この手のなかの奥底に  9 






 浜沿いをなぞるように歩いて、小屋を借りては夜を過ごし、何日目のことだったか。目覚めると、ギンコの姿が見当たらなかった。

 木箱はすぐそこにあって、イサザは小屋を出て彼の姿を探した。岩の上に、こちらへ背を向けて座って、抱えた膝の上に傾けた頭をのせ。あれはきっと目を閉じて、波の音を聞いている。潮の香りを、吸っている。

「…ギ」

 ギンコ。くれると言ったのは、心か?
 それともただ、その体を?
 あいつを恋しがってばかりの心を、
 あいつに抱かれたがっている体を、
 俺に、どうしろっていうんだよ…。

 つい責めるような感情の底から、為す術の無い痛みが浮いてくる。縋ったのはギンコからかもしれないけど、俺だって望んでお前の手を取ったのに。

 お前の心がやがては解けたら、引き寄せて安らげてやりたいと思ったのに、少しも出来ていないじゃないか。いつそう出来るのかも、分からない。

 まだ遠い背中に、近寄れなくて、イサザはギンコの木箱を下げたまま、じっとその姿を見ていた。まるで今にも姿を薄れさせて、消えていってしまいそうに思えるのだ。それが酷く、悲しい。ざざん、ざざん、波が鳴るごと、ギンコの輪郭が朧に溶けるようで堪らなかった。

「…もう、行くぞ」

 それしか言えなくて、ぼんやりとした顔のまま、こちらを振り向くギンコに近付いて、イサザは手を伸べる。ひいやりとした腕を掴んで、乱暴に引いて歩いた。

 初めて会った時の、痩せた細い手首とは違う。
 でもまだ無理にでも、俺が支えられたら、って。
 危うげなお前に、喜んじまって。
 
 でも…。

 時間が要るんだ、きっと。何年も、何年も。忘れるための時間が。会いたい気持ちを押し殺して、日々の流れるのに身を任せていれば、きっといつかはあいつを忘れられる。そんなヤツがいたっけって、ただの遠い過去に出来る。

 その間、ずっと、
 俺が居てやれるわけでもないのに? 
 たったひとりで蹲り、我慢してろよ、って、
 俺はお前を、また突き放すのか?

「イサザ、痛ぇよ…?」
 
 ぎっちりと握られている手首を揺らして、ギンコは責めるでもなくそう言った。振り向いて見れば、透き通るような眼差しが少しばかり笑ってた。

「ギンコ」
「…んん?」
「ギンコ…」

 どうしたんだ? と、ギンコは問い掛けてくる。澄んだ目をして、ここに居ない誰かのことばかり、きっと考えながら。

「お前も、来いよ。ワタリに混じってさ…。多分、蟲除け切らさないようにしときゃ、きっと大丈…」
「おいおい、怖いこと言ってくれんなよ?」
 
 ワタリの若頭が光脈にも関わることを、多分とかきっととか、不確かなことだらけで決めるなんて。ギンコはようやっと、イサザの手から木箱を受け取り、慣れた仕草で背中に背負った。

「あと何日で合流だ? 久々だから皆の顔見て、そしたら俺はそこから別行動ってことにするさ」

 瞬間、イサザは怒ったような顔をした。それから項垂れて、見せないように顔を歪める。

「駄目だ。今、お前の手は離さない」
「イサザ…」
 
 静かに宥めるような声に、重なるのは波音。

「少し、離れて…しばらくは近くにいるから」
 
 見張っていてくれよ、俺を。
 あいつのところに行かないように。
 弱くて愚かな俺がまた、
 あいつへと舞い戻って行かないように。

「あと、三日ってとこだ…」

 イサザは項垂れたまま、食い縛った歯の内側からそう教えた。少しばかり離れたって、それでも光脈に影響があるのかもしれない。それだけ危ういことなのに、突き放したくない。苦しげなイサザの顔を覗き込むようにして、今度はギンコが呟いた。

「遠くからでも、お前が気に掛けてくれりゃぁ、さ。なんとか歩いて行ける。ずうっと、抱えたままだってな」
「……」

 ずっと、とギンコは言った。それは予感だろうか。生涯忘れぬと言う、まるで、誓いにも似たその言葉を、ギンコはイサザに聞こえるように声にする。それを、酷いとも思わないで。

 視線を上げて、恨むように、イサザはギンコを見た。けれどもう、ギンコは彼の方など見ていなかった。緩く顔上げ、流れる雲を見て、あの海里へも繋がっている空を、感じているように思えた。

「約束、しろよ」

 酷く震える声が、波音を遥かに制した。

「約束?」
「そうだ。もう会わないって、言えよ」
「…あぁ、会わねぇさ、もう」

 あっさりと言った声が、変に軽くて、イサザはそれだけでは許さなかった。

「もっとちゃんと、言えよ。あいつの名前、なんてった?」
「……だから、会わねぇって」
「言えないのか? ギンコ」

 追い打つ声。刺すような眼差しに、僅かに慄き。

「分かったよ、イサザ。もう、俺は、死ぬまで会わない、……っぁ」

 喉が、痙攣した。声が出ない。あぁ、あの時と同じだ、あいつのいる土地から、離れようと舟に乗ったあの時と。

「…どうしたんだ、ギンコ」

 優しいほどの声で、イサザは言った。言えよ、とその後にさらに責める。ギンコはひくつく喉に、己の片手を添えて、無理にでも声を絞り出そうとした。何度もしくじり、それでも言えない。たった一音の語尾だけしか。

「…の、には、もう、会わな、い」

 言い終えた途端、何かが胸に込み上げて、ギンコは嗚咽した。嗚咽しながら、イサザに背を向けて、岩の上を彼から遠ざかった。遠くなる背を追いながらイサザは酷く、苦しい。

「は…。これじゃあ、俺がただの、嫌な奴みたいじゃないか…」

 



 イサザには分かっていた通り、三日後、二人はワタリ達と合流した。二、三人ずつと数回に分けて会い、皆が揃うと、ざっと二十五、六人ほどの集まりとなる。殆どがギンコを知っており、嬉しげに声を掛けてきた。

「ギンコか…! おいおい、どれだけ振りだ?」
「こいつは久しいなぁ、ギンコ。どうだいここんとこ」
「ちょっと痩せたかい? あんまし身入りがよくねえのか?」

「まぁ、ぼちぼちさ。痩せたって? そうかねぇ」

「なんか、顔色もあんまし」
「お前ちゃんと喰ってんのかぁ?」

 軽口が飛び交い、ギンコも気楽そうに応じている。イサザは少し其処から離れ、ひとりになって光脈を感じた。太い流れは確かに足下に。気弱になっていた心が、見えないものに支えられるような気すら。

 気のせいに過ぎなくとも、有り難いと思った。息を吸い、深く吐いて、それから改めてギンコの姿を目で探す。もう皆に挨拶し終えたのか、まるでワタリのひとりであるように、ギンコは一本の木の根方に腰を下ろしていた。

 痩せた、と誰かが言っていた。痩せたんじゃない、やつれたのだ。そうイサザは思った。薄青い翳りのようなものを纏って、今にも消えそうにさえ思えるのは、イサザにだけだろうか。背を預けた木に静かに寄り掛かり、ギンコは静かに、目を閉じていた。













 運命の相手とか、魂の片割れとか、実際には信じちゃいませんが、お話の中にぐらい、そういうのがあってもいいよなって思うんです。そしてその相手は、一人じゃない場合もあるのかもしれないし、移り変わるものなのかもしれない。

 化野とギンコは相愛だというのに、化野がさっぱりでませんね! まだ次回も出ないかもしれません〜。でっ、読んで下さった方、ありがとうございましたv 2014年も残すところあと一日と少し!

 でも多分まだ書く。


2014/12/30