「おうい、先生、いるかいっ?」
庭の外から声掛けられて、化野は文机から顔を上げた。日に焼けた漁師の顔が、やや緊張してこちらを見ていて、往診箱へと手を伸ばしつつ、化野は素早く腰を上げる。
「どうしたっ」
「今さっき、沖から戻ったうちの親父がよ、腕がちょっくら腫れちまって、クラゲだとは思うんだがよぉ」
「あぁ、今年はどうも多いようだな、よしわかった。すぐ行く」
漁師はもう先に坂を下り始めていて、急ぎそれを追おうと、化野は縁側で身を屈める。
「悪いなぁ、先生ぇ、代金は」
言い掛けた男の背へと、釘刺すように、化野は。
「金がなけりゃ貝や干した魚でも」
そこまで言って、続く言葉は途切れてしまった。草履を履いて、駆け出すその一瞬の、視野の端。白い何かが映ったのだ。
「ギンコ」
「よぅ」
「久々じゃないか、まったく。すぐ戻るから上がって待ってろ、急患なんだ!」
視線は即座に離れた。そうして走って遠ざかる背中を、ギンコは庭の外に立ったままで見ていた。随分遠くなってから、化野は肩越しに一度振り返り、待ってろ、ともう一度言った。
ギンコは垣根を跨ぎ越しながら、木箱を背中から下ろす。縁側の、少しばかり懐かしいいつもの場所に置いて、自分も腰をそこへ下ろして、目の前に広がっている風景を見渡した。心地のいい風が吹いている。真夏だと言うのに、風は湿り気を帯びて冷たくて、ギンコの視線の其処此処で、庭の草が揺れていた。
すぐと言ったのに、化野は中々戻らない。いや、まだ半刻足らずだ。遅いと思う方がおかしい。日がゆるゆると傾いて、風はなお冷たくなった。ギンコは靴を脱いで、家の中に上がり込んで、変わっていない家の中を見渡した。
何も、変わっていない。一年と少しぶりだというのに。薬草の匂いも、潮の香りも。ものの置き場も。そう思い掛けて、はたと気付く。
いいや、違う。変わったところはある。ギンコが化野に売ったもの、渡したものが、見える場所に一つもない。嬉しげにいつも飾ってあった羽織。日の下でよく眺めていた緑の盃も。妙な心地でギンコはあたりを見回して、土間の棚の上が、ぽかりと開いていることにも気付いた。
そこにはいつも、幾つかの酒の器があった筈だった。たまたまか。それとも、貰わぬように断って、いるのか? どういうわけで? 禁酒をして、何か願掛けでも?
来なくなった俺のこと、を…。
ギンコは己の思っていることに気付いて、顔を歪めた。そうして目を閉じ、息を詰めて己に語り掛ける。
お前はいったい、
何をしにここに来たんだ?
化野が"忘れた"のなら、
願い通りの様だろう?
そう…。"あれ"が幻だったのかどうか、ギンコは確かめに来た。もしも現実であるのなら、もう跡形もなく消え失せてしまったのかどうかを。自分がかけたのと、同じだけの月日をおいて、お前が"あれ"を、消し去れってくれたのかどうか。
なのに。いったい何を、俺は。
まだ、時が足りなかった。お前にではなく、むしろ俺の方に。片方のみの最初の時とは、こんなにも違うということか。欲しいものへと、考え無しに手を伸ばし、取り返しのつかなくなるようなことなど、もう、真っ平だというのに。
ギンコは踵を返し、縁側から木箱を掴んで、庭へと下りた。跨ぎ越した垣根は、一年と少し前よりも随分高くなっていて、枝が絡むように錯覚した。構うものかと無理に通って、急ぎ足に里を横切る。人の家の少ない道を選べば、両側に生えた野草の色が、どうしたことか、変にあざやかに見えてくる。
さぁ…、と、冷たい風が吹いた。雨だろうか、と思った。知らぬ間に雨雲が広がっていて、もう今にも降るかと空気を吸い込む。雨気が喉一杯に入り込んできて、ギンコは漸く、気付いたのだ。
もう
雨は
降っている
ほた、ほとと、跳ねるように草が揺れるのは、雨粒に打たれているからだ。緑があざやかなのは雨を吸っているから。気付けば、土からは雨の匂いが立ち上っている。ひいやりと冷たい風が、ギンコの体を、さっ、となぶった。
これは蟲による現象だ。霊雨と呼ばれ、姿の無い雨を降らせる。ギンコは呆然と、見えぬ雨の中に立ち尽くし、ようやっとそのことに気付いていた。
俺はずっと、
この雨を連れていたのだ。
ここ一年と少しの間、
一度も雨に濡れた覚えがない。
木箱を背負うことも忘れたまま、それを片手にぶら下げて、随分長いこと立ち尽くしている姿は、家に戻ろうとしている化野に、あっさり見つかってしまう。
「ギンコ…っ。待ってろと言っただろうが、この薄情ものが! 何かあったかと案じていたのに、友達甲斐の無い奴め。来ない間の珍しい話、蟲絡みの面白い話など、幾つかせんうちは発たせんつもりだぞっ」
つかつかと近寄りながら言う化野の足元が、まず濡れた。そこから広がるように、草に白く雫が跳ねた。白くけぶるようなそれは、道の両脇の田畑へと、見事に広まり、なんとも言えぬ光景となった。空か降る雨はないのに、大地は雨を受けている。
「どっ、どうしたことだ…! これはっ」
化野にも見えているらしい、着物の裾をからげて、足元で跳ねる泥に、見る間に汚れていく草履と、彼の素足。ギンコは化野の方など見ずに、少しずつ、少しずつ、ごく当たり前の雨に変じていくそれを眺めていた。
「目に、見えなくても」
ざあざあという雨の音に、不思議と掻き消されないギンコの声。髪から雫を滴らせ、頬を濡らして。
「ここにある。誰にも分かられぬままでも、気付かれぬでも、姿を見せられなくても、まだ、寿命があるうちは、ずっと…」
霊雨が、雨の姿を現すのは、命の尽きる時だけだ。まるで、最後を飾るように、すべての力を振り絞り、土を鳴らし、葉を濡らし、その中にあるものの、視野を奪い、その身を包む。
降れ
降れ
ギンコは唇の形だけで呟いた。そうしてすぐ傍らに、同じ雨の中にいるものへと言った。
俺も
だったよ
声になどしていなくとも、化野には分かった。息を吸い込み、怒ったように眉を吊り上げ、それから静かに、酷く静かに、化野は笑んだ。あの日のギンコと似た顔で。
「だった、か」
あの日、化野が告げた言葉へ、ギンコは今、返事をしたのだ。ギンコとは違い、化野は声に出してそう言って、頭から爪先まで、痛いほどの雨に濡れそぼち、言った。
「そりゃまた、奇遇、だな。俺もさ」
く、と笑い、一瞬見交わす。もうあの気持ちは過去だなどと、今は無いなどと、この嘘吐きめ。多分互いにそう思っていた。けれどもこの嘘は、無くてはならないものだと気付いている。
近付いてはならない、今以上。
均衡は、今の形で丁度ぎりぎり。
だから…
心も、体も、この距離で。
今を満ち足りて、
それで充分。
まだ、ざあざあ、と雨が降っている。霊雨の終生は、まさに終りの時が有り余るほど長いと聞く。秘めていた雫の形を、そこに宿る光を、最後の一つまで開いて、ようやく閉じる。恐らくは、朝まで続くことだろう。
「あっ、こりゃいかんっ。この降りだと里外れの水路が…っ」
化野は焦ったように駆け出した。
「手伝え! ギンコ…ッ」
「…久々だってのに、人使いが荒いねぇ」
言いながら、ギンコもその後に続いた。笑って、走った。化野は走りつつもギンコを振り向き、らしくもない笑み顔だと思ったのだ。
どこかけぶるようなそれでもない、いつもの皮肉なそれでもない、澄んだ、深い、笑み。多分今しか見られないそれを、化野は瞼の裏に、焼き付けた。
雨はまだ
降る
降る
終
実は夏に書いた作品、雨の姿。の表に出さなかった原稿。ボツになったヤツ、なんていうと聞こえが悪いですが、二つ書きあがって、もう一方を選んだので、これは今までしまってあったの。
でもね、これ凄く好きだったので加筆修正して、上げさせて頂いた。どうして書いたのかは、上記の通りですから、書く切っ掛けを下さった方に、感謝して飾らせて頂くのです。
月さん、あの時は、ありがとうございますv
14/07/24執筆
14/12/27修正