この手のなかの奥底に  7







「痛…っ」

 山から摘んできた薬草の、根と茎とを分けている途中で、化野は指を切った。美しいと思うほどの赤い滴りが、つう、と第二関節までを伝って零れる。右の紙の上には根、左の盥には葉として分けていた筈なのに、気付けば途中から逆になってしまっていた。

「…駄目だ、な」

 息を吐くと共に己の様を小さく笑い、化野は刃物と草とを笊の上に放り出す。手を、土と血に汚したままで、ごろりと其処へ身を転がし、彼はきつく目を閉じた。

 今、どこにどうしてる? ギンコ。
 まだ俺に腹を立てているか。
 いや、むしろ俺のことなど、
 思い出しもしないかもしれんな。

 ひとりでいるか?
 それとも、誰か…。
 
 脳裏に浮かんだ白い姿に、いつかのあの男が添っているように思えてならない。今思えば、あの男もギンコを大事に思っているのじゃないか。あんな態度だったのも、そう言うことか。とられるのは嫌だ、などと、良くない思いが染みのように胸に滲んでくる。

 とるとかとらないとかそんなのは違う。ギンコは「もの」じゃないぞ。だからあいつは自分で考えて、自分で選ぶのだろう。心が震える。俺を、選んでほしいと思う。どの面下げてと思いながら、気持ちは止められない。

 ギンコのことを、もっと分かればよかった。流れて暮らしているのだろうあの男と同じほど、あいつを理解できていればきっと、あんなふうに去られずに済んだ。後悔に唇を噛みながら、ずきずきと痛みの続く指を顔の前にかざして眺め、化野は泣きたいような気持になる。
 
 だから、違うというのに、愚か者の化野め。もう二度と傷つけずに済むよう、俺はお前を、分かりたいんだ。
 
 身を起こしてみれば、作ろうとしている薬は腹痛の薬に感冒に、化膿止めなど傷の薬。あいつに持たせやすいようにと、またほんの少しずつを、持ち運びにいいように分けておくつもりで。

 化野は己の指の傷をよく濯ぎ、血止めの軟膏をつけて薄く布を巻くと、半端にしていた薬づくりの作業に戻った。粛々と繰り返す単調な動作の間、愛しい姿が浮かんでは消えていくのだ。

 なぁ、ギンコ。こんなことを今更気付いてもどうともならんが、俺の目にお前が綺麗に映った理由は、きっとお前に、心があるからだ。表情の乏しいお前の内側で、揺らぐ様々を知ったから。
 
 俺のせいで傷付いて、しばらく来ないと言ったお前。探す術も持たない俺は、お前を傷つけた分の痛みに堪えながら、じっと此処に居るよ。気紛れでも何でもいいから、どうか早く、会いに来てくれ。

 根は右へ、葉は左へ。

 丁寧に丁寧に、お前の為の薬を作る。

 根は右へ、葉は左へ。

 
 
 

「ギンコ」

 名を呼ばれ振り仰ぐ遠くに、細く長く東西に伸びた、彩雲。いや、あれは光酒を含む湿った風だろうか。虹のような色が雲の表を、さぁ…と撫でるように過ぎていって、美しい色はすぐに消えてしまった。

「見えたかい。あれは珍しいんだぜ。光脈を追ってる俺らだって、数年に一度出会えるかどうかさ。…昔」
「あぁ、前にも一度見たな、あんときゃなんかの蟲だってことくらいしか分からなくて、見ていればまた現れるんじゃないかと、首が痛くなるまでずっと見ていたっけ」

 言いながらギンコは蟲煙草を口に咥える。ついさっき吸い終えたばかりだというのに、もう新しい煙草に火を灯そうとする。その仕草に、彼自身も分かっていない内心が見えるような気がした。

「さっきから、ギンコ。そんないらないだろ?」
「? 何が」
「蟲煙草。海の上じゃあ陸地より蟲は少ない。対して寄ってもいないのに、ずっと煙草、吸ってる」
「…あぁ」
「……」

 そんな神経質に蟲を遠ざけなくたって、まだ暫し共に居られる。少なくとも、向こうへついて、ワタリの他の皆と合流するまでは。

「癖かね、つい」

 煙草をしまいつつ視線を逸らして言う体を、イサザはこちらへ向かせた。

「口淋しいんなら、そう言えば…?」
「いや、別に、そ」

 そういうわけじゃ、ない。と言葉は口吸いに掻き消された。抵抗もしなけりゃ、積極的に応じるわけでもないギンコを、イサザは間近から静かに眺める。

「……もっと、風が冷たけりゃよかったよ」

 肌を温め合う必要が生じるほどの、冷たい風が吹いていれば。雷の酷かった二夜と同じように、互いにすべてをどこかへ押しやってしまえるものを。

 恋じゃないことなんか、分かっている。傍に居るだけで舞い上がって、嬉しいと思っていられるような、そんな感情とは違う。ギンコも。イサザも。

 ただ自分が手に入れたいと思うものを、相手に求めているだけ。誰からも必要とされず、寧ろ居なくなって欲しいと思われて生きてきた人間は、求められたくて、欲しがられたくて、欠けている隙間を埋めてくれる誰かが、欲しくて欲しくて堪らない。

「俺は、少し、寒いけどな」
「…へぇ、そうか? どれぐらい?」

 でもそれの何処が悪い? 何も悪くはない筈だ。一人で生きていく淋しさから、逃れたいのは誰でも同じなのだから。

 イサザは悪戯っぽく笑ってギンコに問い掛けた。

「ひと肌が恋しいぐらいか? もっとぴったりくっついて、体動かしてないと凍えるぐらいとかかい?」

 じろ、とギンコの眼差しがイサザを見る。

「まぁ? 陸地まで何とか我慢してられる程度だよ。舟が転覆したら敵わんからな」 

 優しく俺を抱く気のないお前と、

「こんな大海原で舟から転げ落ちる気はねぇさ」

 イサザの言葉を揶揄して軽口を叩けるほどには、ギンコは吹っ切れてはいない。イサザは軽く吹き出して、舟の上を渡っている風を読んだ。放り出してある櫂の一つを握り、肩をすくめてもう一方をギンコが取る。

 海を渡って遠くへ、あの陸地から離れて遠くへ。簡単には戻れぬ向こうへ、はやく着いてしまうために。はやく、吹っ切れてしまうために。

 無いものねだりは、何の益にもなりゃしない。
 手に入れられるものだけで、もう充分なんだと、
 早く気付け、早く分かれ、そしてもう…
 
 諦めてしまえ。

 所詮は別の世界のひと、だったのだと。

 海の揺らぎを掻き混ぜて、二本の櫂が飛沫を上げる。そこに混じった半透明の蟲を、イサザもギンコも見ていた。淡くきらきらと碧や青を帯びて、不思議な美しさを持つ蟲だった。

「…きれい、だ…」

 ギンコはぽつりと言った。透き通るような、けれど悲しげな声だった。

 












 恋じゃなくたって、誰かに傍に居て欲しいことはある。誰かの傍に居たいこともある。それが己の淋しさを埋める為だったとしても、何が悪いというのだろう。愛や恋だけが全てじゃないからね。と私は思う、よ。淋しいままじゃ辛いものね。

 しかし三人が三人とも辛そうで、惑さんも辛いっ。


14/11/02