてもうまく書けませんでした。

 セリフがちょっとヌイさんっぽいのは、わざとです。うふv

 もう少し長くなりそうだなーとも思った瞬間があったのですけど、予想に反して暴走しなかった。長くなるか、ならないかは、暴走するか否かなのでありました。

 全三話、お読み下さりありがとうございましたv

てか、ありえん誤字あった。4/30なおしたw

14/04/27