『 年 の 宿 』  後編





「……化野」

 その途端、強張っていた両肩から、すとんと力が抜けて、ギンコは友の名を呼んでいる。

 一方化野の反応は、それは見事なものだった。足の踏み場もないほど混み合っている部屋の奥から、右や左へと蛇行しつつ、彼はギンコへと突進してくる。殆ど無言だったというのに、その気迫のせいでか、旅人たちは出来得る限り左右に除けて、化野に道を空けていた。

 たじろいでいる一瞬に、もう化野は目の前に居て、ギンコの片腕をがっちりと捉えている。

「逃げないなっ? ギンコっ」
「…んで逃げるんだ、俺が。お前は医家の生業で此処に来ているんだろ、先に仕事をしろよ、話は後で聞く」

 目の前の、何処か強張っているような顔が、ほっとしたように緩み、人気者の医家は皆の中に戻っていく。ギンコは部屋の一番隅に座り直して、遠目で彼の姿を見ていた。

 ひとりひとりの話を、笑顔で、或いは真顔で丁寧に聞き、身脇に用意した薬をそれぞれ処方する。時にはさらさらと何かを書いて手渡し、励ますように肩を叩き、背中をさすってやる。子供の頭を撫でる。

「どら、手を切ったのか? さっき誰ぞに薬を付けて貰ったって? うんうん。じゃあそれと同じ塗り薬を少し渡しといてやろう。ぶつけたりせんように大事にな」

 化野が頭を撫でたのは、さっきの子供だった。子供はきょろきょろと周囲を見回し、目ざとくギンコを見つけると、顔中で笑顔を作り手を振ってくる。化野の眼差しも、つられるようにギンコへと向いて、彼もまた、にっ、と笑顔になった。 

 その後は宴だ。足の踏み場すらない塩梅だから、みんな片手に小鉢や小皿、それすら無ければ串に刺した芋やらすり身団子やら。もう一方の手には湯飲みや椀。そこへほんのひとくちずつ、温めた酒が回されてきて注がれる。

 化野の姿は、ギンコからは少し遠かったが、ギンコにとってそのぐらいが、今は丁度よかったのかもしれない。

 意識はしていなかった。
 でも、もしかして、
 それっきり、になるかもしれないと、
 心の何処かで思っていた。

 何かがあったわけではないが、
 いつだってもう、潮時、なのだと、
 ずうっと、思って…。

「…っ」

 その時、余所を向いていた化野の眼差しが、じろり、とギンコを睨んだのだ。自分すら気付いていなかったそのことを、彼の方がとっくに分かっていたのかもしれなかった。

 たったひとくちだけの酒は、少し苦くて、でも、とても美味くて、喉に、胸に、腹の隅々までも沁みていった。





 遥か遠くまで、皆の声が響いただろう賑わしい宴は、案外すぐに終わった。急ぐからと言って発つものは発ち、残るものは隙間もないほどの有様で雑魚寝をし始める。そんな『年の宿』の狭い階段を、ギンコと化野は二人で昇った。
 
 化野が借りているのは、二畳とちょっとの布団部屋だった。廊下の突き当りのそこへ、火鉢と煎餅布団だけがあり、ギンコはそこへとずるずる引きずって行かれたのだ。そうしながら化野は話をした。何故此処に今、自分が居るのか、という話。

「お前には言っていなかったが、もう三年目になる。うちの里から山一つ離れたこの峠の宿屋は、もうずっと、暮れには『年の宿』をやっていてな。年のいった医家の爺さんが毎年来ていた。みんなはそれを頼りにして、体を診てもらったり、不安なことを話したり。でもその爺さんも流石に、真冬に此処まで来るのがしんどくなって、俺はそのあとを引き継いだんだよ」

 相槌を打ちながら、連れて来られた部屋の火鉢には、ちゃんと炭が燃えていた。少しでも寒くないよう、小窓や引き戸には布が掛けられていたし、追い掛けるようにして部屋にやってきた宿の下働きが、手燭をひとつ置いていってくれた。

「俺はひとり身だし、里のものには話をして、暮れには充分気をつけて、数日医家が居なくとも大丈夫だと言って貰っている。…俺のところには、暮や正月に遠方から訪ねてくるものは居ないし、な。なんだよ、お前も火にあたれ。寒いだろう」

 小さな火鉢を挟んで、ギンコは化野と向かい合う。互いに見るのは炭の火の、生きているような赤々とした色だった。

「…旅人の、助けになりたかったんだ……」

 お前は、旅人だから。

「冬ってのは、旅人には厳しい季節だろう? だからな」

 冬をゆくお前の、気持ちを知りたかった。

「此処でみんなの顔を見て、話を聞いて、俺は思ったよ。こんな季節に、ましてや年の暮れに、ひとりで居たいものなど、居ないんだ、って」

 お前も、きっと、そうなのだろう。

「此処で会えてよかった。みんなの中にいるお前の顔が見られて、嬉しかったよ。この先も、冬に。暮や新年目掛けて、俺の里へ来いなどと、無理強いはせんが」

 体も、心も、弱ってしまうのがこの季節で、
 だからこそ他者に頼らぬように、と、
 思うお前なのだと、俺は知っている。

「でも、そのうちお前も爺さんになったら、そん時でいいから、まっすぐ人を、頼ってくれ。願わくば、この俺を、頼ってくれよ、ギンコ」

 強くそう言った化野の呼気で、目の前の炭は、よりいっそう赤々と色付いた。少しばかり項垂れているギンコの顔に、熱いぐらいの温もりが届いて、常からあまり顔色の良くない、その頬やら額が、じんわりと赤くなっていく。

 照れてるのかな?

 と、化野は思った。それとも熱くなったからか、火の色が反射しているだけのことか? なんだかわからん。わからんが、今、此処にこうしていられるのが、酷く嬉しい。

 それで化野は手を伸ばして、ギンコの上着の襟を、左右の手でそれぞれがしりと捕まえて、強引に、ぐい、と引っ張った。

「ギンコ」
「あ…」

 もう今、触れる、その一瞬前に、

「「あっヅ…ッッ」」

 互いの顎が炭の火に炙られ、二人は火鉢を真ん中に、ものの見事にひっくり返った。そのあとは、危ないだろうがっ、などと罵ったり、少しでも冷たいもので冷やそうと、部屋の隅の床に顎を押し付けたり、涙目になって小窓を開いて、顔だけ表に出したりした。  
 
 そのあとは笑って、笑って、そうは無いな、と思うぐらい笑い転げて、化野は折った敷布団で体を挟み、ギンコは掛け布団で体を包んで隣り合い、眠りもせずに他愛のない話。やがては部屋に差し込む朝の光を、二人で眺めた。

「………おめでとうさん」

 と、ギンコから言った。化野は返事をしかけて、うっかり感極まり、おめ、から先がどうしても言えず、代わりに一言。

「好きだぞ」

 と、久しぶりに言ったのである。














 あけましておめでとうございます。秋の終わり頃から、気持ちに余裕のなくなるようなことがいろいろありまして、二か月以上小説を書けずにいました。もう書けなくなるのでは、と思ったこともありましたが、なんとかこうして、いつもの年のように新年のお話を書くことが出来ました。

 わぁぁぁぁぁぁんっっ、ほっとしたぁぁ…。号泣。

 そんなに長くないけれども、前後編に分けて載せさせていただきました。 始まったばかりの年も、ずっと書き続けて居られるよう頑張りますので、どうぞよろしくお願いします。


2024.01.02