この手のなかの奥底に 3
「おい起きろ。新入りだ。おめぇ、世話してやんな」
まだ寝ていたところを起こされて、目を擦りながらイサザは振り向いた。面倒くせぇなぁ、そんなことを口の中でもごもごいう。慣れていたって、山中を行くのは難儀だ。しなきゃならないことも沢山ある。なのにその上、誰かの世話か、と。
「……」
振り向いて、目に映った子供の姿に、イサザは随分とびっくりした。その日は真っ白な靄が、山中を覆い尽くしていたから、なんだか、その靄の中から溶け出して来たような子供だと思ったのだ。自分と同じ年頃の。白い髪、弱そうな色の薄い肌、そして、靄にけぶるような、碧の目。
「……」
「………」
「おら、挨拶ぐらいしねぇか、おめぇも」
大の大人から乱暴に背中をどつかれ、たたらを踏んでイサザの方へと、その子供が一歩近付く。なんだか、大丈夫かなこいつ、と、イサザは思った。こんなぼんやりしてて、ついてこれんのかなぁ。
「俺、イサザ」
「……」
「名前も言えねぇの、お前」
首を傾げて顔を覗き込んで、言葉では突き放すようにそう言ってやった。冷たいとか、そんなんじゃない。ここではみんなこんなだから、このぐらいでビクビクしてるんだったらやってけない。
「ギン……」
「え?」
「ギン、コ…」
「ふーん、悪くない名前じゃないか。ギンコな」
何も考えず手を伸べて、髪に触りそうになったけど、ギンコが怯えたみたいだったからやめた。その代わりに腕を掴んで引っ張って、大人達の居るあたりから、外れたとこまで連れて行く。
「な、どっからきたのお前」
「…そこの、山の、向こうの向こう」
「じゃなくってさぁ、どこら辺に住んでたのかって」
矢継ぎ早に聞くと、ギンコは自分の指差した方を遠く、遠くゆっくりと見渡して、困ったような顔をした。
「…覚えてねぇの?」
「……」
「そっか、ならギンコ、俺のこと呼んでみろよ、イサザって」
「…… イサ ザ 」
「ま、よろしくな」
ギンコは大人しい子供だった。話し掛けられなきゃ口をきかないし、話し掛けたって、ほんの少しのことしか話さない。一言で言えば、いつもどこか怯えるふうだった。
今までどんなふうに暮らして来たのか、こういう時は聞かないのが大人なんだろうけど、イサザは大人じゃなかったし、腫れものに触るようにされるのを自分が嫌いだったから、ギンコの事もそういうふうには扱わなかった。
「なぁー。その髪、いろいろ言われただろ。目もそんなだし。でさぁ、そっち側、片目ねぇよな? 何で?」
ギンコは、うん、と、ううん、でしか答えなかった。そのどちらかで答え切れないことには黙り込む。
「お前、蟲見えてんだろ? でも見えてねぇようなふりしてるよな? なんで? 嫌いだから? 蟲寄せてんの怖いのか? 目ぇ逸らしてたって消えねぇんだから、意味ねぇと思わねぇの?」
何日経ってもギンコはイサザに慣れて来なくて、少しイサザも苛立っていた。その日は雨の降り続く鬱陶しい日で。
「…お前さぁ、ずっと俺らといらんねぇだろうなぁ、そんなに蟲寄せてんだもん」
投げ出すようにそう言って、イサザはギンコの隣に座って、太い木の根に寄りかかる。相も変わらずだんまりかと、そう思いながら目を閉じたイサザは、変わらない筈のだんまりに、鼻をすする音が混じったのに気付いた。
「い…、さ…」
「…え! お前っ、何…ッ」
鼻の頭を赤くして、ギンコがこぶしでを振り上げるのが見えた。そのこぶしは真っ直ぐイサザの胸へと振り下ろされた。
「うぐ…っ、な、何すんだッ!」
大声に、周りにいた大人がみんなこっちを向いた。
「ちょっ、おまっ、こっち来いよっ」
抜けてしまうような勢いで、イサザはギンコの腕を引いた。一度躓いて、後ろでギンコが転んだから、素早く起こしてやってまた走る。雨が降ってるから二人ともずぶぬれで、転んだギンコなどは膝から下が濡れた土でどろどろだ。
群から離れて、でっかい木の幹の後ろで立ち止まって、イサザは厄介そうに頭を掻く。
「あーっ、もう、なんでこんななるんだよ。おっまえ、足っぐちゃぐちゃ。世話焼けんなぁっ」
腰に付けてた布を引き抜いて、イサザはギンコの前に屈み、汚れた膝や足を拭ってやる。木の洞に水が溜まっているのを、目敏く見つけて布を漱いで、ぎっちり絞って、今度はギンコの顔や肩を。きれいになったと見るや、また乱暴に肩をひっぱり、木の幹にその体を押しつけるようにする。
「そこ、いろよ、動くな」
そう言って、自分も離れるわけじゃなく、身二つ分くらい離れて立っている。頭上から大きな雫が、ぽたりぼたりとしょっちょう落ちて、髪や体がどんどん濡れた。比べて、ギンコの居場所は雫の一つも落ちてこない。
「イサザ」
「…んだよ」
「イサ、ザ…」
「だからなんだよ、って」
つん、と服の裾が引っ張られる。振り向くと、項垂れたままのギンコが、彼の服を掴んで震えてた。
「嫌だ…、俺、嫌だ」
「…何がだよ。別に…」
苛立って、ギンコの手をもぎ離させて、イサザは彼へと近付いた。隣に立って、肩と肩とが触れ合う場所で、ぐしゃ、と白いギンコの髪を掻き混ぜた。
「すぐだなんて言ってねぇだろ、すぐ置いてくとか、もう今日から一緒に居れねぇとかっ。そういうの爺さまが決めるんだよ。まだ…きっと、大丈夫だって」
ギンコ…。
小さく名前を呼ぶと、細く引くような泣き声が、一度だけ聞こえた。
「…蟲除けの草、歩きながら探そう。俺、教えるから」
はまったよなぁ。
明け方前の薄闇に、イサザがぽつりと呟いた。大人二人では随分狭い洞の中で、背中向け合って後ろにいるギンコが、ん、と問うような声を立てる。
「寝言だよ、寝言。黙ってな」
昔みたいに、ガキの頃みたいに、要らないことは一切話さず、ただ触れるか触れないかの場所でさ、俺らはいつもこんなだったろ。お前はずっと自分のことは話さなくて、俺も段々聞かなくなって、それでもそんなに傍に居たから、少しずつだって俺はお前が分かったよ。
ひとりでどれだけ歩いてきてたって、誰かと一緒に居てさえ、ずっとひとりだったとしたって、お前はひとりが苦手なんだ。お前から零れ出してる何かは、いつだって、欲しがっていたもんな。自分を許してくれる相手を。
自分を選んでくれる場所を…誰かを…。
そうして俺はお前を傍に置いてて、自分ってものが段々わかった。こんな俺なんかが、庇って守っていける相手が、俺はずっと、ずうっとさぁ…。
遠くで、雷が鳴った気がした。でもすぐに気のせいだと分かった。ただ、ふと思い出したあの日の空が、脳裏をよぎっただけのことだ。光る金色の筋が、複雑な模様のように空を引っ掻いては消えた、あの夜。
何で来たんだ、ギンコ。偶然うっかり知り人と会うような場所を、俺らワタリは歩かねぇよ。探したんだろう。俺は俺の知る限りのことを、お前に教えたもんな。光脈の進み方、その読み方。それをどうワタリが追っていくかも。
何か、あったかい…?
息の音だけでもう一度言った。聞こえない筈はないのに、ギンコは答えなかった。お前のだんまりは慣れてるよ。だからまずは自分の心に問えばいい。どうしたくて、何がしたくて、どうしてほしくて俺のところへ来たか。
考えりゃわかるだろ?
もうお互いに、ガキじゃない。
こんな間近でギンコの方を振り向くのは、今は出来なかった。誰もいない山中で、お前と、俺としかここにはいない。
目を閉じれば、見えてくるのはまだガキだったお前。だけど、一度だけ、はっきり縋ってきたのは大人になってからだったな。ため込んで、ため込んで、どうしようもなくなってから、お前は俺に縋るのか。今でもそうかい? タチが悪ぃとは思ってもみないのか?
一緒に押し流されてやるぐらい、してやれりゃあ…な。そう思って、イサザは震えた。あぁ、身一つの俺だったら、とっくにお前の意のままさ。まったく、怖いヤツにはまったもんだ。
閉じた瞼の裏の金色は、刺さるような雷の色か、それともこれは、俺を捕えて離してくれない、あの金の流れ…なのだろうか。
続
突然の回想です。無計画さが生んだ混乱ですね。申し訳ないです。でもイサザのことをちゃんとわかりたくてですねっ。だからそれ、書き始める前にやるべきことーーーーっっっ。はぁ。
また次回も頑張りますっ。そして今日は蟲師文字チャット!
14/06/14