この手のなかの奥底に 12
整えられた薬箱を小突いて転がして、庭の方へと向き直り、イサザは少し声を張る。
「…どうせさ、どんなに自分自身を抑えようとしたって、無理だ。俺も、あいつも。ギンコは自分のせいで俺がこんなになったからって、罪の意識で漸く自分を縛って。つまりは俺のこと材料にしてるんだぜ。そうでもしなきゃぁ抑えられないって言ったって、酷いと思わないか? この意味、分かるかい、あんた」
少し急ぐように一息に言われたその言葉を、化野はすぐには理解出来なかった。会いたくて堪らない相手に、もう二度と会えないと告げられたばかりなのに、今度は好きにしろと言われて。それに、何だって? ギンコが何を、抑えられないと…?
「分かるか、って俺は聞いてんだけど?」
立ち上って、体ごと振り向いたイサザは、真っ直ぐに化野を睨み据えている。
「医家先生、あんたも俺も馬鹿だけどさ。一番の大馬鹿は、やっぱりあいつなんだよ。馬鹿なだけじゃなくて、脆くてさ。あんたが思ってるより、ずうっと世話が焼けるときてる。正直俺一人じゃ、もう庇い切れなくてね」
そんな言い方の癖にイサザはどこか淋しげで、化野にだけ聞こえる声で、弱音のようにぽつりと零す。…だから、来たんだよ、と。そして彼は肩をすくめて、言ったのだ。
「そうだよな、ギンコ」
その瞬間、打たれたように化野は震えた。胸の奥で心臓が大きく、ひとつ跳ねて、そのままばくばくと騒ぐ。
もう一度ゆっくりと、庭の方を見たイサザの視線の先を、信じられないものを探すような目で化野は見た。見えるのは、うららかな春の、美しい木々の緑と、その向こうの海の色、空の色。気配も物音もしなくて。狂おしい目が探し続ける。
イサザは短くため息吐くと、腹を押さえながら庭を横切った。垣根に近付き、その向こうの青々と葉を茂らせた木の枝を、乱暴なぐらいの勢いで掴んだ。枝が撓って葉が音を立て、その向こうに、白い…。
彼の髪だけじゃない。戦く顔も、青ざめたように白いのだ。居場所を暴かれて、ギンコは、為す術もない。
「…イ…サ」
「枝、あたった? 引っ掻いた?」
イサザは笑って、伸ばした手でギンコの頬に触れ、枝に乱されたその髪を指が梳く。ギンコは動くことも出来ず、けれど視線をイサザの顔から動かすことも出来ない。
「今、先生から傷の薬も貰ったから、怪我したんだったら付けてやるよ」
「怪我、なんか…」
「ほんとか? どれ? 首とかは?」
イサザの手がまた近付いて、今度はギンコの襟の中に滑り込む。抵抗は勿論、ほんの僅かも逃げようとせずに触れられながら、それでも短く、嫌がるような事を言った。
「やめ…」
「…先生が見てるから? 一緒にいる間、お前、俺と何回も寝ただろ? 辛くて俺に縋ったくせに」
「…っ、イ…」
焦ったように揺れた目が、初めて化野の姿を映した。
あぁ、こんなにも苦しい。
目が潰れてしまいそうな気がする。
この先、死ぬまで一生分の、海の煌めきを見たようで。それとも真っ白な雪だろうか。降り注ぐ木漏れ日だろうか。心が突き動かされて、何かがとめどなく溢れる。
「イサ…ザ…」
「…なんだよ」
「サザ…」
化野の姿を映したままで、心を化野で満たしたままで、ギンコは何度もイサザを呼んだ。
「イ…サ…」
「うん、ギンコ」
「……イ…」
よかったな、会えて。息だけの、震えるようなその声。イササはくしゃりとギンコの髪を掻き混ぜ、その首を一度強く抱いて、そうして言った。
「先下りて、浜で待ってる」
「…っ、イサザっ!」
「すぐ追っかけてきたりしたら、縁切るからな。怪我も治り切ってない俺を追いて、一人でどっかに消えても縁を切る。みんな、お前のせいなんだから」
じろりと睨んだ顔が、逸らされて見えなくなる直前、イサザがどんな顔をしたか、一瞬見えて、すぐに見えなくなった。遠ざかるイサザの背ばかりを、縋るように見ているギンコに、消えそうなその声は、やっと届いたのだ。
「…ギンコ……」
ギンコは振り向いて、けれど化野を真っ直ぐに見れずに部屋の中に視線を彷徨わす。文机の上に置かれた、美しい青硝子の盃。あれは最後に、ギンコから化野へ渡したものだ。白い半紙を二つ折りにし、その上に置かれているから、紙の上に碧と蒼の色彩が映っている。
「…それ」
「あぁ…。硝子が薄いから、割れそうで怖いんだが。でも傍に置きたくてな」
化野は文机まで行って、その盃を片方の手のひらで持って、別の手でその表面を撫でる。見ている目の前ですっぽりと、化野の手に包まれたそれを、ギンコは目を逸らせずに見た。そうして、妬んだのだ。
そんな風にして欲しい。大事に大事に、思って欲しい。傍にいることが出来なくても、いつも、傍にいて欲しいと、会いたいと、思われていたい。
でも、化野がそんなギンコの想いを知る筈もない。彼は彼で、哀しみに暮れて、必死に想いを秘めながら、隠し切れずに懇願するような目の光をして。
「教えてくれ、ギンコ。お前、あれからずっとあいつと居たのか? この先も一緒に、旅をしていくのか」
化野も思っている。なんて羨ましい。妬ましい。出来ることなら代わりたい。でも、そう思いながらの彼の問いに、ギンコは答えない。化野の手の中の盃を、ただじっと見つめているだけだ。
掻き口説くように化野は続けた、これで最後なのだろうから、せめて後悔しないように。
「お前はあいつのものなのか? もうここには来ないのか…?」
「なんで」
「…なんで、って。あいつがそう言ったんだ。お前は自分のものになった、と」
「そうじゃない。お前、なんで聞くんだよ、そんなこと…」
また問い返されて、化野は暫し言葉に迷った。随分はっきり見せてきたと思っていたのに、伝わっていなかったのかと。肌を合わせもしたのに、かえってそれで、たがいちがいに離れてしまった。
「…あんまり悔しいからだよ、ギンコ。会えてこんなに嬉しいのに、もう俺はお前に、手も触れちゃいけないのか。今日をおしまいに二度と、こうして会うこともないのか」
「だったら、なんだと…?」
「……」
冷たい言い方で言うくせに、ギンコの体は震えていた。その体を抱きたくて、でも出来ずに、化野はよりいっそう硝子の盃を指に包んだ。冷たかった器に体温が籠り、美しい翡翠と蒼のきらめきは、逃げたりせずに手の中にある。
こんなふうにお前を、
捕まえていられたら。
こんなふうにお前に、
捕らえられてしまえたら。
「「俺は」」
言葉が重なって、そこから黙り込まずに続けたのは、化野だった。
「お前が。お前のことが…」
「…あだ、し」
痛みを堪えるように、化野は微かに笑んでいた。途切れた言葉を続ける代わりに、彼は美しい硝子の盃を、口許に。そしてそこにそっと、唇を。だが…。
ぱりん…っ!
盃は払い落とされて、庭石の上で、粉々になった。
「…やめてくれ…っ…」
「ギ、ギンコ」
「やめてくれよ、頼むから。こんな…っ。こんなふうに、ものに嫉妬するぐらいだったら、俺がそうされたいんだよ。ものみたいに大事にされて、ものみたいに、いつも傍らに置かれて…。お、お前に…っ」
項垂れて、見えない頬から滴る雫が、確かに見えた。驚いて、目を見開いていた化野が、縁側で立ち上がり、庭へと下りて欠片を拾う。
「……あぁ、悪ぃ、それはお前のものなのに」
ギンコの売ったものでも、もう金は受け取っている。これは化野のものだ。ギンコが壊していいものではない。でも化野は、彼の謝罪など聞いても居なかった。
「わかった」
ぽつん、と、一言、そう言って。化野は屈んで欠片の一つ一つを拾いながら、言葉を続けた。まるでひとりごとのように、ゆっくり。
「わかったよ。なら、俺は、お前をもののように、愛そう…」
拾える限りの欠片を集め、土や草に混じってしまいそうな、細かなものも、諦めずに探して、また拾っては、探して、また。
「そうして、俺は、今日からは」
屈んだままで、化野はギンコの顔をみあげる。其処からだと歪んだ泣き顔が見えた。心から、愛しいと思った。
「気に入りのものを愛でるとき、何より大事な相手を想う時のように、心のすべてを傾けて愛するよ。それでいいんだろう…? ギンコ」
立ち上がり、化野はギンコの頬に静かに触れた。あまりにも愛しくて、このまま蔵の奥にしまい込みたいほどだと思った。他の誰のものだろうと、知ったことかと言いたかった。でもそんなことは出来ないし、あまりにも自分が無力で、また傷つけるのは怖くて。
「返事はしないでいい。お前が、この先どうするつもりでも、俺は、ずっと待っているよ」
イサザがゆっくり浜へとたどり着いた後、その後ろを追うようにして、ギンコもそこに着いていた。イサザは派手に溜め息ついて、少し離れたところから彼を見た。ついさっきまでと、あまりにも違うギンコの姿に、声が震えそうで、無理にこらえて軽口を叩く。
「なんだよ、一発やってきたって良かったのに」
「…いいんだ」
なんだか赤い目をしているくせに強がって、ギンコは里を出る方向に歩き始めている。この波音を全身で吸うように、砂の感触を覚え込むように、淡々と歩いていく。そんなギンコの背中へと、イサザはいたずらっぽく言った。
「あっ、薬忘れてきた、ちょっと取ってくる」
そして足場の悪いのをものともせず、イサザは走り出したのだ。ギンコはそんな彼の姿を見て焦って、
「イサザっ! 怪我がっ」
「本当はもうとっくに治り切ってんだよっ。お前はそこで待ってな!」
あの先生のところに薬を貰いに行くから、俺の杖になれ。ギンコが断れないと分かっていて、わざとそう言ったイサザ。確かにずっと、痛そうに歩いていたと言うのに、その姿はどんどん坂を登り遠くなる。
そしてイサザは化野の家の庭に踏み入り、薬棚の前でこちらに向けられている背中に言ったのだ。
「勘違いされたら困るから」
驚いて振り向く化の顔を見て、イサザの方が絶句した。こんなに素直に涙を流すなんて、自分には出来ない。もしも泣くならきっと、あいつを永遠に失った時だろう。だから今は違う。失っても、奪われてもいない。
ギンコは、二人の間に居る。
「先生、俺、あんたにあいつを、譲った訳じゃないからな」
「もちろん、譲られたつもりなんかないよ」
「……」
泣いてるくせに、喧嘩を売るのかと一瞬思い、違うとすぐに気付いた。化野の眼差しは真っ直ぐで、曇りがない。だからイサザは言おうと思った。この男になら確かに伝わると思えたからだ。今、伝えなければならなかった。
「俺もあいつが好きで、あんたもそうで。だからあんたはあんたが出来る方法であいつを支えなよ。俺も、俺のやれる方法でそうしてくから」
「……あぁ」
彼が少し驚いたのは、イサザの出した答えが自分と同じだったからだ。化野は、縁側に放り出されたままだった薬の箱を取って差し出した。
「俺だけじゃなくてよかった。ふたりで支えた方が、きっと、ずっといいんだ。あいつは厄介なヤツだから」
その言葉をどちらが言ったのか、いつか記憶の中で曖昧になるほど、たぶん気持ちは同じだったろう。
「先生」
「化野でいい」
「うん、化野。俺のこともイサザでいい。近くに来たら、薬買いに寄るよ。じゃあな、また」
「あぁ、イサザ、また」
薬を渡され、今度はしっかりとそれを抱えて向けられた背に、化野は思い出したように言った。
「腹の傷は養生しろ、甘く見るな…!」
「あんた名医だな。最後にいいこと教えてやるよ、俺もギンコとずっとは居られないんだ。だからあいつが淋しくなった時、慰めるのはその時傍にいた方の役目な」
「…っ、わ、わか…っ。…え?!」
何か、飛んでもないことを言われた気がした。でももう聞き返そうにもイサザの姿は庭には無い。縁側で立ち上がり、伸び上がってみれば、坂を駆け下りる姿が見える。
「こら! 言ってる傍から走るな!」
やんちゃな子供をしかり飛ばすような言葉だと思ったが、あれで手強い恋敵だ。そうして同胞でもあるのだ。同じ相手に運命づけられた友。なんて出会いだ、そう思う。ギンコと自分と、そしてイサザと。
ふと視線を落とした足元に、硝子の小さな破片が落ちている。粉々に砕け散ったかと思っても、まだこんなにも美しい、想いの欠片のようだと、そう化野は笑った。
終
やっと書き上がりました。読んで下さった皆さま、本当にありがとうございます。時々方向性や彼らの感情を見失ったりしまして、どうしようかと焦ったことも、実は多々ありましたが、本当になんとかラスト。凄く変わった話で、難しいことをしてしまったなって思いつつ、あれか? 私が未熟なだけ?
ぐぬぬ、頑張り、ますっ。
この話で、イサザがまたぐぐんと好きになりました、またこんなふうに中心に居る話を書きたいと思います。その時はまたよろしくっ。というか、凄い長さのラストですみませ…orz
2015/02/24