「好きだぞ、ギンコ」
告げたのは、とある夜明けだった。脈絡など、何もありはしなかったが、ギンコは驚いた顔一つしなかった。
「あぁ」
ただそう、あぁ、と短く、息を少し吐きながら言って、化野の顔を見て微かに笑んだ。化野もギンコのそんな様を、何も意外だとは思わなかった。ギンコよりも、もう少しはっきりと笑い顔になって、困ったように一度目を逸らす。
「知ってただろう…?」
「そりゃあ、な」
夜明かしして飲んで、転がっている酒壺を、手遊びのようにつついて、回して、けれど彼の眼差しは酷く静かだ。夕べしていた虹の話を思い出す。雨を連れて旅をする女の話を思い出す。心に雨音は聞こえていたが、雨戸の隙間から入り込む光は、眩しい。
「俺は、何も求めてはおらんよ。こうして時々、お前が顔を見せてくれ、珍しい旅の話を聞かせてくれて、土産の一つも持ってきてくれるから、もう、それで充分」
「…へぇ?」
本当に? とでも言いたげなからかい声に、化野は面白げに眉を上げ、少し開いた雨戸の前で、体ごとギンコを振り向いた。
「信じておらんな、その顔。本当に俺は」
「俺もだ、って言ったら、どうする?」
「………」
化野は黙った。それからギンコが、笑いを堪えているのに気付き、ぷ、と吹き出す。どこか安堵したようにだ。
「冗談にも程があるだろう、ギンコ。俺を相手だからいいようなものの、仮に、余所で誰かに言い寄られることがあっても、それだけはいかんぞ。洒落にもならんからな」
「は、お前だから言ったのさ」
ギンコはそう言って、転げていた酒の壺を取り上げ、軽く振ってから、盃の上にゆっくりと傾ける。ちょろ、とだけ、透き通った酒が盃に注がれ、ギンコはそれで唇を潤した。
「まぁ、お前も、余所の誰かに気持ちを告げる時は、もう少し時と場合を選べよ」
「ん? 言われずとも、さ」
お前だけだ、などと化野は言わなかった。他の誰かなどいない、と言いつのりもしなかった。ただ、強く力こめて雨戸を押し開け、丁度それが開き切った時、ギンコがそこをすり抜けたのだ。
「じゃあ、な」
「え? 発つのか? ギンコ。朝餉ぐらい」
「いい。酒の肴を、食い過ぎた」
靴を履き、片方おさまりが悪かったのか、とん、と爪先を庭石にあてて、そのまま彼は歩き出す。彼の足元で、緑の草の葉が跳ねるように揺れた。
「おおい」
どんどん遠くなる背中に、化野は言った。
「気を付けていけよ、また、美味い酒を用意しておく…っ」
ひら、と片手を上げただけで、もう振り向かない。驚いた様など、見えなかったが、それでもいきなり過ぎたのかと、化野は少し頭を掻く。本当は、自分にとっても唐突だった。言葉にするつもりなど、口に出したその瞬間さえ、あったわけじゃなかったのだ。
里を出てきた男の話と、里へ戻れぬ女の話を、連ねて語ったギンコの声が、まだたった今聞こえているように、耳の中にある。だらしないような格好で、ごろりと寝転び、少しかすれた声。そのまま寝入ってしまいそうな姿が嬉しくて…。
嬉しい、と言葉にする代わりに、言ってしまった。
そういえば、嫌な顔をされることなど、一つも想像していなかったと、今更のように思い当たる。また随分と、自信を持っていたものだ。己で開けた雨戸に寄りかかり、ふ、と小さく息をついた。
あぁ、次にお前が来た時は、どんな顔すりゃいいのやら。
からりと乾いた空気に、微風。真っ白な髪した彼を、擦れ違う旅人が一瞬目に留めて、そのまま行き過ぎていく。黙々と、黙々とひとり道を行きながら、ギンコは静かに考えていた。
六年前に、会った。
お前は今と同じで、風変りな医家。珍しもの好きで、端から遠慮のないような物言い。内心、少し腹を立てたこともあったが、腹立たしいと思うそのことが最初から酷く新鮮だった。
『すまん、気に障ったか。でも本当のことだぞ』
怒ればお前はすぐ詫びて、その後自分を口にする。およそ己を秘めると言うことをしない。
言わなければならないことは言って、そのまま突き放したりはけしてしなくて。紡ぐその言葉が、柔らかな在り様が心地よかった。あるいは里人に対するより、俺への方が気安いのかと、そんなふうに思うことすら…。
傾いて、しまったのは、出会って一年の頃。
どうせお前は、
そんな昔のことは思い出しもしないだろう。
俺はお前のところに行くのを、一度はやめた。
とある秋の終りから、五つのも季節が過ぎる間、
ずっと、お前に会わなかった…。
ギンコは山中で立ち止まり、何の変哲もない草木の様をじっと眺める。青々と茂る夏の木々の葉は、日差しと微風を受けて、細かく震えている。湿った空気に誘われるように、水筒を取り出して飲んだ。ぬるくて美味くはなかったが、口に残った酒の匂いが薄れた。
木々の葉を揺らす同じ風が、ギンコの髪を揺らしている。視野で震えるそれを見て、ギンコは仰のき、日差しを顔に浴びながら目を閉じた。
こんなに日差しが強いのに、風は少し冷えている。空が変わるのだろうかと思ったが、見れど見れど、晴天。心はこんなに、晴れぬと言うのに。
ようやっと"殺した"ものを。もう息など吹き返さないと、そう信じて安心していたものを。仮にお前が俺をどう思おうと、揺らぐことさえ、もう無いと。
恨むぜ、化野。心の底でだけの、そんな悪態。
「…美味い酒は、他の誰かと飲め」
「先生、こないだの治療代をさぁ」
漁師が頭を掻きながら、医家の庭を訪れる。岩場で膝を擦り剥いて、膿ませた傷を治したばかりの男だ。
「持ってきたぜ、コレ」
「別に、いつでもいいと言ったろう」
化野はその男が、縁側に片手をついて身を乗り出し、もう一方の手に重たげな瓢箪徳利を下げているを見て苦笑した。それでも構わんと、化野から許したのだから仕方がないが、男が支払う治療代は、大抵が酒で、そうでなければ酒の肴だ。
そんな支払い方をする里人が、他にも実は一人、二人。仕方なく受け取り、怪我の経過を診てやって見送り、徳利を土間の棚に置きに行く。棚の上には、酒の入った器が幾つか並んでいた。
銚子、徳利、酒壺と、中身もたっぷり入ったままで。元々が、晩酌などする性質ではない。飲んでも盃に幾つかでやめてしまうから、一向減らない、どころか、こんな調子では増えてしまう。漁師は酒のみが多いから、混じって酌み交わせば簡単になくなるだろうが、医家が毎夜酔っているわけにもいかない。
だから、おのれで極たまにだけ酔うのを許す。それなら、お前の来た時に、と、勝手に決めていた。お前が来ないから、ずっと酔えない。美味い酒を、美味いと思えない。
何故、来ない。
やはり、俺のせいか。
笑っていた癖に、
本当は嫌だったのか、ギンコ。
あれからもう、一年経つ。
再び棚へと手を伸べて、化野は指先で一番端にある酒壺に触れた。脳裏に浮かぶのは、あの日のギンコの仕草。眼差し。確かにお前は笑ったが、あれはどういう意味だったのだろう。
ギンコ。
何も求めてはおらんと、
俺は言ったが、
考えてみたらあんなのは、
とんだ、嘘だ。
そう言った言葉の後に、いったい俺はなんと続けた? こうして時々顔を見せてくれ、珍しい旅の話を聞かせてくれて、土産の一つも持ってきてくれれば、充分、だと? 有り得ないような、贅沢。我が儘。それへ、笑ってくれていたお前。
ただの知人から友へと、そうしてもっと、もっと、気持ちを変えた俺だと言うのに、お前は変わるな、と望んだのだ。
「……」
化野は、棚の上の酒の器を一つ、手に取った。
訪れぬギンコに、自分がここでどうしているのかなど見えない。心で奥のことなど尚更、傍に居たとて分からぬものを。でもいい、決めたのだ。あの日、不用意に放ってしまった言葉が、もしも"これ"を引き起こしたのなら、せめて。
知らぬ間に空一面に広がっている、夕の色。その色の中から逃げるように、ぽつん、離れて浮かんでいる月。お前のようだ、と思うまい。俺の好きな、あの白と似ているとすら、思うまい。
続
14/07/24執筆
14/12/27修正
