『 年 の 宿 』  前編







 がやがやと、随分賑わしい宿だと思った。街道からは少し離れた峠の手前の、古い宿屋。雑魚寝部屋は人でいっぱいで、座るのにも難儀するぐらいだった。

「おぅ、兄ちゃん、今来たのかい。ここ座んなよ、ここっ」

 知らない男がギンコの方を真っ直ぐに見て、人懐こい笑顔を向けてきた。きつきつなのを無理やり詰めて、空けた場所をとんとんとこぶしで叩いて呼ぶのだ。自分のことかと身振りで確かめた後、隙間を縫うようにして近付き、ギンコはそこに腰を下ろす。

「悪いな、助かったよ」
「なぁに、俺もついさっき来たところでなぁ。けどあんた、初めて見た顔だ。ここで年越すのは初めてか?」
「いや、俺は」

 少し休んで昼飯を腹に入れ、そのあと旅に戻るつもりだったから、ギンコは首を横に振る。

「なんだ、急ぎ旅かぁ? 居られるんなら居た方がいいぜ? なぁ、今夜は晦日じゃねぇかい」

 言われて気付いた。そう、今日はまさに年の暮れ、そして此処は恐らく『年の宿』なのだろう。いつもこの宿を使っている旅人が、今日を目掛けて集まって、飲み食いしながら年を越す。旅人は常の宿屋に感謝をし、宿は立ち寄ってくれる旅人に感謝をし、明くる年の旅の安寧を願うのだ。

「そりゃ参ったな。知らねぇで来たし、常連でもない」

 指で頬を掻いてギンコはそう言った。馴染み客が持ち寄ったものと、宿の用意したもの、それらを皆で分け合うのが暮れの年の宿だ。ふらっと来ただけの自分が馳走になるわけにいかない。

「いいんだよぉ、そんなのは」

 そう言ったのは、旅人の体を掻き分けるようにしながらやってきて、そのまま奥へと進んでいく年かさの女だった。

「初めてだって、なにも持ってなくたって。余分のある時に、その日行き会った誰かに振る舞えばいい。そういうもんだろ、旅仲間ってのはさ」

 宿屋の屋号の白抜きが、褪せて今にも消えそうな前掛け、白交じりの髪、慣れた立ち居振る舞い。きっと宿屋の女将だろう。出て行こうとして浮かせていた腰を、ギンコはもう一度床の上に下ろす。体の前に抱えるように置いていた木箱を、狭い場所でなんとか開くと、彼は中から塗り薬の器を取り出し蓋を開いた。

「…草か棘かで切ったのかい? 手ぇ貸しな」

 無造作に伸ばした手で、斜め前に居た小さな子供の手を取ると、痛そうに隠している指の傷に薬を塗ってやる。

「大丈夫だ、沁みねぇから」
「ありがとうございますっ、ほらっ、ちゃんとお礼言いなっ」

 子供の母親がギンコの方に顔を向け、にこりと笑って頭を下げた。その膝の上に広げられ、かぎ裂きを繕われているのは、多分、女の後ろで恐縮している老人の上着だろう。

「ぼうず、薬つけて貰って良かったなぁ」

 どこからかそんな声が届く。

 宿の雑魚寝の大部屋が、端から端までぎっしりと人で埋まって、そこに満ちているのは、なんとも心地のいい空気だった。あまりに狭いので蟲煙草を吸うわけにもいかず、手持無沙汰のままギンコはその空気に浸っていた。

 こんなに大勢と一緒にひとつところに居て、穏やかな気持ちで居られることなんか、そうはない。いつぶりだろうか。そう思いながら、なんとなく目を閉じた。そうしたら、浮かんでくるのは、あの里の風景。

 あぁ、そうだ。
 あれはいつだったか、あいつの里で、
 なんかの祝いごとの宴があって、
 無理やり引っ張っていかれたっけ…。

 あっと言う間に輪の中に入らされ、まるで、元から里のひとりのようだった、あの温かな宴。

 そういや随分行ってない。行ったのはもしかして、前の春頃じゃなかったろうか。たまたま掛け違って、近くまで行くこともなくて、日々に追われているうちに、この季節になってしまった。きっと今頃あいつは、あの日のように里のみんなと集まって、賑やかにしているに違いない。

「…ふーーーー…」

 何やら心が震えて、溜息を、ひとつ。蟲煙草が吸いたくなって、周囲の人々に除けて貰いながら、ギンコはその場を立った。蟲が寄ったわけじゃない。気持ちを落ち着けたくて、いつものように煙草を吸いたくなったのだ。

 肩やら膝やら、それぞれで触れ合っているぎゅうぎゅうに狭い部屋。それでも人々は、通ろうとするギンコの為に、精一杯道を空けてくれる。空けてくれながら、何人かが彼の顔を見上げ、背中を眺めて、その眼差しで言ってくるのだ。

 ありゃ、行くのかい? 
 急ぐか知らんがまだ居なよ。

 一緒に宵を待ち、馳走を味わい、
 美味い酒を酌み交わそうや。

 新しい年を、此処で迎えよう。

 初めて会ったが、
 あんたは旅の友。
 仲間じゃないか。

 それらを殊更温かく感じ、去り難く思うのも、きっと今が冬だから。寒い寒い冬、心が弱くなる冬だから。一歩外に出れば、身の内まで差し込むような、きんっ、と冷えた風が吹いているから。

 ギンコはかえって、逃げたくなった。幸いまだ上着を着たまま、襟巻もきっちりと巻いたまま。木箱も片手で下げていて、このまま旅に戻るのに、なんの不自由もない。ひゅうう、と吹いてきた風に首をすくめつつ、勢い付けた一歩を道の方に進めようとしたその襟首を、ひょい、とつまんだ手があった。

「だめだめ、もう数えちまったよ、あんたもっ」
「い、いや、俺は」
「だめだったら。戻った戻ったっ」

 宿の人間や知らない旅人の手で、くるりとまた宿の入口の方を向かされて、どん、どんっ、と乱暴過ぎるぐらいに背中を突かれ、なんて強引なんだと呆れ返りながら、仕方なくさっきの部屋へと戻った、その時だった。

「悪い悪いっ、朝方について、上の部屋でちいっと横になったら、ぐっすり眠っちまってたよ!」

 顔を向ける前から分かる、その、よく知っている声。

「前の晦日ぶりだなぁ、みんな元気か? さあ、診て欲しいものはこっちに並んでくれ、かすり傷だってなんだって診るぞ、遠慮は無しだ」

 わぁ、っと、その場にいる大勢の声が上がる。随分人気じゃねぇか、知ってるぞ、お前はまた自慢顔で、人徳だって言うんだろ。

「おぉッ、先生、診てくんなあ、寒くなると腰がさぁ」
「子供が風邪を引きやすくって」
「腹痛の薬、少し持ち歩きたいんだが」
「こないだ火傷しちまって、その痕がねぇ」
「里のばあさんが、時々眩暈がするって言って」

 あぁ、聞くとも、でも順番だ。と、少ぅし焦って言う声には、なんとも柔らかで優しい温もりが籠っている。中へは入らず、だけれど部屋の入口を塞がないように少し脇へ寄り、ギンコはずうっと、立ちん坊。

「先生ぇ、化野せんせぇっ」

 ギンコのすぐ後ろから身を乗り出して、誰かがそう声を張り上げた。やっぱりそうか、見間違いではなく、聞き違いでもなく、お前なのかとギンコは知らずに息を吸い込んで、そうしてとうとう、目が合った。

「…ぎ、ぎんこ…っ?」