この手のなかの奥底に  5





 近付いてきた雷が、ガラガラと何度も山中に落ちる。窓の無いこの山小屋の中に入ってくるのは、音と振動だけだったが、目を刺すようなその光と、その後の闇を見ているような心地がする。まるで残像だ。脳裏で一度光が弾けるたびに引き戻されていく、あの夜の中へと。

 ずうっと黙ったその後に、イサザはぼそりと、こんなことを言った。

「ギンコ、面白い話をしてやろうか?」

 火を眺めているギンコに聞こえるように、ぎりぎりの声で呟く。ギンコは全裸の体に上着のみ背に掛けて、ぼんやりと彼の方を見た。何を思っているのか分からない顔だった。構わずにイサザは口を開く。

「何にも返事しなくていいから、黙って聞きなよ。光脈を追っかけてるワタリはさ、自分の留まりたい場所に、足を止めることが出来ないだろ?」
「…何だよ、今更」
「いいから聞けって、黙ってさ」

 ちらりとイサザを見たギンコの目が、どこか怯えるような。

「なのにどっかの里を気に入っちまって、留まりたくなったらどうすると思う? そりゃ、ワタリを抜けるしかないさ。『ワタリ』ってのは、他にどうしようもなくてワタリでいる輩が多い。なのにそこでワタリを抜ける。そうやってやりたいようにして、願いどおり一つ所に留まれたヤツを、俺は見たことがないけどな」

 どうしてそんな話をするのかと、ギンコは問うような目をイサザに向けていた。イサザは静かな笑いを見せて、そのまま言葉の続きを語る。

「哀れなもんさ。故郷に戻ろうとしたり、好いた女と所帯を持ちたがったり、なんとかしようと足掻いてさ。でも誰もかれも、泣き笑いみたいな顔して戻ってきた。無理だった、また逃げてきたんだって言ってな。中には戻ってこなかったヤツも、ひとりふたりぐらいいるぜ? なんでだと思う?」

 ギンコは燃え盛る火を見ていた。雷の音はいつしか止んで、外は酷い土砂降りになっている。イサザは彼を、可哀想だと思いながら、それでも淡々と続きを言った。

「なんとか出来る、なんとかしてみせる、って、足掻いて足掻き続けて、大事なものをぶっ壊しちまったんだと思うぜ、そういうヤツはな」
「………」

 ざあざあと降る雨の音がギンコの息遣いを隠していた。でも浅く上下する肩が、イサザの目には映っている。火を見ていながら、何も映していない目。話が途切れても、何も言えないギンコの唇。

 それ以上、イサザは遠回しになど、一つもしない。朧に悟らせてどうにかしようなんて、卑怯だと思った。だからせめて一息に、真っ直ぐに刺す。

「お前、あの医家が好きなんだろ」
「……なに…」

 ギンコは目を見開いてイサザを見た。翡翠の片目が、ゆらゆら。

「何、じゃねぇよ。悪ぃけどさ、見過ごせねぇから。あんな小さな里一つ、どうなろうと知ったこっちゃないし、あの医家がどうなるかなんて、尚更俺には関係ない。でもそれで、お前が痛い目みるぐらいだったら」

 ギンコは恨むような目をしていた。殆ど唇を動かさず、けれど確かに彼はこう言ったのだ。

「それの何処が、面白い話なんだ、イサザ…」

 震える声はイサザにとって、息の止まるようにいとおしい。怒った顔をしながら、どこかでギンコが自分に甘えていると感じる。もっとはっきり、縋れと思う。酷い昔馴染みもあったもんさ。だけどこの手を伸べてしまったから、お前を捕まえるまで優しく出来ない。

「例え話が刺さっちまうほど、お前もやべぇと思ってるんだろ? もう引き際がどこかも分かんねぇんだろ」
「いつ」

 パチッ。火が跳ねて、ギンコの膝の近くに飛んだのに、彼は少しも動かなかった。

「…会ったんだよ、あいつに」
「ひと月前」
「なんで」
「何でだろうな。心配だからかな。お前、俺には言わねぇし、他のヤツからなんとなく話は入ってくるし。どんなヤツかなぁ、って見に行ったら、あいつ真っ直ぐでさ、汚れてなくて、まさに俺らとは違う匂いがした」

 淡々と聞かせる言葉に、イサザは言わぬ言葉を秘めている。分かってるんだろ、ギンコ、あんなのお前を傷つけるだけの相手だ。届いた気がしてたって、幻みたいにすぐに遠ざかる。そのたびお前はズタズタになるんだよ。今だって、既に苦しいだろ?

 あんな、里から出られもしない男に、お前を救える筈がない。俺の方が何倍もお前を分かってる。お前が何を欲しいかだって、分かってる。支えがいるんなら、俺の手に縋れよ。

「雷は」

 イサザの声が、過去を引き戻す合図のように。

「豪雨を連れてくるんだ。まだそこらにいる。お前、本当は怖いんだろ…?」
 
 怖くないぜ?
 俺が、
 守ってやるから。

 そして本当に、イサザが言ったように、また雷が落ち、豪雨が、どぉ…、と降り頻る。音の中で重なった温もりは、二人僅かの差異も感じなくて、触れたかどうかさえ、すぐには分からなかった。

「イ…」

 別に、元々、綺麗な体なんかじゃない。他の男とやったこともあるし、イサザとだって、初めてじゃなかった。たった今と同じような、数年前の雷雨の夜に、手を伸ばしたのはギンコの方からだったんだ。

 あの時、俺は、普通じゃなくて。
 大丈夫だと、言ってくれる相手が欲しくて。
 
「ギンコ…」

 逃げない体を撫でながら、イサザが低く囁くのだ。耳朶に触れた唇から、胸の底へと何かが沁みていく。

「ごめんな、俺。一度、お前を振り払って…」

 嫌だったんじゃないんだ。ワタリでいながら、もうワタリじゃないお前の手を取るのが怖かったんだよ。例え話の中の壊れてしまった男のように、壊れるのも壊すのも、恐ろしかった。

「でも、お前がひとりで壊れてくぐらいなら」

 あの雷の夜と、今日の今を繋げてしまおう。その間に起ったことを消し去るような気持ちで。ほら、そうしたら、お前があの男と、出会ったことさえ磨り潰せる。

「イ…サ…」
「ギンコ、ずうっと傍にはいられないけど、お前の手を、放さなくていいだろ…?」
「…イサザ」
 
 声が上ずって、ギンコが泣いているのだと分かった。



「見ろよ、ギンコ、良く晴れてる」

 小屋の戸を開け放ち、イサザがそう言った。ギンコは上着を体に掛けて、他は何も纏わぬ姿で身を起こす。開けた戸から差し込む光が、酷く眩しかった。

「風もないし、気持ちいい」
「あぁ、晴れてるな」
「もしかして、腰とか痛いか?」

 戸口で振り向いたままに、イサザが笑っている。

「俺、乱暴だったか? なぁ? 昨日の昼間、お前に全部聞こえる場所で、他のヤツとヤっただろ。あれ実は、すげぇ興奮したんだ、目の前にお前の顔ちらついて。してぇ相手とヤるなんて、俺ら、そうはないからしな」

 金の為、それか情報を得るために、体を売るのは普通のことで。だから、昨日は乱暴なくらいにしてしまったのだと、言い訳のつもりだろうか。

「いや、別に、大して」
「それなら、下って、湾へ出よう。今日なら風もない。舟を借りて向こうに渡るんだ。お前、そうしたがってただろ?」

 あぁ、そうだった。一刻も早く、少しでも、遠ざかりたくて…。気付けば傍らに、薬包紙が散らばっていた。膏薬の器もある。イサザはもう出立の支度を整え終えているのに、これはここに、置き去りか。無意識に伸べた手が、イサザの声で止まった。

「早く服着ろよ、ギンコ」
「イサザ、分かったよ」













 イサザはギンコを抱く時、どんな何だろうと思いつつ書き進めて言って、なんとなく、描写をせずに済んでしまいました。でもきっと、若さと、求める気持ち故に少しは乱暴でも、大事に抱いてくれるんじゃないかなぁ、とか。

 ギンコはどんな気持ちで、とも思ったのですが、なんだか彼はある意味、心に薄い紗を掛けているような気がした。なんというか、罪だよ…ギンコ。


14/07/21