年瀬守 ・ 後






 今、時は止まらずに動いている。もう昼を随分過ぎただろう。昼飯は朝餉の残りを皆で囲んだ。外では相変わらず風が吹き荒んでいる。雪がいくらでも降り積もっているだろう。強い風が戸を揺らし、ガタガタと鳴った音を聞いて、女が腰を浮かせた。

「誰か来たかねぇ。お夢さんかもしれない。そういえば、確か…お漬物を分けてくれる話をしてたっけ」

 ギンコと久蔵が、共に小さく息を飲んだ。

「今のは風の音ですよ、ただの」
「うん、戸が風で揺れただけだなぁ」
「あぁ、そう、かしらね?」

 女もまた、ぬくもった囲炉裏端へと腰を落ち着けた。パチっ、と火が爆ぜる。久蔵が薪を足しながら笑顔を作る。

「風が止んだら俺が、戸の立て付けを直そうかい? 何日も世話になってるお礼だ。他に家の中で、何か出来ることがあったら何でも」
「ありがとうねぇ、助かるよ」
「蟲師になる前、俺は実は大工になろうとしてたんだ、器用なもんだよ、うん」
「ほぉん、見えねぇな」
「あぁ? どういう意味だいっ。そんでっ、そう言うあんたは蟲師の他に何かやってたのか?」
「俺かい?」

 二人の軽口を肴に、家の中には笑いが満ちる。久蔵も顔が赤くなるほど笑っている。あたたかい。あたたかさと幸せが、この小さな家の中に膨らんで、ギンコは酷く嬉しくなった。

「俺はなぁ、ずっと蟲師さ。それしか無いよ。どれ、蟲のことも少し話そうかね。あぁ、蟲の話なら俺は尽きねぇよ。今から話せば、そうさな、そう…春までだって、ずっと話すよ」

 にやり、笑って。猫背のままの上目遣い。夫婦も子供も興味津々。久蔵も、俺だって負けてねぇさと張り合った。

「よっし、ちょっと早いが酒だ酒っ。ミユキ、お前もたまには少し飲んだらどうだ。今日は晦日じゃないか」
「そうかい? いいお酒が残ってたかねぇ。どれ見てくるよ」

 女は酒を取りに行き、男は肴を見繕いに行く。ギンコは木箱を引き寄せ、抽斗の一つを引いて、奥の方から菓子を取り出した。今日の為に友から貰っておいた干菓子だ。色とりどりで、雪の結晶のように、きれいな形の。

「わぁーっ、かわいいっ。なぁに、これ」
「甘い菓子だ。こんぺいとう、って言うんだったかな」
「一つ貰っていーい?」
「いや…ぜんぶやる。ぜんぶ、お前さんのだよ」
「えぇーっ、ほんとう? いいのぉ?」

 子供は嬉しがって、広げた手のひらの上に、色の違う何個かを並べてはしゃぐ。

「溶けちまうぞ、そんなしてたら。早く食べな」
「もったいないもんっ、今日は三つだけ」
「そんなことを言わずに、もっと食べな? 気に入ったなら、持ってきてやるよ、また、いつか」
 
 酒と肴が持ってこられ、随分早い夕餉が始まった。朝や昼とあまり変わらないが、台所にある材料もそんなに色々は無い。他は外の雪の中に埋めてあって、長い冬をそれで越すのだと男が言う。

「毎年そうだ。此処は見た通り雪が深いから。後で少し雪退けをしてくるかな。埋めた野菜が掘り起こせなくなったら大変なんだ」
「それなら雪の止むのを待って、俺らでやりますよ」
「おう、やってやら。任しておきなぁ」

 ギンコは蟲の話をする。美しい蟲の話。蟲絡みでも良い話、面白い話。珍しくて、夢中になるような話。競うように久蔵も話を披露した。言葉の通りに話は尽きない。酒もよく進む。時間も進む。晦日の日は、刻々と暮れていく。

「はぁ、飲んだなぁ、飲み過ぎた」
「あたしも、ついついお話が面白くってさ」
「みぞれ、みぞれね、ちょっとだけ、ねむい」

 男は囲炉裏端に寝転がった。酒も入ってあたたかくて、大あくびがひとつ。女は子供を抱っこして、ゆらゆらと数回揺れると、そのまま舟を漕ぎ始める。子供も、笑んだ顔のまま、もう寝ている。

 二つ、行燈に灯していた火の片方が、油が切れたのか、ふっ、と消えた。部屋の明るさが半減する。もう一人の蟲師以外、もう誰も見ていないから、ギンコはずっと笑顔でいた顔を、少し俯けた。

「…こんなに笑ったのは久しぶりだ。顔が痛いくらいだ」
「俺もさ。なぁ…。いい、仕事だったぜ、あんた。すげぇなぁ、俺は去年の暮れ、こんなにうまく出来なかったよ。その挙句、囚われて、なぁ」
「もう言ったぜ? 俺はあんたを責めない。俺だって、誘惑に負けたかも、しれないしな。あんたはまだ眠くはならんのかい?」
「いんや、まだ」

 酒の残りのほんの少しを、ギンコは仲間の猪口に注いでやった。まだ、とは言いつつ、もう彼も眠そうだ。時が来ているのだろう。思ったよりも、早かった。

 ギンコ一人で、眠った「彼ら」を順に寝床へ運ぶ。まずは男を。次には女を。子供の小さな体を抱いたとき、もうその体は、少し冷えていた。それを見ていた久蔵は、ぽつり、言う。

「手伝わなくてすまんな。でもそれは、あんたの。トシノセモリの役割だもんな」
「その通りだよ。あんたも寝ていいぞ。わかるよ、眠いだろ」
「あぁ…。すまんな、ほんとうに、仕事を増やして、すま…ん…」

 どさり、彼の体が横倒しになる。ギンコは子供の体を、布団の中の母親の腕に抱かせた後、久蔵の寝ていた布団のひと揃えを、家族を寝かせた部屋まで運び入れた。そしてそこに彼を寝かせたのだ。

「…並んで眠りゃあいい。もうあんたは、ここの住人だろう? うっかり囚われちまったことも、来年には忘れていなよ。ちゃんとそう書いといてやるよ。来年の今日、此処に来る蟲師に、どうして欲しいか伝わるようにな」

 ひとり囲炉裏端に戻ったギンコは、もう一つの行灯も吹き消した。囲炉裏の火も小さくして、後はその時間まで、此処を見守るのが彼の仕事だった。

 ぱち。ぱち。と、囁き声のような、小さな火爆ぜの音がする。外にしんしん降り続く雪の音も、風のひゅうひゅう言う音も、何かを語り掛けているように思えた。遠い昔の賑わしさが、その中に隠れている気がする。ほんの一部分しか役立てなかったが、じっくりと読んだ、あの記録をもう一度思い出す。

 明るい良い里だったという。足りるだけなんとか穫れる田畑の作物、豊かな山菜と木の実を、街道近くまで出て露店で売り、かわりに行商人から日々に必要なものを買っていた。

 野草の花は咲き乱れ、里は山と山の間にひそり。こんな辺鄙なところだから、殆ど閉じたようなものだったが、それでも外から来たものに優しくて穏やかで、里中みんな仲が良くて。年に二度の祭りのように、春には渡り鳥を皆で迎え、秋は皆で見送るそうだ。その様はけれども、もう、遠い遠い、遠い過去。

 その、過去が、途切れたのはいつのことか、正確には分らない。残された記録によれば、もう三十年以上にもなるぐらいには、昔。この里は、ある蟲師の不始末に、巻き込まれたのだという。逃げる間もなく、里ごとすべて。
 
 その時に、里の殆どは「ヒトの世」から消えた。たった一つの家、たったひと家族を除いて、消えてしまった。完全には消えなかったその一家も、一年のうちの殆どすべてを眠って、居る。

 トシノセモリは彼らが目覚める、ほんのひと時、大晦日のたった一日を、見守る役目、なのである。
 
 ギンコは木箱を身脇に引き寄せ、囲炉裏に小振りの薪を少しだけ足した。眠る四人を今一度、本当に深く「眠った」かどうか確かめて、あとの始末をし始める。

 彼が持ち込んだ台所の野菜や乾物、そして酒。随分減ったそれらをまとめ、しまえるものは木箱に入れた。入らないものは持ちやすく、風呂敷に包んで木箱の上に括りつける。置いていくわけにはいかない。置いて行っても仕方ない。何しろ、来年の今日まで、此処でこのままになってしまうから。

 なるべくゆっくり、丁寧に、この一日で動いたものを元に戻す。これも来年の今日の為だ。一年後に目を覚ました彼らが、何も疑問に思わず過ごせるように。

 全部に納得がいくように済ませた後、ギンコは丁寧に「記録」の続きを書いた。今日一日のこと、来年の今日のトシノセモリが、読んで助けに出来ること。なんの話で盛り上がったか。逆に、この家族が何を気にして、何がほつれになりそうだと思ったか。

 晦日の今日以外を眠り続けていること。この里の彼ら以外が、もうヒトの世に居ないこと。気付かれてはならないそれを、隠し通すための細かな助言、細かな記録。

 時間をかけて「記録」を綴り、気付けば外が仄明るい。夜が明けかけている。年が改まるのだと分かって、ギンコは囲炉裏の火を、万が一が無いように念入りに消した。灰をかけ、灰をかけして、燃えていた火を埋めていくと、そのこんもりとした形が、雪の積もった様に似て見えた。

「…さて、行くとするか」

 上着を着て木箱を背負い、ふと目が行った囲炉裏端。こんぺいとうを包んだ、小さなおひねり。それを戸棚にそっとしまって、ギンコはこう、記録に書き添えた。


 追記
 
 トシノセモリ殿へ。
 戸棚の一番小さな抽斗に、
 子供にあげた干菓子がある。
 もしも傷んでいないようなら、
 思い出させてやって欲しい。 

 
 あとはこの「記録」をあの祠へ戻して、彼の役目は終わりだ。せっかく苦労して掘り起こしたものを、雪にもういっぺん、埋もれ切っていなけりゃいいが。

 ガタリ、立て付けの悪い戸を開けると、雪は止んでいた。そういやこの戸を直してやるのだったか。いや、それは多分、目を覚ました久蔵の仕事なのだろう。

 目の前の小さくなだらかな雪の山は、とうの昔に崩れた隣家。向こうにも一つ、また一つと幾つか見える。どれが『シンさん』の家か『お夢さん』『セイさん』の家だったのだろう。それまでは記録にはなかった。

 一歩、雪靴の足を踏み出して、さくりと音の鳴るのを聞けば、小さな雪の山で隠れていた日が、急に視野に入ってきた。

「…眩しい……」

 この家に住む誰もが、二度と見ることの無い、新年の日の出だった。眩しすぎるほどだがギンコはだから、目は逸らさずに眇めるだけして進んでいく。

 里を出て歩く間に、ふと思い出したことがある。

「…そういえば。トシノセモリのこの役目、いつ死んでも悔いない様な輩にゃ回ってこないんだ、って、いつだか誰かが言ってたな。そうでなくとも、うっかり囚われる危険がある、って話。イサザだったか、言ってたの」

 …いつの間に、俺はこちら側になっていたのだろう。

 ふい、と脳裏に浮かんだイサザの顔が、次には腹立たしいような別の顔になる。明るい表情、歯まで見せて、満面の笑みの医家にギンコは雪礫をぶつけたいような気になった。

 多分お前のお陰だ、なんて、絶対言わねぇよ。うっかり言いそうな冬の間は、行く気がねぇしな。あぁ、でも。

「お前のくれた"こんぺいとう"が、役に立った礼ぐらい、忘れなかったら言ってやるか」

 目の中の太陽の残像が、少し煩い。早く消えないものかとつい思う。でもこんなふうに、眩しいものや明るいもの、あたたかいものや嬉しいものは、心の奥にいくらでも残っていくのだろう。彼らが、教えてくれたように。

「あぁ、眠いなぁ。…まず、どこかでひと眠り、しないとな」

 


 終 






 最後まで読んで下さり、ありがとうこざいました。なかなか楽しく気持ち良く書けました。これで今年一年書き続けていられる、と思っています。そういう願掛けなのですよ。へへへ。ともあれっ、新しく始まった2020年も、どうぞよろしくお願いしますっ。

 えっと、年越しノベルにしては、ちょっと淋しい感じのお話かなとも思いましたが、これがうちの味なんだな、と改めて思った惑い星、でしたっ。



2020.01.01