この手のなかの奥底に  2









 疲れているだろう。夜、そう言って、化野はギンコに布団を用意する。自分にはまだ仕事があるからと、文机に向かう姿を、ギンコは視線の端に映していた。

 差し出した品を愛でる言葉が、随分とぎこちなかったじゃないか。俺に気を遣っている空気も、キシキシと変に軋みを上げるみたいだったよ。やっぱりあの時、気付いてたんだな。俺がお前の言葉に、何か、感じてしまっていたことを。

 綺麗だ、惹かれる、ずっと見ていたい。

 確かに、まるで「もの」のような言われようだった。俺はお前にとって、結局はただの、珍しい置物みたいなものなのかと思ったよ。だけど、それでも構わないと思えたから、一度は逃げたくなったお前の前に、こうして俺は現れたんだ。
 
 興味でも「もの」扱いでも構わない。あの夜のようにまた欲しがってくれ。他の何よりも俺が欲しいと、お前が思ってくれるなら、見目珍しい「もの」でいい。いっそその方が気楽でいいさ。

 一刻、二刻、眠らずに待っていた。やがては化野は書を閉じて、文箱を仕舞って立ち上った。自分の寝ている布団の横に、結構離してもう一組の布団を敷くのを、淡々と見ながらギンコは言ったのだ。

「寝ねぇのか…?」
「あ、起きてたのか? それとも起こしたか。いや、丁度今から寝るところで」
「そうじゃねぇよ、化野。俺を、抱かねぇのか?」

 言葉をぶつけると、化野は震えた。視線を逃がして、何もない場所を見据えながら、それでもなんとか、ぽつり、ぽつりと言った。

「…あ、ああいうことは、互いが欲しいと思ってないと、いかんと俺は思う…から」
「もう、いらないってことか?」

 短く問いを繰り返すギンコに、化野は漸く視線を向ける。差し込む月明かりだけの、薄暗い部屋だったけれど、ギンコの目には化野の表情がよく見えている。後悔ばかりの顔。迷っている顔。

「そうじゃないんだ、ギンコ。俺はずっとお前のことを綺麗だと思っていたよ。目をやらずにはおれなくて、一度映すと視線が離せなくなるくらいだ。だからこの前、俺がお前に触れた時、拒否されないってことに浮かれて、そして何も考えず、お前に酷いことを言ったと」

 ものみたいに言ったことを、今更?
 ずっと考えて、考えて、
 それでもいいと思った俺に、今更。

「酷い? 何が」

 問われるも、化野は言葉になど出来ない。追い打つように、ギンコは言った。

「綺麗だとか、ずっと見ていたいとか言ったことかい? それがどうしたんだよ。俺はずうっとこのなりで来たんだぜ? そんなことはもう慣れっこだ。だから気にせず、この前みたいに気に入りの「もの」として愛でてくれりゃいい。それでいいんだよ。他に我儘言いやしねぇよ」

 けれど化野は、そうか、と開き直ったりなどしなかった。唇を噛んで暫し黙り、それから言葉を迷わせてこう言いかけた。

「ちが…。あれは…。そんなつもりじゃない…」
「だから、別に」
「ギンコ。俺は、感情のある同じ人間を、ものみたいになんか思いたくない。思ってない。そんなことをして、平気でいられるわけがないんだ」
「…そうかい?」

 でもお前はあの時、確かに、ものを愛でる目で居たよ。俺がどう思うかなんて、考えてもいなかったよ。それでいいと言いながら、我儘など言わないと言いながら、人として求められたいと思っている自分を、ギンコは極薄く嘲る。

「なら、どうすりゃいい?」

 待てばいいのか? お前が俺をヒトとして愛せるまで。いったいどれぐらい待てばいいんだ? それで結局お前が俺のことを、珍しい品としか思えなかったら、俺はお前のこだわりのせいで、ここに来ることも出来なくなるのか?

 揺らぐ水面のようなギンコの想いを、夜目の効かない化野は気付けなかったのかもしれない。自分の中の想いを、手探りしてばかりいるせいだったか。

「とにかく、今は…。お前には触れられんのだ」
「酷ぇ、な。それこそが酷ぇよ」
「すまん」
「酷ぇよ、化野…」

 ギンコは布団をどかせて立ち上り、たじろぐ化野の顔を捕まえた。両方の手のひらで頬を包み、逃げられないようにしながら、唇を重ねた。深くはないがゆっくりと味わうように、薄く目を開けたまま接吻して、強張ったようになった化野を、恨むように彼は見た。

「しばらく来ねぇから…」

 お前が言ったんだ、俺のことを感情のある同じ人間だと。

「ギ…っ」
「安心して、ぐるぐると思い悩んでいりゃいいさ」

 借りてた寝間の着物を脱ぎ捨て、いつもの服を身に付けて木箱を背負い、ギンコはさっさと出て行ってしまった。残された化野は、座り込んで、ギンコの寝ていた布団の温もりに、そっと手を伸べて触れている。

「ものじゃ、ない。生身だろう、お前は。もの扱いでいいなんて、どうして…そんな」

 言う権利などないのだと、分かっていてもそう言った。そうして今更のように、化野は思い出す。話す間など幾らでもあったのに、ひと月前にここに来たギンコの知り人のことを、とうとう言わなかったと。

 恐らくは自分よりもずっと、深くギンコを分かっていて、ギンコに添う事のできる彼のことを、化野は口にしたくなかったのだ。

「…ものじゃ、ない」

 もう一度、言った。ものを愛でるようにじゃなく、お前が好きなんだと。けれど、今追い駆けて伝えても、伝わる気が少しもしない。

 胸の何処かが、今にも千切れそうだった。

 


 山中にて、墨の色の枝々を、イサザはじっと眺めていた。星の少ない黒い夜空も、影のようになった木々の向こうに、透き通るような蒼に見える。風が吹くと、ざざ、ざざ、と広葉樹の葉がさざめいた。 

 蒼い宵空と重なって、ギンコの顔が見えてくる。あぁ、あれはどれぐらい前のことだったか。ギンコと彼との間に、あの時のことが無かったら、イサザは今きっと、こんな気持ちではいない。

 イサザ、イサザ、今日だけ、今だけ、
 一人で居たくないんだ。

 聞こえた声に、イサザは強く寝返り打つ。一人で行動することがないわけじゃないが、今日みたいな日は、ワタリの仲間と居たかった。皆を束ねる若長の身では、考えねばならないことがいつも山積みで、こうしてゆっくり思い悩むなど、出来はしない。

 光脈の気配から遠くあることも、きっと不安の元だろう。長であろうとワタリはワタリ。あの金の流れの傍にあれば、迷うも何も無く、抗うなど露ほどの可能性もない。いつだとて従わねばならぬ。自分がどうしたいか、何を選びたいか、決め兼ねて苦しむこともありはしないから。

 でも、甘えだ、これは。
 おのれで選んであいつの手を離した。
 それをただただ、正当化したいだけだ。

 そうして今は、知らぬ間に、お前を取られそうになって愚かな俺は、歯噛みしてるんだ。今、もしもお前と会ったら、俺はいったいどうするのだろう。木の洞の中で身を丸めて、イサザはそう思っていたのだ。

 そしてまだ薄暗い朝靄の中、目を覚ましたイサザは、すぐでも会いたくて、けれど今は会いたくなかった姿を、そこに見たのである。

「ギン…」
「…あぁ、イサザ。久しぶりだ」

 視線を逸らしたままで、ギンコはそう言った。朝露に濡れて、それでも寒い筈のない季節の今、ギンコは震えているのだ。

「ギンコ」

 会いたかった。こうして今、目の前にいるギンコを見て、イサザは心を間違えることも出来ない。

「…また、何かあったかい…?」

 意味深な言い方で問えば、ギンコは自身では何も気付いていないのか、ただただ怪訝な顔をする。

「まぁ…いいや。会えて嬉しいよ、ギンコ」

 ざざ、ざざ、と木々の葉が騒々しい。荒れた波の音よりもっと、胸の底を掻く音だと、イサザは思った。













 これまた難しい話だな。あっちこっちで不器用過ぎる。最初からまともに自分の心を把握している人間がひとりもいないじゃないですかっ。って、それ割と普通のことかな?

 ギンコと化野は擦れ違い。イサザは諦めていたギンコを、今まさに腕に捕まえようと……っ。いかん、これはネタバレかっ。次回も頑張ります。ややこしい分り難い話で本当にごめんなさいっ。


14/06/08