この手のなかの奥底に 10
群が皆、寝静まった後、傍らにいたイサザが、かすれた小さな声で言った。
「本当に…ここから一人で行くのか?」
「…それ以外ねぇだろ?」
正し過ぎて、何も言えやしない。してはならないこと、けして出来ないことが、この世の中にはいくらでも転がっている。人の力など及ばない筈の揺るぎない光脈が、蟲を寄せ続けるギンコの存在によって、乱されるかもしれないから。
それは、破ってはならない禁忌だ。
ましてやイサザは、ワタリの長。
イサザの居場所は、皆がそれぞれに寝ている場所から、少し登って離れた斜面だった。そして今は、イサザの傍にいるギンコも共に、息が数えられるほどの距離に。
「なんで、俺」
どこか子供のそれのように響いたイサザの声が、二人が出会った時の、互いの姿を思い出させた。
なんで俺は蟲が見えるんだろう。なんで俺の居場所は、他の子供の居場所と同じじゃないんだろう。足を止めることはずっと出来なくて、なのに、嬉しくなるほど酷く似通った大切な「友」と、共にいることも出来ないんだろう。
もし、ワタリを抜けて生き方を変えたら…? そんなことをしても、何もかもを壊すだけだ。そう、何度も何度もギンコをたしなめた、自分の言葉が今、自分自身に深く刺さる。
「ギンコ」
「……」
伸べた手が触れた時、その手の下でギンコの体が震えたのが分かった。嫌がったわけじゃない、抗ったわけじゃない。
でも、いらないと、もういいと。
だってお前と二人、ぴったりと肌を重ねて、ひとつの温もりに身を委ねても、もう、俺の中からは何も消えない。白く眩い光の向こうで、掻き消されてなどくれないんだ、
あいつの、面影だけは。
凍り付いた冬空のように、澄んだ目をしたギンコの腕を、しっかりとイサザが掴んだ。引き寄せたりはせずに、ただ強く掴んだままで、言った。
「強く、なる」
例えどんな時でも、いつでも、俺が、お前を支えられるように。離れるしかなくても、だからって俺は、お前を放り出したりしない。覚えておいてくれ。いつお前が縋りたくなっても、俺が居るって。イサザが、居るって。
「…逞しい、ねぇ」
少し笑ったギンコの声は、震えていた。そうして二人は背中をほんの少し触れ合わせて眠る。明け方前の一番寒い頃、静かに身を起こして離れたギンコの気配を、イサザは気付いたけれど、眠った振りをした。
長雨。この山は元々地盤が緩い。でも避けたくても、危険な土地は広くて、光脈はその中央を横切っていて、そこを行くしかない。
「イサザ! この道の先も崩れてる。男衆は縄張って渡れるが、女子供や年寄りは無理だ」
「…わかった。なら今まで通り、行けるものは縄を携えてこのままここを進む。他のものたちは迂回路を。充分に気を付けて行ってくれ」
イサザの脳裏に、ギンコの姿が過った。あれからもう一年と少し。冬に近付いてから、付かず離れつの場所を歩いていることは、知っていた。
寒くなると、淋しいのか?
会いたくなるのか? ギンコ。
海里に住む、あの男に…。
見張っていてくれよ、俺を。あいつのところに行かないように。そう、言葉にはせずに思っていたお前を知ってる。あぁ、言われずとも見張っているさ。お前は俺のものなんだから。
いっそ、会いに来ればいいのに。抱いてやるのに。
一晩だけでも、消してやれるかもしれないのに。
そう思った一瞬に、折り重なる木々の隙間に、白いものを見た気がしたのだ。視線をやると同時に、その白は見えなくなった。でも、イサザは雨の中を走っていた。いつかのあいつのように、濡れた土に転び、両膝を泥まみれにしながらも。
「お、長…っ?」
「…行っててくれ! 先頭にはお前が代わりに立てっ、すぐに戻るっ」
経験豊かな一人にそう言葉を投げると、イサザは更に走った。刹那、見えたあの白を、自分が見紛う筈がない。そして叫びもせずに、急に消えたのが、この長雨の山中で何を意味するか。
駆け抜け、少しずつ開けていく視野の遠く、倒れた下草が見えた。そして急に掻き消えている、細い山道。雨が葉を打つ音で、きっと音も届かなかったのだろうが、ここでついさっき、道が崩れたのだ。
あぁ、そして…。
「ギンコ…ッ!!」
枝に掴まり身を乗り出した、すぐそこに、草を握る手が見えた。泥を被って、それでも白い、見間違う筈の無い手。
「ギ、ンっ」
根から倒れた枝の、もう少し先をイサザは掴み直す。そうしてぎりぎり覗き込んだ向こう、ギンコの顔がすぐ近くに見えた。その顔がこちらを向いて、見開いた目に自分が映る。その顔から、遥かずっと下に見えるのは、剥き出しの岩。落ちたら、ただでは…。
「俺の手に掴まれ!」
「イサ、ザ」
なんだか、その顔はあどけなく見えた。伸ばされるギンコの逆の手首を、もっと強くはっきりと伸ばしたイサザの手が掴む。引き上げて、自分が掴んでいた枝を掴ませる。根元から倒れた木だが、まだ根は土に深く広がっていて、二人分の重みくらい、平気だ。
そう、ひとり分なら、もっと。
だからイサザは、その枝から手を、離した。そろそろ痺れて、震えが来て冷たくなって、力を込め続けることは出来ないと、分かっていたからだ。
ギンコを救おうと、斜面に逆さに身を乗り出した。その時、体の下になったのは、鋭く尖って折れた枝だった。刺さるかもなと、何処かで思って、でも猶予はなかったから。躊躇って、体の位置を変えている間に、ギンコの握った草は、きっと千切れてしまっていただろう。
誰かを守るのは、難しいな、ギンコ。
お前の見てる前で、
お前のせいで死んじまうなんて、
そんな酷い目になんか、絶対会わせないって、
ほんとに俺、思ってたのにな…。
思って、いた、のに。
それでも。
「…見て、る、からな」
ザ…ッ…。
笑みを、残し。ギンコの横を、よく見知った茶色の蓑が、濡れた色をして過ぎていった。何が起こったか理解するよりも先に、崖縁にぶら下がったままの、ギンコの体が震えた。叫ぶ声は一瞬喉に詰まり、でもその喉を割くように、迸る。
「…イ、サ、イサザーッッ!」
誰かに守られて、そのせいでその誰かが死んで、自分だけが残されるなんて、どんなことよりも苦しい。それは胸に刺さって、一生痛みを与え続けるようなことだ。わかっている。だから。
だから、イサザは目を開けた。うっすらと開いて、だんだんとはっきり見えてきた視野で、自分を覗き込む仲間たちの沢山の顔、顔、顔の、隙間の遠くで、ギンコがくしゃりと、顔を歪めたのを見た。
「あぁ、長っ」
「目を開けた!」
「おおいっ、イサザが気付いたぞッ」
わあっ、と沸く声に、イサザ本人の声が混じる。
「ギンコ、を、行かせるな」
「えっ?」
「ギンコっ?」
言われて瞬き、聞こえた数人で振り向くと、今まさに、木箱を背負い背を向けた白い姿が見える。
「行かせる、な」
「おうよ、わかったっ」
まるで罪人をでも捕えるように、数人に腕や肩を掴まれ押さえ込まれて、ギンコはそれでもまだ暴れている。
「こらっ、おれらの長の命だっ、あばれんなっ」
「離せ! 俺が今日まで何日居たと思ってんだっ、光脈になんかあったら」
「長がお前を留まらせろっつってんだ、何もねぇって証だよ、いいから長んとこ行けっ」
もう一度、ギンコの顔が歪んだ。その顔を皆に見せないようにか、ギンコは深く項垂れ、それでもイサザの傍に来て、膝をついて、そこに座った。
「ギンコ」
「…なんで」
「……」
「なんであんなこと、したんだよ…」
食い縛った歯の隙間から、零れるか細い声。
「約束、したからだろ…?」
イサザは腹と胸を包帯で巻かれ、まだ起き上がれもしなかったけれど、片手を動かして、ギンコの手首を掴んだ。崖でそうしたように、子供の頃もそうしたように。
「骨」
「…? 骨?」
「ゴツゴツ…、だろ。こんなとこまで細くなるほど、痩せてんだろ、お前。相当だぞ、こんなの」
理由が何かなんて、問いたくもない。でも分かってしまう。人が人を酷く焦がれると、こんなふうになることもあるだなんて。勿論それは、想いの形にもよるのだろうけれど。少なくともギンコは、そんなふうに体ごとで、魂さえ削るように想うのだろう。
…あいつのことを。
「約束したろ? 見張るって。だから」
だから助けた。
死なせなかった。
だから、
死ななかった。
だからお前も約束を守れ、そう言われたようにも、ギンコは思った。泣きそうな目をして、唇を噛んで、分かった、と。分かっている、と。告げかけたギンコに、イサザは言ったのだ。はっきりと言った。
「会いに行けよ、お前」
続
動かぬなー動かぬなーって、数話書いてて、ここへきていきなりこう動くのね、あなたたち。この続きは多分こんな感じって、9話目書いた時にメモっていたものがあったけど、清々しいまでの完全無視でした。
そして11話はこうかなって、書いたメモもあるけど、きっと同じことになるんだろうさ。それがいいんじゃねぇか〜って思っているよ。
読んで下さった方、ありがとうございます。終りが見えて参りましたな。そしてこの話さ、化野出現率低過ぎて変ねー。
15/01/18