この手のなかの奥底に 6
だいたい、十八、九ぐらいの頃だったか。旅の途中である男と知り合った。一回りも上の年で、だけど何だか頼りなくて、蟲なんか見えないどころか存在を知りもしないヤツだったよ。
俺は蟲を寄せるんだって言ったのに。蟲ってのはこういうもので、だから俺と連れ立ってると危ねぇんだって、そう何度も言ったのに…。大丈夫だろう、何でもないよ、一人じゃなんだか心細いし、ほんの暫し共に旅をしようと言ってきた。
どういうつもりなんだろう、とか、なんか裏でもあんのか、とか、考えなくもなかったけど、屈託のないその姿に、ひと月、ばかりも共にいたろうか。
でも、その男は蟲のせいで死んだ。
方向を誤らせる蟲が頭ん中に巣食ってたらしくて、そっちは崖だ、って教えた俺の前で、そうか気をつけなきゃなと笑いながら、そのまんま行って、真っ逆さまに落ちたんだ。どう考えたって、あれは俺のせいだった。
蟲の見えない普通のヤツと、普通に旅の道行きが、楽しくって面白くって、自分も普通になった気で、そうしてその男を死なせたのだ。
朝までかかって崖の下まで下りていき、そうして目の当たりにしたあいつは、胸を枝で貫かれ、それでも笑った顔をして、もう、体は岩みたいに冷たくて硬かった。名前も憶えてない、無理にでも俺はそいつを忘れたかった。
そうだな、イサザ。教えてくれた通りだった。
教えて貰ったっていうのに。イサザ、俺は…。
ワタリは、そしてギンコ、お前も、普通の暮らしなんか出来やしない。普通のやつと一緒になんか、居られやしない。でも俺らみたいに、そんなふうに生きてるやつはいっぱいいるから、お前はだけじゃないんだから、一人だなんて思うなよ。
俺は、堪らなくなってイサザのところへ行ったんだ。誰とも一緒に居たいなんて思っちゃいけない。それは相手を不幸にすることだ。相手を危険に曝すことなのだから、どうしても淋しいんなら、同類を頼れ。ワタリを、俺を頼れ。そう言われたことを、もう一回心に刻むためだ。
ワタリたちを探し当てた時、酷い雷雨の夜になってたっけ。イサザは理由も聞かずに抱いてくれた。それが一度目。一晩を俺のために使って、癒してくれた。頭の中が真っ白になるほど。
でも、そのさらに数年後の、
二度目の時は振り払われたけどな。
それは仕方がなかったのだと、
今になっては、分かっている。
まだ若い身で、ワタリの長になったばかりのイサザは、そのことだけで精一杯だったのだ。いつだろうとすべてを投げ打ってでも、救ってくれだなんて、思ってやしないから。今だって、そんなことは思ってもみないから。
ただ、俺は、言って欲しかったんだ。流れて行くしかない身で、一つ所に留まろうとすることの危なさを、もう一度、もう一度身に沁みるよう、釘を刺して欲しかった。
己がヌシになるまでして一つ所に留まり、けれど、そうまでしても相手を死なせて、そうして最後には飲まれていったある男の姿が、今でも頭にこびり付いている。その男の過去は、胸の奥で膿んだように消えない。
どうか言ってくれ、イサザ、何度でも。もの分かりの悪い俺が、身に沁みて分かるまで。甘えなんだって、分かっているさ。
流れものには、
流れものの生き方がある。
それしか出来ないんだよ。
例えどれほど足掻いても。
分かれよ、ギンコ。
もう分かれ。
俺は本当に、お前に甘えているよな。だけどいつでもなんて思っちゃいない。都合の合う時、お前の邪魔にならない時だけ、どうかこの手を、とってくれ。
先を歩くイサザの背中を見ながら、ギンコはそんなことをずっと考えていた。笑顔の真っ直ぐだった、死んだ男の顔が、今にも誰かと重なりそうで、意味などなくても話し掛ける。
「イサザ」
「少し風が出てきたな。でも追い風だ」
「イサザ…」
目の前で、振り向くイサザの顔。少し距離が開いてしまっていたのを、並ぶまで足を緩め、待ってくれている。
「ほんとに平気か? 脚とか」
「大丈夫だとさっきも」
「…なぁ、聞かせなよ。あいつは、もっと優しいか?」
「だ…」
唐突に聞かれ、ギンコは凍った。触れずにいて貰えるものだと、無意識に思っていた。
「れの、話だよ」
「誰って、あいつさ。あの医家、精一杯気遣いながら、してくれる感じだよな。壊れ物に触るみたいなさ」
壊れ物。あぁ、そうだとも。もの扱いして、綺麗だとか、ずっと見ていたいとか。所作は優しい癖をして、こっちが傷付くようなこと、平気で言って、後で気付いて、戸惑って、詫びて、あれほども振り回して。なのに、もう真っ平だなどと思わせてはくれないで。
イサザは立ち止まり、振り向いてギンコを真っ直ぐに見て、淡々と言った。
「だから俺はお前とする時、優しくしないから」
重ねられたら堪らない、と、そういう意味だと、ギンコにも分かった。お前振り切れてなんかないだろ。まだ目茶目茶囚われてるだろ。だから海を渡るんだぜ。飛んで戻ったり出来ないように、引き離すんだ。お前とあいつを。
あぁ、旅慣れてなんかいなけりゃいいのに、ギンコ。最初にあったあの時みたいに、お前が今も子供だったら、俺の傍にいるしかないんだと、思い込ませてしまうのに。
そう思いながら、イサザは心の中で、自分の身勝手にも気付いてる。いつだって支えてやれるわけでもないのに、他から遠く引き離すってか。
でも、それでも、俺はあいつより。あいつなんかよりはずっと、お前を支えてやれるんだから。何にも分からないで、何にも見えないで、蟲患いになんかなって、お前の見てる前で、お前のせいで死んじまうなんて、そんな酷い目になんか会わせないよ、絶対に。
湾へ出ると、頃合いの貸舟が幾つも岸へ付けてあった。二人で乗れる一つを選んで、波が凪ぐのを待つ。
いよいよ波がおさまって、舟を出す時、ギンコは寄せる波を見ながら、足が動かなくなったみたいに、しばらく黙って、砂の上に突っ立ってた。イサザは先に舟に寄って、脚を波に飲ませながら、ずっと舟を押さえてた。
「ギンコ」
「……」
「ギンコ、早く、また波が出て来ちまう」
「…あぁ…今」
足が動かない。持ちあがらない。そんなにもかと己で己に分からすように。体が嫌がる。海を隔てて遠ざかるのを、嫌なのだ、辛いのだと、抗っている。
「ギンコ」
伸ばしたイサザの手が、ギンコの腕を捕えた。強く引いて、二人して小舟の中に転がり落ちた。背やら腕やら痛くて、でもその勢いで舟は砂から浮いて、波に、つうと運ばれた。
「イ、サ…」
腰を、背中を強く抱かれて、舟底に二人転がったままで。別の小舟の旅人が呆れ返って見てる。なんだあいつらと笑って見てる。もがくギンコを、尚更強く抱きながら、その首筋に顔を埋め、イサザは言った。
「笑わしとけ。どうせみんな、俺らとは別んとこで息してる奴らさ。別の生き物さ。構うなよ。気にすんなよ」
ちゃぷり。ちゃぷりと。舟の横腹で、波の揺らぎが鳴っていた。
続
イサザだって、ワタリの長なんですから、ギンコの為にだけ生きられるわけじゃありません。でも本当にギンコがそうしてくれと懇願したら、イサザは迷うんでしょうね。今、ギンコの選択肢は、大きく分けてきっと三つ。
イサザを選ぶか。
化野を選ぶか。
どちらも選ばないか。
でも実は四つ目もあったりしてね。
一人の人間を誰かが一人で支えていくなんて、難しいんだと思いますよ? 特にギンコはあちこち傷付いてて、なのに大変なものをいっぱい背負ってしまってて、さらにこれからだって、もっと背負うのだと思うから。
あぁ、これは…またネタばれ? おっと…。ともあれ、更新が滞ってこんな時期になりましてすんませんでしたぁぁ。おかげで季節が行方不明。
14/10/13