「あぁ、そうだ。これ」
いつもの通りのいつもの縁側で、旅に発つギンコが振り向いた。
「ん、なんだ?」
化野は、ギンコがポケットから出して、こちらへと差し出した手に応じる。無造作に手のひらにのせられたのは、細く、何ヶ所か尖ったような手触りの、小さくて酷く、軽い…。
「大事に扱えよ。…じゃあな」
「えっ、おいっ、これただの、蝉の」
抜け殻じゃないか。背を向けたのをもう一度振り向き、ギンコは化野の顔を見た。ほんの呼吸一つの、その半分ほどの時間、ひた、と見据えてこう言った。
「殻だが、何も入って無いとは、限らんぜ?」
その日の朝、珍しいこともあるものだと化野は思ったのだ。
常なら共寝を過ごした翌朝は、ギンコは先に起きている。夜の間の様などおくびにも見せず、ややだらしない着方で洋装を纏って、煙草など燻らしつつ縁側あたりに座って、化野が目を覚ましたと気付いても、用が無ければ振り向きもしない。
それがその日は、化野が起きた時、ギンコはまだ目の前に居た。居た、というか、互いの前髪が触れるほど間近で、薄っすらと目を開け、化野の顔を眺めていたのだ。
夢の延長のように思って、ぼんやりとその顔を見ていて、ふ、と掛かった息に、やっと現実と知覚する。
「……ギ…」
「覚めたのか」
「あ…、あぁ」
たった五つの言葉の、その同じ数だけ、ギンコの息が唇に掛かって、生々しいほど「夕べ」を思い出す。この唇を、何度貪ったか。あまり好きではないと分かっていて、舌を絡め、嫌がるように軽く眉が寄せられて。その表情に。そしてそれでも抗わないことに、自分がどんなに、興奮、したか。
「どうしたんだ…? ギンコ」
と、化野はそう聞いた。内心の動揺を押し隠し、何でもないよう装って。布団の中ではまだ体の其処此処が触れ合っていて、体温が混ざっている。なんだか、今までのギンコと俺じゃあないようだ。これはまるで、もっと親密な…。
どうもしない、と抑揚なく言って、身を起こしてしまうギンコに、だからつい、化野は言った。
「その、なぁ? 好きだぞ」
初めて言ったのだ。ギンコはぴたりと動きを止めて、でもそのすぐ後には、多分、聞こえなかったふりをしたのだ。無反応に少しはがっかりしたけれど、そんなもんだろう、と化野は思った。自分だって、今日まで一言も言わずに来たのだから。
これまで、もう五度、六度と体を重ねていて、最初の一度は酔った弾み、二度目も似たようなもので。三度目は化野から聞いた。するか?と、軽めに、戯事のように。
そういう気分なのか? いいけどな。
そんな軽い応じで三度目も過ぎ、四度目五度目は、来るたびのそれが習慣であるように、何気なく。決まって少し酒を飲んで、その流れだと言い訳を作るように、どちらからともなく唇を重ねた。
そして時には畳の上で、もしくは先に敷いてあった布団へと身を移し、朝までを、求め合う行為と、共の眠りで過ごす。
接吻以上を求めるのは化野の方からで、でも嫌がられたことはなく、つまりこれはそういうことかと、まずは自分の気持ちを化野は自覚した。考えてみたのだ。たとえば仮に、急に来なくなられたらどう思うか。ギンコと二度と会えなくて、平気か? 俺は。
答えはすぐ分かった。ただの例えで。しかも心の中でそれを思ってみただけで。いつまでもいつまでも、縁側に座り、ギンコが来るのを待ち続ける自分の姿が浮かんだ。堪らなかった。想像をすぐに振り払った。
だからつまり、そういうことだ。好きなのだ。
ギンコの方の気持ちは知らない。相愛を望んではいるが、確かめたいと思ったことはない。応じるのが答えだと、思い込んでいたいだけの臆病なのかもしれない。とうとう好きだと言ってしまったが、それでもギンコは聞かぬ振りをしたのだ。
仕方ないのだと思った。好かれていないことがじゃなく。返事の無いことが、仕方ないと。そうして、その朝のあとの、これ、である。
手の上にのせられた蝉の抜け殻、茶色く乾いた、ふう、と吹いたら飛びそうな。背中に縦に割れ目があって、そこから蝉が抜け出て飛び立った、そのあとの、ただの、殻。
そして後ろを振り向けば、ギンコが行ってしまったあとの、どこかがらんとして見える、己の家。仕方ないと思っている筈が、溜息が零れた。
「どうしろと言うんだ、これを」
大事に扱えと言われたのだ、それは勿論壊さないようにするつもりだ。商人から何かを買った時の、小さな箱があるから、それへ布を敷いて、そこへ入れて、うっかり潰して壊さないようにするが、それから? その後は?
次に来たとき、何か珍しいことや面白いことを見せるか聞かせるかしてくれるのだろうか。そう思って、待つことしか、化野に出来ることはなかった。
「それまでお預け、か? まったく、俺も難儀なヤツを好いたもんだなぁ」
そうしてそれから、ひと月ほどが過ぎた後だろうか。馴染みの商人が、こちらへ向かって歩いてくるのが、化野の家の縁側から見えた。仕事も一段落して暇だったから、喜び迎え入れて、何を見せてくれるのかと、楽しみにした化野に、その男は言ったのだ。
「今日は売りもんはねぇんだけどさ、先生、こないだ、ちょっと気になるものを見た…気がしたんで、一応知らせに来たんだよ」
「気になるもの? まぁ、待て。茶を入れてやろう」
そう言えば、男は手をバタバタと振って、慌てて化野を引き止めた。
「いや、それよっか、先生、先に話を聞いてくれよ。多分俺の気のせいなんだろうけど、先生んちが見えたら、なんだか途端に、このこと話さなきゃーって思ってさ。落ち着かねぇんだよ。ほら、ここで俺も何度か会った、あの蟲師の、ギンコさんのことなんだけどよ」
「……ギンコの…?」
商人の話は、ややひと月前に遡る。つまりは、ギンコがここへ来た直後の頃だ。
この家から隣里へ抜ける道の途中、少し広い草の原があって、ギンコはその真ん中に立っていたという。男のいる道の方へは斜めに背中を向け、懐から何かを取り出し、そのうっすら虹色に光る綺麗なものを、中空の太陽に翳し。
あれは何か、ガラスのようなものだったのかもしれない、そう男は話す。きらきら、きらきらとしたのが、急に光を強くして。眩しい、と思って一瞬目を閉じたら、その次に目を開けた時には、ギンコの姿はなかった、と。
「多分さ、ただの気のせいだと思うんだよな。俺が目ぇつぶってる間に、どっかへ歩いてっただけなんだよ、きっと」
言い終えてすっきりしたのか、商人は満足そうに、うんうんと頷いていたが、どうしてか、化野の鼓動は大きく鳴り出していた。
「もっと…詳しく聞かせてくれんか」
「えっ? や、そう言われても、ほんとにこれだけで」
「小さいことでもいいんだっ。一見関係ないようなことでも、他に何か、なかったか?」
真剣な顔でそう問われ、商人は暫し呻りつつ天井を睨んでいたが…。
「あ、そうだ、そういやあんとき、陽炎…みたいな…」
「陽炎…」
「春先で、たいしてあったかくもないのに、ギンコさんが立ってた筈のところにだけさ、ゆらゆらって、向こうの風景が揺れて見えてたよ。それもなんかの見間違いかもしんねぇけどさ」
話を終えて、一杯の茶を振るまわれ、商人は帰って行った。残された化野は、いつまでもおさまらぬ動悸を持て余して、常でもまだあと二か月は来ないギンコのことを思う。
縁側に出て座り、そこから海の方を臨むと、まるでギンコの事を待ち侘びているような態になった。
「…ギンコ。ふみでもなんでもいい、今、どうしているか知らせてこい。これではまるで、俺が想像したことが、正夢にでもなったようで……怖いんだ」
続
ぴく蟲に螺旋シリーズに、パラレルのクローズドドア。ちゃんと蟲師っぽい話を、一つも連載してないと気付いてしまって、矢も楯も堪らず、新作を書き始めてしまいました。
よくある話っちゃよくある話かもしれんですが、それでも書くのが惑さんです。世界に同じ話は一つとしてない、なんていうと大袈裟ですね?
この話はそんなに長くならないと思いますー(本当か)
14/03/16