と も だ ち  後編 





 ギンコが山中を歩いていると、上からばらばらと樹皮の欠片が降ってきた。立ち止まり見上げた視野に、女らしからぬ強引さで、樹によじ登って行く、うら若い娘が。 

「何してんだ? お前さん」
「え…っ、わわっっ」

 急に声を掛けられ、驚いた拍子に足が滑って、一瞬落ちかけるも、娘はなんとか態勢を立て直し、登ろうとしていた太い枝の上に立ってギンコを見下ろす。

「何って、樹登りよ!」

 太い眉、短く切った髪、背は小さくて。そのせいか少しばかり丸い印象。でも間違いなくそれは若い娘子である。

「なんで樹になんか登ってんだ? 落ちるぞ」
「落ちやしないわ、いつもだもの。この樹に登ると一番よく見えるの。ええと、色んなものが…。遠くの風景とか、こっちへ向かってくる旅の人の姿とかも」

 言いながら、彼女はもうギンコの方など見ていなかったのだが、暫し遠くを見る視線をした後、はた、と気付いたようにまた彼の方へ眼差しを戻した。

「お兄さんっ、変わった髪の色ね? その着物も、見たことない。大きい荷物。商人なの?」

 彼女はするすると、危なげなく樹から下りてきて、あっと言う間にギンコの前に立ち、無遠慮にじろじろとギンコの髪や顔を見上げる。

「商人じゃない。……蟲師…って生業だ」

 はっきり聞こえるように、ギンコは言った。すると娘は目を見開いて、ついでに口までぽかんと開いて、何か言いたげに口を動かした。けれど結局、一度口を閉じて、言い掛けたこととは別のことをギンコに聞いたのだ。

「ねぇ、蟲師さん、教えて欲しいことがあるの」
「なんだい?」

 娘は辺りをゆっくりと見回して、それからギンコの顔へと視線を戻し、酷く真剣な顔をする。

「この里、って、余所と比べて蟲が多い? 危ない蟲とか、居る?」
「どうして?」

 ギンコが跳ね返すようにそう聞くと、彼女は焦ったように視線を逸らした。足元の小石を蹴り、生えている草を数本抜いて、落ち着かないそぶりをした後、ようやっと彼女はこう話す。

「別に。ちょっと…心配だからよ。この里に元々住んでる人より、外から此処を訪ねる人の方が、この土地の蟲から悪い影響を受けたりするのかな、って、そう思っただけ。あの…。こう見えて、けっこう旅人が通る里だからっ」
「そうさなぁー」

 気の無い様子で後ろ頭を掻きいてから、ギンコはニヤリと笑って。

「お前さん、それを俺にただで聞こうってのかい? 情報ってのは売り買いされるもんなんだぜ?」
「……わ、わかったわよ。でもわたし、お金なんか持ってないから、何か別のものにしてもいい?」
「あぁ。売って金に変えられるものだったら、俺が助かるんだけどな」
 
 そんなわけで、ギンコはその娘と一緒に、その山中を歩き回ることになる。なんでも娘は、子供のころからこの山を遊び場として暮らして来たから、食べられる草、薬に出来る草には詳しいというのだ。

 娘は随分と真剣だった。細道でギンコを待たせ、背と同じ高さの草薮を漕ぎ、どんどん奥へと分け入っていく。ガサガサと揺れる草の向こうから、ヤマウドやタラノメ、イタドリなどを、両手に握っては戻ってくる。それをギンコに渡し、また草の中へ戻ろうとする彼女を、ギンコは、もう充分だよ、と言って引き止めた。

「あっちにまだまだあるよ。煎じれば薬になる草だっていっぱいある。ほんとにもういいの?」
「あぁ、これ以上は暴利ってもんだ」

 木箱に腰を下ろして待っていたギンコは、手にした水筒を彼女に差し出して言った。

「これを一口飲め。疲れが取れるぞ」
「ありがと! わぁ、変わった味! 甘いのね、でも美味しいっ」

 一口と言ったのに、勢いで二、三口飲んで、ちょっと申し訳なさそうに、彼女はその水筒をギンコに返す。ギンコは水筒を受け取り、それを丁寧に木箱の抽斗へしまってから、彼女に向き直った。

「じゃあ教えてやる。俺の見たと、ここには人に害為す蟲はいない。でももし、空中を浮遊する海月に似たのを見たら、その時は触らんようにな。山海月って名で、こういう土地によく発生する蟲だから」
「……え…」

 言われた娘は絶句して、でも、それほど慌てはしなかった。

「…わたしに蟲が見えてる、って、いつ分かったの?」
「んー、まぁ、最初からなんとなく。あと、こうして一緒に山中を歩くことで確信が持てた。お前さんも蟲が嫌いじゃないみたいだなぁ。間違って踏まないようにしてるし、手でやんわり避けたりしてたし」
「そっか。蟲師さんにだったら、別に知られてもいいけど。うん、わたし蟲が好きよ。不思議なものは、なんだって好き」

 彼女は唇を引き結び、改めてギンコに頼み込む。見えているともう知られてしまったのなら、頼みやすいと思ってのことだろう。真っ直ぐで真剣な目。その眼差しで見上げられたギンコは、次に言うことを既に決めていたのである。 

「ねぇ、わたし、まだたくさん山菜や薬草を取るから、危険な蟲をもっと教えてよ。せっかく見えるんだし、知っておきたいの」
「悪いなぁ、俺もそんなに暇じゃあねぇから、これ以上は付き合えんよ。でも丁度、つい少し前、此処へ向かってくる旅の娘さんに、ここらにいる色んな蟲のことを教えたから、その娘さんから聞くといい。聡明そうな娘だったから、きっと、俺が歩きながら教えたこと全部、頭に入ったさ」

 そしてギンコは殆ど確信して、目の前に居る娘の名前を呼んだ。

「そんだけ互いが大事なら、怖がるべきことなんかそうはない。不安がることもないさ。この際彼女と、腹でも何でも割って話してみなよ、ユウ」

 そう言ってやると、ユウは目玉が落ちそうなほど大きく目を見開いて、ギンコにこう聞き返した。

「会ったのっ?! もしかして一緒に歩いたのっ? アサとっ?」
「あぁ、まぁ、浜見峠の下から、次の街の手前あたりまで」
「ええーっっ、いいなぁ。わたしね、アサといつか、一緒に旅するのが夢なの。ぜったい楽しい筈だものっ。あっ、じゃあもう来るっ?!」

 そう言うなりユウは、近くで一番登り易そうで、大きな木の幹に縋り付き、随分と器用によじ登って行く。年頃の娘にしては、お転婆が過ぎると思ったが、止める間もあらばこそ、である。

 ギンコが見上げる頭上で、ユウはぱぁっ、と顔を輝かせ、遠くへと大きく手を振って友達の名前を呼んだ。

「アサ…っ、アサーーーーっっっ。来たのね。来てくれたのねっ。今、そっちへ行くわっっ。あのっ、あのねっ、話したいこと、いっぱいあるのーーーっっ」

 叫び終えると、ユウは登ったのと同じに、慣れた仕草で樹を下りてきて、乱れ掛けた着物を手早く直し、髪を急いで撫でつける。そうしてあとは駆け出すのだ。暫し渾身で走って、走りながら一度だけ振り向き、ギンコへと言った。

「ありがとう、蟲師さんッ。ずっと言えなかったことだけど、ちゃんとアサに打ち明けるわ! ほんとにっ、ありがとうっ!」
「あぁ」

 届く筈のない声でそれだけ言って、ギンコは歩き出す。でも暫らく歩いてから、里へと下りる寸前の、木々の切れた場所で振り返った。広い草原のずっと向こう、アサとユウが並んで立って居るのが見えた。

 二人が並んで、海の真上の空を見上げている姿が、ギンコの居る場所からもよく見える。海の映し身のように美しく、蟲の群が揺らぎ空を泳ぐのを、二人は心吸われるように、じっと見上げているのだった。

 ほらな、
 何にも心配なんか、
 いらないじゃないか。

 ギンコは蟲煙草を取り出し、それへと火を灯して煙を燻らせながら、彼自身の友の顔を思い浮かべる。

「今度は俺が羨ましくなっちまった。会いに行くのは、もう少し先にするつもりだったんだがなぁ」

 緩い弧を描く湾を、ここから向こう二つ越えると、友のいるかの里に辿り着く。蟲が見えない癖して蟲が大好きで、ギンコの心をいつも癒してくれる、とある変り者のいる里まで、急いで歩いて、あと半日。






  
 







 思ったよりずっと長くなってしまいました。タイトルは考えてなかったんですけど、つけようとしたらこれしか思い浮かばなかった。大切な友達と一緒に、同じものが見られることって、本当に素敵なこと。

 3月25日

「ともだち」に
 ありがとう。
 心から。




2018.03.25