この手のなかの奥底に 11
「薬売ってくれよ」
縁側へは背を向けて薬棚の前にいた化野は、その声に震えた。一度きりしか聞いていないのに、何度となく思い出して来たからだ。それからゆっくり振り向いて、胸が、嫌な鼓動を打つのを聞いた。
「…あんたは」
「売ってくれるだろ? 痛み止めと化膿止め。あと包帯もさ。冬前に大怪我して、薬が全然足りなくて難儀したんだよな」
「あぁ…」
着物の腹へと手を入れた恰好で、垣根を越えて庭に立ち、イサザは真っ直ぐ彼を見ていた。すぐに薬棚の前へと行き、其処へ屈んで向けられた、医家の背に思っている。
やれやれ、あいっかわらずそんなに開けっぴろげで、危なっかしいぐらい警戒心の無い。俺が来たことで、動揺してんのかもしれないけどな。覚えてないかな、なんて、俺は欠片も思わなかった。手が震えてるのまで見えたよ。
…いいよなぁ。
イサザは心の何処かでそんなふうに思うのだ。流れ者の俺らから見たら、苦労知らずのぼっちゃんみたいな、楽ばっかしてきたみたいな、そういう姿にまた苛立ってくる。少しぐらい、いや、思いっきり意地の悪いことされたって、あんたどうせ、俺より幸せだ。
「なぁ? あれからここに寄ったかい? ギ」
「冬前と言ったか?」
数種の薬を手にしながら、化野は縁側に膝をついた。立ったままのイサザに身振りで、もっと近くに寄ってくれるよう告げて、彼は腕を差し伸べる。
「ならまだ完治はしていないだろう。診せてくれないか。知らぬ顔で無し、薬だけ渡してそれきりには出来んよ」
「…物好き、って言われるだろ? あんた」
痩せた指をしていると思った。前からこんなだっただろうか。乱暴な仕草でどかりと縁側に腰下せば、しくり、と腹は痛みを滲ませる。顔を顰めた筈もないのに、化野は咎めるような顔をしてイサザを見た。
「まだ、痛みはあるらしい」
「まぁ、な。前に山で土砂崩れがあってさ、流されそうになった仲間を助けたのさ。そんとき、折れて倒れてた木の枝がこう、腹にぶっすり。そのあと谷に滑り落ちたってのに、運よく俺は死ななくて」
「診せてくれ」
体を斜めにして、着物の前を大きく緩め、イサザは腹と胸をさらした。傷が塞がってからは包帯すら巻いていない。みぞおちから脇腹にかけて、複雑な形に走った傷跡が凄まじかった。指先で触れると、傷の周囲はそれ以外の皮膚よりも、若干熱を持っている。
「傷は内に籠って、まだまだ癒え切ってないんだ。冷える夜や雨の日は鈍痛があるだろう。その…仲間とやらは、怪我は」
「なぁ…。もう察しぐらいついてんだろ? 診てくれた礼に、教えといてやるさ」
間近から挑む眼差しで、イサザは化野を見た。何か痛みを堪えるように、化野は視線を下へ落とす。それへ鞭打つような言葉が、淡々と降った。それは、宣言、のように化野には思えた。釘を刺す意味もあるのだろうと。
「俺が助けたのはギンコだよ。…あいつは、もうあんたに会えないぐらい傷付いてたんだ。ぼろぼろんなって俺に縋りに来た。最後にあんたに会った後すぐにね。もう全部忘れたい。二度と会わないから。俺のものになるからって、そう言ったよ」
化野は項垂れたまま、じっとそれを聞いていた。言葉を発するまでに、随分と長い時間がかかった。用意した薬は知らぬ間に床に散らばり、それを拾おうとする指の震えが酷くて、何度も何度も落として。やがて言ったのは、ギンコの安否を気遣う言葉だった。
「怪我は、無かったのか…? ギンコは」
「俺が守ったからね。でも何処か怪我してたって、あんたにだけは診せないと思うけど」
「…っ…。いいんだ。無事だと聞きたかった、だけだから」
酷い言葉を投げつけたのに、震えながら零れた言葉には、ほっとしたような響きが混じっていた。化野は項垂れたまま立ち上がり、薬棚へ行くと、いくつもの薬を揃えて持ってくる。ひとつひとつを説明しながら、小さな箱にそれらを詰めて、最後の一つを収め終えると、それを静かに差し出した。
「不愉快…だろうから、俺からだとは、言わないでくれ。これを持っていって、あんたやあんたの他の仲間や、ギンコが、病などの時に使ってくれたら嬉しい。これでもう…俺も、忘れるように、努める…から…」
差し出された箱へは視線もやらず、イサザは残酷なぐらいはっきりと聞いた。
「誰を忘れる、って?」
化野はやっと顔を上げて、イサザを見た。見開いた目の奥で揺れているのは、愛しい相手に嫌われたことへの痛みだろうか。もう会えないと知らされた苦しみだろうか。
「だから、…ギ……」
言葉は止まって、化野は自分の喉へ手をやり、無理やり絞り出すように言おうとした。
「ギ…。もう…二度と、会…」
なんという想いだろう。ギンコも、この男も。そして…自分も…。イサザは彼の様を見つめて、自嘲するように笑った。こいつも随分馬鹿だけど、俺だって相当なもんだったんだな。
ギンコでなくとも、他の誰でも良かったんだなんて、そんなのは嘘だ。こんな自分が救える相手が、守れる相手が、支えられる相手が、誰でもいいから欲しかっただけで、たまたま其処にいたのがギンコだった、なんて。そう思おうとしたことも逃げだったんだ。
ワタリの自分と、蟲を寄せるギンコ。どうせ寄り添うようにしてられっこなかったと、気付いてしまったから、ギンコをただ一人の相手だと思うことから、逃げようとした。
まだ目の前の男はそれを言おうと苦しんでいる。喉を押さえ、たったの文字三つ。でもそれを言ってしまったら、心が裂かれてしまうと知っているように。
イサザは投げ出すように、言った。
「…もういいよ、好きにしたら」
続
終わりそうだなぁ、て思ったんですけども。まだもうちょっとあるってのと、あとラストが決まってないので、続、となりました。次回完結です。
それにしても、イサザのこのSっけ凄い。いや好きですけどねっ。ハッピーエンドになりそうで、ほっとしましたぁぁ。
15/02/08