年瀬守 ・ 前






 音無く降る白の中で、旅の蟲師が、ひとり呟く。

「これか…」

 深い深い雪の中から、苦労して掘り起こした祠。扉もすっかり凍り付いてしまっているから、壊さず開けるのに時間がかかった。それでもなんとかそれを取り出すと、大事そうに、彼はその分厚い綴りを懐に収める。これは、これまでの大切な『記録』だ。

「さてと、件の里は、どれほど雪が深いのかね」
 
 数日の時間は用意してある。まずは何処かで、これをゆっくり読まねばなるまいし。里へ辿り着いてからの準備もいるから、少しでも早めに着くよう急がねば。

 木箱をしっかり背負い直し、上着の前を固く合わせて、ギンコは雪を踏みしめ、歩くのだった。




 ドンドン、ドンドンドンっ。

 戸を叩く音がしている。そういえば少し前から、何度か聞こえていたかもしれない。あぁ、今年の雪も深い。きっと誰か旅人が、火にあたらせて欲しい、宿らせて貰えないかと来ているのだろう。今、何刻だ? もう朝か? なんにしても、早く迎え入れてやらにゃなぁ。

 そんなことを思って、フブキはやっと布団に身を起こした。手を伸べて、横に寝ている妻を揺り起こす。

「ミユキ。起きろ。誰か来たようだ。あったかいお茶を入れてやってくれんか? 今、俺が出るからな」
「あら、それは大変。はいはい、すぐに」
「…おかぁさぁん、誰か来たのぉ?」

 朝の光が、ほんの僅かばかり滲み込む部屋の中で、幼い子供の声もする。

「起きちゃったのね。みぞれちゃんはまだ寝てていいよ」
「ううん起きるっ。旅人さんのお話好きっ、聞きたいもんっ」

 そうやって、父親と母親、まだ幼い娘も起きて、壁に掛けてあった綿入れを急いで着て、フブキは戸口へ向かう。ミユキは細々と燃えている囲炉裏の火を大きくしようとした。

「みぞれちゃんは、蟲師さんを起こしてお出でな。それで土間の隅に積んである、乾いた薪を持ってきてもらって頂戴」
「はぁいっ。蟲師さぁーんっ」

 元気のよい娘の声を聞きながら、フブキは立て付けの良くない戸をガタガタと、まずは隙間だけを開け、外を見た。

「どちらさんだい? 旅のお人かい?」
「…そうです。出来れば少し、火にあたらせて貰えたらと」

 隙間を開けた向こうに立っていたのは、雪のように真っ白い髪をした男だった。迎え入れると背中には、見覚えのある木の箱。

「もしかして、蟲師かい、あんた」
「ええ、ギンコといいます。入って構いませんか?」
「そうかい。あぁ、勿論いいさ、狭い家だが上がっておくれよ。実は今もう、別の蟲師さんが一人うちに泊まっていてなあ」

 そう話すと、白い髪の蟲師は、へぇ、と短く返事をした。土間で丁寧に雪を払って、頭にかぶっていた布を解けば、彼の髪の白いのがもっと目立つ。

「雪のようだねぇ、あんたの髪」
「よく、言われます。そんなことより、こんな雪深い日の朝早くから、申し訳ない」
「いいんだいいんだ。この里はこういうところだもんで、旅人を数夜泊めるのなんかいつものことさぁ、なぁ、お前?」

 客人を囲炉裏の傍に案内しながら、男が振り向いてそう言うと、囲炉裏に水鍋をかけていた女も、にっこりと笑んで頷いた。

「毎年のことだからねぇ。雪の季節はことに多いよ。さ、お茶を入れた。お腹は空いていないのかい?」
「お茶で充分です、ありがたいですよ」

 そちらへ、と身振りで示され、囲炉裏の傍に寄らせてもらうと、彼の隣に、小さな女の子が寄っていき、嬉しそうに見上げてきた。

「ね、ねっ、旅人さん、お話して。遠いどこかのお話聞きたいっ」
「あぁ、いいよ。暖まらせてもらうお礼だ。どんな話がいいかねぇ」
「うーん、なんでもいいっ。あたしね、この里しか知らないのっ。だからなんでもっ」

 その子は随分人懐こい子供で、ギンコの片膝にくっつくほど近くで、彼の話を聞いた。蟲の話よりは、いろんな土地の話がよかろうと、南の方の土地の話や、大きな湖のある里の話、谷と吊り橋の里の話もしたし、二つの川に挟まれた里の話もした。

 子供は目を輝かせ、いくらでも新しい話を聞きたがった。次は何を話そうかと、暫し迷うぐらい、ギンコは沢山の話をして聞かせた。

「みぞれちゃん、もうそのくらいで満足おしよ? 旅の方が困っているじゃないか。すみませんね、この子はほんとに、余所の土地の話を聞くのが大好きで」
「だって、退屈なんだもん。冬は雪が多すぎて、全然家から出られないし。春は待っても待っても、全然、来ないし…」

 言っている途中で、子供は急に口籠った。真っ白くすべてを覆う、この里の雪の景色。その雪が解けた里の姿を、この子は覚えているのだろうか。春夏秋は、彼女の中で、もう雪の白に塗り替えられてしまっているのかもしれない。

 ギンコは子供の頭を、慣れない様子で撫でながら、思い出したように笑顔を深くする。

「仲間の蟲師から聞いたことがありますよ。ここいらは、春の野草が見事だと。この里に数日厄介になったと言っていたかなあ。小道をずっと、とりどりの小さな花が咲くんだそうですね」

 煙草を取り出し、囲炉裏の火を移してからひと吸いし、ギンコはそう言った。それを聞いた夫と妻は、ほんの少しの間、何も言わず黙っている。呼吸を二つするほどの間、彼らの時が止まったかのように、ギンコには見えた。

「あぁ、そうそう。私がこの子くらいの時は、お花でかんむりを作ったり、首飾りを作ったりしたの。懐かしいわ」
「えー、あたししたことなぁーいっ」
「あら、そうだったかしら、今度教えてあげるからね。簡単よ」
「そのころは山菜取りが忙しいからかもなぁ。採りに行くのは俺でも、灰汁抜きやらなんやら、お前がやっているだろ」

 妻は春の盛りの山菜のことを思い出し、蕗の薹、蕨、薇、青こごみ、三つ葉にたらの芽、独活、蓬、と指を折って数え上げた。

「何だか春が楽しみになってきたよ。みぞれちゃんも、お台所のお手伝いしてね」
「うんっ、美味しいもの、いっぱい。お花のかんむりもっ。待ち遠しいなぁっ」

 外は相変わらず、しんしんと降り続く雪だ。隙間風が寒いけれど、家族三人とお客が一人で、小さな囲炉裏の大きな火を囲んで、なんでもない、家族の間のよくある会話。けれどギンコは細心の注意を払って、彼らの言葉の行き来を見守っている。

「そんなに山菜が採れるなら、余所の里へも売りに行ったりするんですかね?」
「そうさな、いいや、ここは隣里まで随分遠い、山間の里だからねぇ。でも少し歩きゃあ、旅の人が行き来する道に出るから、何軒かの家で其処まで行って、露店で売るのさ。里へ帰る人らが、いつもよく買ってくれるよ。採れたて新鮮なままも、干した日持ちのいいのもね」
「ほう、それは。山の恵み、ですな」
 
 穏やかに話しながら、ギンコは実は、気の休まる間がないのだ。もしも彼らがその「空白」に気付いたらと、そう思う。男がぽん、と膝を打ち言い始めた。

「おぉっ、そうだ。露店仲間のシンさんはどうしてるかな。あの人もなぁ、旅のお人の話を聞くのが好きなんだ。お夢さんも、セイさんもだ。すぐ其処の家なんだよ。ちょっくら呼んでこようかね」
「いや…っ! あぁ。…でも、外は随分な雪ですよ。降り止んでからにしちゃあ? 皆さんに喜んでもらえるんだったら、何度も同じ話だって、しますよ。いくらでもね」
「そ、そうかい?」
 
 少し、大きな声を出した彼のことを、家族はびっくりしたように見て、男は浮かせた腰を、もう一度あたたかな床へと下ろした。女がギンコへと、お茶のお代わりを差し出し、そろそろ台所へ朝餉の支度をしに行こうとしている。彼女は立ち上がり、不意に思い出して声を上げた。
  
「あらっ、そういえば、みぞれちゃん、蟲師さんのこと起こしてくれたの?」
「起こしたよぉ、でも、ううーん、って言って寝返り打って、また眠っちゃったの。すっごく眠そうだったよ」
「まぁまぁ、旅して長いって言ってたから、きっと疲れているのねぇ。うちの人と一緒に、薪を少し割ってもらおうと思ってたんだけど」

 ギンコは囲炉裏端から立ち上がり、俺がやりますよ、と請け負った。土間へと下りて、それほど広くはないそこで小ぶりの斧をふるえば、朝餉支度をしながらの女が、のんびりギンコに話しかけてくる。話は、既にここに泊っているという蟲師のことだった。

「数日前の夕方ごろだったけど、さっきのあなたと同じように、ドンドンドンって戸を叩いてね。もう少し年のいった蟲師さんが、少しでも食べるものを、って言ってきたんだ。久蔵さんって人。なんだか、少し疲れてたようでねぇ、それから今日までうちで休んで貰ってるんだ。話の面白い、いい人だよ」
「そうですか。…薪割りはこのぐらいでいいですかね? 良けりゃ、俺がその久蔵さんって人に声をかけてみますよ。同じ蟲師のよしみってやつで」
「おや。それじゃお願いしようかしらね」

 ギンコは斧を土間の片隅に置いて、部屋を横切りながら、囲炉裏で手を温めている子供に声をかけた。

「蟲師の人はどこで眠っているのかな。いや、いいよ、俺が行く。同じ生業だから、もしかすると、知っている人かもしれなくてね」

 居場所を聞いて閉じている襖を開くと、狭い部屋の真ん中に敷かれた薄い布団。冷え切ったその部屋の中、生者の気配は酷く淡く。中に入り、ギンコはぴたりと襖を閉じた。そうして、布団の中で「眠る」蟲師の体を、そっと揺する。

「起きな。起きなよ、あんた。去年、トシノセモリで此処へ来た蟲師だろう? わかっていてなのか、つい囚われたのかは知らないが、そのまま居ついちまったんだな、久蔵さんとやら」

 声をかけながら揺すると、男はうっすら瞼を開けた。すっかり眠ったままだったわけではないらしい。今年も「この時」がきて、此処に居る以上は彼も「此処に居るもの」として目が覚める。

 少しの時間をかけて、ゆっくりゆっくり我に返り、あたりを見回してから、蟲師は嗚咽を零したのだ。今にも涙を零しそうな、揺れる両眼をひたと見て、ギンコは言った。

「別に俺は、あんたを責める気はねぇよ。でもわかってこの里の、この家に居るものになったなら、決まった流れに沿ってくれ」

 男はギンコと同じ、白い息を吐いて数度頷く。

「…分るだろう。あんたが起きなきゃ、起きず眠り続けるあんたの姿を見て、ここの一家が何かに気付くかもしれん。それだけは、なんとしても避けなきゃならんだろ。それが『蟲師』としての敬意で、償いだろう?」
「その通りだ。すまん…」
「俺が今年のトシノセモリだ。ギンコと言う。だからあんたは俺の話に合わせてくれるだけでいい」

 久蔵を伴い囲炉裏の部屋へ戻ると、ささやかながら五人分の朝餉が整うところだった。湯気を上げる汁物には、山菜の乾物が入ってよく煮込まれていて、芋や大根の煮たのもあった。雑穀は湯で炊いて、白い湯気を立ち上らせる粥。それへ漬物を刻んでのせて。

「すみません、結局俺の分まで」

 ギンコが言うと、追い掛けるように久蔵も。 

「いやぁ、俺こそ、こんな何日も厄介になっちまって」
「いいんだよ、困っている時はお互い様っていうだろう? それにな、こうして見知らぬ人を助けてあげられて、良い年越しが出来そうだ。ありがたいくらいさ。なぁ、お前」
「そうですとも。大人数のご飯を作るのも、これで楽しいもんなんですよ。ね、みぞれ」
「うんっ、賑やかな方が好き。いつもこの里、静か、だから」
  
 また、短い沈黙が落ちた。何か言おうとギンコが口を開いたとき、それよりも早く久蔵が言った。

「そんないつも静かでもないだろう? 春には渡りの鳥が沢山この里に来る。おじさんな、前に行き会ったこともあるよ。秋は里中で外に出て見送るんだよなぁ」
「うんっ、私も去年、見たっ」
「そう、だったか? おぉ、そうだそうだ。みぞれも見たな。去年のは凄かったんだ、一瞬暗く感じるほどだったんだよ」
「そうね、あれを見ると、みんななんでか嬉しくなって、どこかの家に行って騒いだりしてねぇ。お祭りみたいに」

 それから、ギンコはその話を促した。一度思い出せばするすると、話は盛り上がって、思い出話は一際あざやかに。渡り鳥の話から逸れて、春に拙く、幼い鶯の鳴いた話から、燕がどこぞの家に軒に巣を作った話。その燕の子を狙って現れた狐を、みんなで追い払ったこと。

 話が途切れると、久蔵かギンコがその都度、旅先での話をした。もう話は尽きたというのに、無理にでも思い出し、或いは、時に作り話をしてでも。人に聞いた話でもいいから、ずっと古い話でもいいから、途切れないように、止まらないように。










 あけましておめでとうございます。昨年中は「LEAVES」ご愛顧下さり、本当にありがとうございました。

 さて、2019年もあっという間に過ぎ去っていきました。その2019年の終わりの12月31日の夕方に書き始めたこの年越しノベル。毎年恒例のそれを、今年も書けましたことを、今はなにより安堵しています。

 前後編、丸一日以上かけた一気書きです。続きもどうぞっ。