と も だ ち  前編 




 すらりと背の高い、若い娘が一人、山間の街道を歩いていた。

 ところどころ木々が切れていて、遠くの海が見渡せるなだらかな道である。旅人の姿はまばらで、見える限り、ほんの四、五人ほど。それがそれぞれ距離を開けて、それぞれの歩調でこの先の街を目指している。

 娘が背に斜め掛けした荷は小さく、彼女は慣れた足取りで進んでいく。娘は楽しそうだ。しゃんと背筋を伸ばした歩き姿の、肩のあたりで切り揃えられた髪が、ゆら、ゆらと左右に揺れているのまで、どこかはしゃいでいるように見える。

 楽しくて堪らないせいなのか、ついつい歩みが速くなるのを、時々気付いては緩めるのだが、またすぐに速くなってしまう。知らず上がっていた息を、はぁ、と深く吐きながら彼女は足を止め、そこから見える風景をじっと眺めた。

 遠くに見える海の上、きらきらと光が踊っている。青の中で、小さく小さく波立つ白い波頭が、横一列に並んで波打ち際へと寄っては消えて、また沖で生まれる。その繰り返し。

 ふふっ。

 嬉しげに、うっかり笑ってしまって、誰かに見られたのではないかときょろきょろし。そんな彼女の後ろから、急に掛けられた声があった。

「ちょいと聞きたいんだがね? ここらで安い宿屋を知らねぇかなぁ」

 振り向くと、見慣れない洋装に白い髪の男。四角い木の箱を背負っている。その姿に少し驚いて、口篭もってしまいながらも、娘は懐から小さく畳んだ地図を取り出し、それを広げて男に見せながら教えようとした。

「…は、はい。今いるのがここら辺の筈ですから。宿屋でしたら、この先の分かれ道をこう、下にくだるか。もしくはもう少し真っ直ぐ進んで。そうですね、あと一刻半も歩けば、この街に出られるので、そこなら宿屋は沢山。街場で少し値は張りますけど…。……あの…?」

 宿の場所を聞いておきながら、その男は地図に視線を落していない。たった今自分たち後ろを行き過ぎて行った、二人連れの男の背中ばかりを見ているようだ。
 
「…あんた、今の二人連れの男の顔を見たかい?」
「え? えぇ。あのお二人だったら、少し前で一休みしたお茶屋さんから、ずっと私の後ろを歩いていて」

 どうして追い抜いて行かないのかと、実は気にしていたのだ。後ろから時々聞こえる笑い声や話し声も、内容までは聞こえないものの、あんまりいい感じがしなくて。 

「ありゃぁな、スリだよ。別の街で人相付きの触れ書きを見た。お前さん女一人だし、付け狙ってたんだろう」
「…っ、あ」

 このまま歩いていたら、他の人の姿が無くなった時、無理に荷を奪われていたかもしれないのだ。毎年のようにこの道を通っていて、一度も危ない目にあったことがないので、安心してしまっていた。

「ありがとうございますっ!」
「いんや、俺ぁ、別段何もしてないがね。でもまぁ、この先も暫く山間の道が続く。気ぃ付けたがいいよ」

 言いながら、男は彼女が歩き出すのを、海の方を見る横顔で見送った。そして彼女が少しだけ歩き進むと、自分もふらりと歩き出す。まるで、見守っているように、だ。

 やがては道は大きな曲がり角に差し掛かる。針葉樹の木々も混んでいて、角を先に曲がった娘の姿が、男の視野から消え、それを見た男は脚を速めて、すぐにも彼女を視界に入れようとした。

 …と。

「はい、どうぞ。よかったら」

 娘は曲がってすぐのところにあった切株に座り、男へ向けて水筒の茶を差し出して居たのだ。

「あーー。悪いね、どうも」
「どう致しまして。私、アサって言います」
「ギンコ、ってんだ。旅の蟲師だよ」

 ギンコはちらりとアサの顔を見ながら、そう言った。アサが小さく息を飲むのが分かる。ギンコはその先を言うかどうかほんの少し迷って、結局は言った。

「なぁ、お前さん。蟲が見えてるんだろ?」
「……蟲師さんには、誤魔化せないですよねぇ」

 一瞬で強張った肩の力を、深く息を吐くと同時に抜いて、彼女は自分も一口、茶を飲んだ。

「最初見た時には気付いてたんです、あぁ、きっと蟲師さんだ、って。その木の箱って蟲師特有のものでしょう? 私、住んでいる土地がかなり大きな街の隣だから、旅の人の姿も良く見るんです。私が見てるものが『蟲』って生き物だってことも、ずうっと小さい頃に、通りすがりの蟲師さんが教えてくれて」

 ギンコは彼女から身一つ離れた岩の上に座り、蟲煙草の煙を薄くあたりに漂わせながら、アサの話を黙って聞いている。アサは初めて人に打ち明ける話を、それでも殆どよどみなく語った。きっと、いつかは誰かに言いたくて、でも言えなくて、心の中で繰り返してきた言葉だったのだろう。

「その人は私にこう言ったんです。誰にも言わない方がいい。きっとみんなに怖がられる。自分は子供の頃、親兄弟や友達に言ってしまった。途端にみんなから嫌がられて、辛かった。気が触れたのかと思われたし、病持ちみたいに言われて、言ったことを心底後悔した、って」

 彼女の言葉が途切れてから、ギンコは短くなった蟲煙草の火を消した。新しいのをつけようと、懐から取り出して。けれど火を点けようとせず、片手で煙草を弄んでいる。そして彼は、ぽつり、と言ったのだ。

「…でも、お前さんは蟲が好きだろう? 歩きながらずっと、楽しそうに見てた」
「……そんなこと」
「言い当てられたくなかったんだったら、悪かったがね」

 そしてギンコは身振りで彼女に、先へ行くようにと促す。少なくとも大きな街へ入るまでの間、後ろから見ていてやるつもりだからだ。さっきの悪党たちが、いつまた戻ってきて、彼女を狙うか分からない。
  
 彼女は立ち上がり、ぺこりとお辞儀をしてから、そのまま歩き出そうと背を向けたが、一歩足を踏み出す前にギンコへと向き直った。

「不躾ですみません。ギンコさん、次の街まででいいので、隣を歩いて貰えませんかっ。少しですけど、お礼はします」

 ギンコは眉を上げて見せてから、少しだけ笑い、いらない、と言うようにぞんざいに手を振って彼女の隣に並んだ。

「俺も蟲の見える話相手にゃ、いつも不自由してるんだよ」
「あぁ、ありがとうございます」

 二人はそれから道なりに、話をしながら歩いた。ギンコは自分へと近寄ってくる蟲達を、最小限の煙でやんわりと追い払いつつ、それぞれの蟲の名前や、どんな蟲なのかをアサに教える。危険なもののことは特に詳しく。そして時々は脚を止め、遠くを漂う美しい群を指差し、二人並んで眺めたりもした。

「きれい…! あの蟲達のことは、私何度も見たわ。この海の真上で群れていて、まるで波の姿を映すようにさざめくの。見るたびほんとうにきれいで、だから私…いつも……」

 急に沈んだ声になった彼女の顔を、ちらり、ギンコは見た。けれど何も言わない。どうした? とも聞かずに、ただ火を灯した蟲煙草の煙を、ふわ、と大きく吐いた。ギンコの目の前に居た、ちょっと面白い形をした蟲が、三本の足を忙しく動かして、うっかりギンコの顔の方へと漂ってくる。

「こらこら、こっち来てどうすんだい」

 呆れたような口調で言うギンコの顔を、アサが、まだ沈んだままの顔で見て、ぷっ、と吹き出した。ギンコの鼻筋に貼りついた蟲は、焦って彼の前髪に潜り込もうとしていて、ギンコはと言えば、選り目になってその蟲を見ていた。

「…蟲師さん、面白い顔…!」
「あーー、そうかい? 元々さね」

 蟲の尻尾をつまんで顔から剥がし、足元へとそっと逃がしてやってから、ギンコは荷の中から水筒を取り出した。地面に腰を下ろし、水筒を少ししつこく振ったあと、蓋を取ってアサに差し出す。お礼を言ってアサはそれを受け取り、ほんのひと口、口にしたあと…。

「え? これなんですか? 甘い…」
「蜂蜜を溶かしてあるんだと。知り合いの医家がよく勝手に俺の荷に入れるのさ。そいつも、お前さんみたいに蟲が好きだ。見えもせんくせにだぜ? 面白いだろう? だからたまぁに、ついでがあった時だけ、蟲の話をしてやりにいくんだよ」

 ふー、とまた煙草の煙を、今度は細長く出して頭を掻いているギンコ。アサは一口だけ飲んだ水筒を、じっと見つめてから、両手でしっかりと持ったままギンコに返した。

「はい。大事に飲んだ方がいいですよ。ギンコさんの顔に、その人のこと好きだって書いてある」
「うぐ…っ」
「気の合うお友達なんですね。羨ましい」

 続いた言葉を聞いても、ギンコはそのまま咳き込んだ。顔が赤くなっている。

「…ぐっ、げほ…っ、ごほっ。ま、まぁ、その、な。悪友、みたいな?」
「お友達。友達っていいですよね。ギンコさんの友達も蟲が好きだなんて、いいなぁ…」

 咽て苦しそうなギンコに、アサは自分の水筒を差し出して笑う。どこか淋しそうな顔をして、彼女はギンコの隣に座った。

「私、お友達に会いに行くところなんです。だから凄く楽しみで、こうして歩いてるのも楽しくて」

 でも、少しだけ…。

 ぼそり、と零れた声はギンコに届いた。ギンコは彼女の方はあえて見ずに、自分が感じたことをゆっくり言葉にする。きっと当たっているだろう。彼女の淋しさ。彼女の抱えていること。その迷いも。

「友達に、隠し事があるのが辛いのか…?」
「………」

 アサは木々の隙間の遠くに見える、海の色を見ながら、小さな声で本音を言った。

「ほんの少し、だけ。だって会いに行って、一緒に時間を過ごすだけで、楽しいから。それ以上は贅沢。それに…もし…」
「嫌われたら、悲しい?」

 蟲が見えることを話して、
 そのせいでもしも嫌われたら?
 変なことを言う子だと思われたら?
 嘘つきだと思われたら?
 
「ユウは…」
「ユウ?」
「私の友達の名前。ユウはそんな子じゃないって分かってる。でもどうしても、いつも、言えない。臆病で馬鹿ですよねぇ、私」

 ギンコには、彼女の気持ちが分かった。大切だからこそだろう。万が一の不安が、彼女の口を開かせない。ちゃんと友達を信じていても、それでも言おうとすると、怖気てしまう。

「…さて、ねぇ」

 ギンコが何か言おうとしたその時、これから二人が向かおうとする街道の向こうから、四人の人影が見えた。そのうちの二人は、どうやら件のスリ。二人は口汚く悪態を吐きもがいているが、両腕を後ろに回され胴に縄打たれて、逃げようにも逃げられないようだった。スリ共の後ろに付いているのは役人だろう。触れ書きが功を奏して、とうとう捕まったということか。

 ギンコと彼女は顔を見合わせて、アサはほっとしたように表情を緩ませる。悪人たちの罵り声が遠くなってから、ギンコは立ち上がり、木箱を背負い、改めてアサへと言った。

「あんたが馬鹿ってことも、無いんじゃないか? 言いたくなきゃ言わなくていいし、言わないことに罪悪感なんか感じなくていい。せっかく会いに行くんだろ、暗い顔してんなよ? ちゃんといつか、機会は来るもんだ」
「そう、ですよね。えぇ、はい。笑って会いに行くわ。楽しいこと、沢山あるんですもの。ありがとう、ギンコさん」
「いや、なんもしてねぇって」

 そう言って、軽く上げた手を振って、ギンコは彼の歩調に戻り歩いていく。さっきまでずっとアサに合せていたのだと、はっきり分かる速さだ。アサは振り向かないその背中に頭を下げ、もう少し休んでいこうと水筒の水をまた一口飲んだ。

 足元を、丸い蟲が三つ四つ、ころころと踊るように転げていた。

「可愛い…。一緒に見れたら、楽しいだろうなぁ」












2018.03.25