この手のなかの奥底に 4
もう朝だと言うのに、やがては眠ったギンコの寝息を、イサザは暫く聞いていた。空が白々と明けていくのが、足先の向こうのに見えていた。ギンコを起こさないように洞の中から這い出し、外の空気を強く吸い込む。
たまんねぇよな。助けてくれ、助けてくれって、そう言ってるギンコの声が聞こえる気がする。子供の頃のギンコの声でだ。お前、まさか本当に忘れたとかないよな? 俺に縋ったこと、それを俺が受け止めたこと、そしてそれを、俺が嫌がったことも。
あの時は、もう餓鬼って年じゃ無かったけど、今よりは随分餓鬼だったんだろうか。それとも、欲しいものをまた目の前にぶら下げられた今、やっぱりそれが欲しくなってるだけなんだろうか。そうしてそれは、お前も同じだったのかい?
あの男はギンコの前に、ギンコのずっと欲しかったものとして、現れたのかな。俺が拒んで随分経つけど、あの男の存在は、きっとギンコにとって俺の身代り…。
そこまで考えて、イサザはきり、と唇を噛んだ。なんて自分に都合のいい、狡い考え方かと思う。一度や二度、求められたからと言って、その一度を受け止め、二度目はもう嫌がった癖に、ギンコがあれからずっと、変わらず居たとでも?
そもそも、ギンコが欲しかったのは、多分俺じゃない。そうしてあの頃俺が欲しかったのも、お前じゃないんだよ。似たようなものが別にあれば、そっちでも構わないような、そんな程度の。
「イサザ」
ギンコが洞から顔を出し、其処へ座った格好でイサザを見ていた。イサザは黙ってその顔を見返して言った。
「よく、眠れてたみたいだな」
「…あぁ、そうかもな。昔の夢を見たよ。懐かしかった」
「俺はお前に付き合って、寝過ぎちまったくらいだよ」
小首を傾げるような仕草は、こちらを案じている印だ。昔からそうだった。問われもせぬのにそのつもりで返事すれば、ギンコはほんの少しだけ笑う。
「なんか落ち着くよ、お前といるとさ。でも…たまにはいいなって思った」
「へぇ、そうか?」
俺もだ、なんて言わない。言わずに済ませたつもりだったのに、それよりももっと直接的な言葉が喉までせり上がる。
そう思うなら、俺にしときなよ。
あんな、何処へも行けない医家なんか、
全然、お前に合わない。
仲違いでもしたんだろ? 俺が行ったその後にも会って、それでまた抉れたってとこなんだろ。そういうのが手に取るように分かるよ。俺とお前の仲だもんな。
俺はお前とは、そんなにずっと一緒だったわけじゃないのに、それでもあっという間に心の芯まで重なっていったみたいな、餓鬼の頃の満足感が、胸の底で息をし始めている。
ギンコ、なぁ。
俺のがいいだろ。
俺にしなよ、俺に。
あぁ、ワタリの仲間と合流するまで、あとまだ十日もある。十日しかない。十日あれば。たった十日ぽっちじゃぁ。焦るようなそんな気持ちで、丁度立ち上ったギンコの腕を掴んでしまってた。
「ギンコ。なら、少し一緒にいようぜ?」
「え?」
「え、はねぇだろ? 会いに来たのはお前だよ」
はっきりと、決めつけるようにそう言った言葉を、ギンコは否定も肯定もしなかった。掴んだ俺の手を、小さな仕草ひとつで外させて、少し笑う。交わし方も随分上手くなったな、お前。よく言い寄られるってことだろ。そうしてあの先生と以外は、極力しないようにしてるってことかい? 初心で、参るな。
「海を渡るんだろ、じゃあ渡っちまおうぜ。今日にでも」
ギンコはそう言って、あの医家の家から遠ざかる方向を、じっと見据えた。
遠くに行きたいんだ、なんて、もしも言葉にしたら、イサザはどんな顔をしただろう。
自分もイサザも旅に暮らす身だから、そんな言葉を使うなんてことがない。里のあるもの、帰る場所のあるものが、そういう言葉を使うのだ。けれど心の中で、確かに自分がそう言っていた。
化野の顔を思い浮かべて、それを打ち消そうとしながら、遠くへ、と、そう。
「ギンコ」
また、イサザが用もなくギンコの名を呼んだ。浮かんでいたあの顔が少しだけ遠くなる。つい苦笑してしまう。何かが自分の中から零れていて、イサザはきっとそれに気付いてる。顔を上げただけで返事はしない。イサザの言葉の続きも、何も無い。
そして、他愛のないことを話しながら、共に歩き出して二日目。空が雨を持っているような、どんよりと暗い曇りの日だった。真昼の山中で、二人は若い旅の男と行き会った。イサザのことは知っているらしい。
「あ、イサザ! いいとこで会った、川追いかい?」
「…勿論、いつも俺らは川追いだよ」
川追いというのは、光脈を追って移動している、という意味の通称だ。蟲に関わる生業のものが、時々そういう言い方をする。
ワタリの群と会うか、ワタリの中の誰かと会うと言うことは、自分が過たず光脈と追えているいるという照明になるのだ。深く地下へ潜った光脈を感じ取るのは酷く難しいから、男はほっとした顔をしていた。この男も、何かの都合で光脈を追っているのだろう。
「ところでさ…今、駄目かなぁ?」
少しイサザに顔を寄せて、男はそう言った。はっきりと言っていなくとも、ギンコも察した。ちらりとイサザの顔を見てから、ふい、と視線をそらして、脚を止める。
「今」
連れがいるから、悪いけど。イサザはそう言い掛けて気を変えた。ギンコは少し居心地が悪そうにしたものの、別に嫌だなんて思っていなさそうだった。イサザがそこらへんの繁みで、別の男とその手のことをするとしても。
「…いいよ、丁度、懐が少し寒くなったとこだから」
男の手を引いて、イサザは道からすぐに逸れた。けれどもほんの少し行ったところで足を緩め、太い木の裏側に廻り込んだ。
「ここで」
「こ、ここっ? 道からこんなすぐんとこでっ?」
イサザよりも一つ二つ若い男で、まだそう旅慣れていないふうな男だった。誘ったのは彼の方で、金を払うのも彼だが、主導権はどうやらイサザの手の中だ。
「ここで。連れがいるから、待たせたくないんだよ。さぁ」
低い声で耳朶に言われて、男はすぐに籠絡した。木に背を寄せかけると、イサザが目の前に膝をつき、男の履いている服を緩め、引き下ろす。
「かっ、軽くでいいよ」
「んなことしてたら、長引くだろ?」
命令口調に近いような声が、ギンコの耳に届いた。低い、かすれた、優位の声。
「力、抜いてな…」
「…ふっ、うッ…! ぅう」
本当に、すぐ傍だった。ギンコは岩に腰を下ろしていたが、あまりに全部が聞こえるので、もう少し離れるべきかと迷っている。
「息、止めんな。我慢すんなよ、いいから」
上擦った男の声が続く。終えるまであっという間だ。せいぜいが四半時。恐らくは立ったままで、舐めて高めて、受け入れて。
草を掻き分けて、イサザがギンコの前へと戻ってくる。燻らしていた蟲煙草をくわえたまま、ギンコは少しぼんやりとした顔でイサザを見た。イサザは水で口を濯いで、手も洗って綺麗に拭き取り、それからギンコにこう言った。
「ギンコ、俺、お前とだったら金なんか取らないから」
真っ直ぐに見て変に真顔で言い終えて、言葉を切ってから、イサザはからりと笑った。
「なんて顔だよ。冗談にしにくくなるだろ?」
その夜、本当に遠くで雷が鳴っていた。その雷の音は段々と近くなって、やがては刺さるような黒く見えるほど太い雨が、天を貫いて落ちてきた。ボロ小屋を見つけて駆け込んだ時には既に、二人とも全身ずぶ濡れで、着ている服の下の体までがびっしょりと濡れてしまっている。
「参ったな、こりゃ」
「…ま、よくあることさ、歩き暮らしていればね」
イサザはばさばさと適当に服を脱ぎ散らかし、素っ裸になってしまってから、薪の蓄えを見つけて囲炉裏に火を入れる。外では雷が、また近くなった。真っ黒な夜だ。何も見えなくても、仕方ないと思ってしまうような。
「脱がねぇの?」
イサザはそう聞いて、濡れた服のままでいるギンコを見た。男同士で肌を曝すのを厭うのは、少し不自然だ。着たままでいるのが不快な、こんな時なら尚の事だった。
「ギンコ」
「あ、いや、脱…」
「雷さ、凄い音だな」
あの夜、みたいだ。忘れたかい…?
息の音だけで、また、イサザは言った。ギンコは何も言えなかった。覚えているとも、何のことか、とも。どちらを選んでも、何かに追い詰められるような気がした。
俺は、どうしてイサザに会いたかったんだろう。そんなことを、今更思った。
続
本当に私の書く文、って何でもかんでもどうしてこう、文字数を喰うのでしょう。紙魚なのかもしれないね、私。いやいやいや、文字列崩れたら困るし! 箸でみょーんってやって、びゅるるって、元の通りになおせないし!
変なこと言っててすみません。4話のお届けです。微妙な二人の間の空気が、何やら四肢がぎすぎすするように、重たい…。
14/07/06