この手のなかの奥底に 1
「そっちの地図くれ、この図譜も」
男が指差す品をくるくると纏め、イサザは金を受け取る。巻物と銭入れをひとつに掴んで、袋へと押し込む所作を、見るは無しに眺めて、けして表には出さぬ顔で笑った。
けっこう値が張る品だってのに、雑な扱いだ。そして重たげな銭入れと、着ているものの布地など。こういう客は、すぐにものを傷めたり失くしたりするものだ。次に行き会ったら同じものをまた欲しいなどと言ってくる。きちんとしとけば買わないでも済むものに、何回も金を出してくれる上客だ。
「毎度さん。いつも買ってくれて、ありがとうよ」
そう言って、立ち上がろうとしたイサザに、男は思い出したようにこう教えたのだ。
「…あぁ、そういやお前、あの白髪の蟲師の馴染みだったろ。いい金づるを見つけたらしいぞ。珍しいもんなら何でも欲しがる、珍品好きの医家だとか」
俺もそこ行って商売さして貰いてぇもんだなぁ。
などと、笑いながら男は去っていく。その話なら、一年ほども前に別の方からも聞いた。その珍品好きの医家とやらの住いを、ギンコから聞き出そうとして、のらりくらり逃げられた商人の不満話だった。独り占めしようとしやがって、と、その男は言っていたが…。
「一年。その間に一回あいつには会ってるけどなぁ」
だから、金づる、美味い客、では多分ないのだろうとイサザは朧に思っている。
海の香が、した。海鳴りも夜半になれば微かに届く。ここは山頂。夜明けて日の光を浴びて光放つ海原が、木々の隙間の眼下に見えてきた。目に見えにくい日差しの中の霧が、確かに淡く金色がかって、一つの方向に傾き流れていく。
「そっち、かい、光脈よ」
選りによって、と、薄暗がりに自嘲を一つ。まだ影の濃い山肌に、ひとりひとりと身を起こすワタリの仲間たちの姿。出立だ、そう言わずとも荷をまとめ始めていた。
うねる、大きな大きな体の長い魚のように、深く地下へと身を沈めゆく光脈。その方向を見定めて、イサザは海の光に目を細めた。次に金の光を拝むのは、そこの海を越えた向こうの山奥だろう。息する様さえ潜めて移動する光脈の、ゆく先を読むのはイサザの仕事。
山を下る。一度は数人ごとにばらばらになり、それぞれで海里へと出て、舟を頼み海を渡り、その向こうの、光脈の通り道で合流する。それが、若長のイサザが示した答えだった。
「薬をくれないか? 売ってくれるだけでいいよ」
その庭に足を踏み入れ、イサザは言った。何か片付けをしていたらしい、若い医家が顔上げて、温和そうな笑みで応じる。
「構わんが、旅のお人かい? 嫌でないなら診ようか。どこか体の具合でも?」
「俺は別にどこも。といって連れが悪いわけでもないんだ。察し通り旅暮らしてる身なんでね。腹痛に傷の薬やなんか、持っとく分だよ」
「そうか。承知した。なら上がって待ってくれ。一通り見せよう」
言って奥へと引っ込むのを、イサザは縁側まで寄ったのみで待った。上り込む気にも、腰を下ろす気にさえなれない自分を、笑いたい気がする。ただの興味で見てみるだけとか。そう思ってた筈の自分の、心の奥を見る気持ちだった。
なぁ、ギンコ、お前にとって。
金づるでも、いい鴨でもないよな。
この男。
知らぬ顔の俺を、こだわりなく家へ上げようとし、片付けしていた様々を放って、自分は奥へと外すとか。流れて暮らす俺らみたいな輩は、たったのそれだけで、心の隅が、ほろり崩される気がするよ。
懐へ片手を入れ、たったままでイサザは待ったが、少しの間医家は戻ってこなかった。かたこと、と聞こえてくる物音で、茶など入れているのが察せられる。同時に薬も揃えて、二度に分け目の前に持って来られた。
腰も下ろしていないイサザの姿に、怪訝な顔ひとつもせず、まずは湯気の上がる湯呑みを。それから、四角い薬の箱と、その蓋の上に見やすく広げられた薬。
「腹痛はこちらの丸薬と粉の薬とがある。傷薬は膏薬と、痛み止めの飲み薬に、化膿止めも必要なら。それから、こちらは感冒でな、これなど熱に良い。それとあとは、この滋養の」
「…随分と、良くしてくれんだな」
続いていく声を遮った。この医家が戻ってきた時に、こちらを見た目で気付いたことがある。良くしてくれる理由は、恐らく。
「あぁ、いや。煩かったならすまない。安くしておくから、必要だと思うものだけ手に取ってくれ。旅の人が必要とする薬なら、故あって心得ているつもりだから、つい」
そうして医家は真っ直ぐにイサザを見てから、ふい、と視線を外して笑んだ。
「時々ここに顔を出す馴染みの男がいてな。あんたは、その男にどこか似ているんだよ。このところ来てくれないんで、つい、彼が来たら持たせてやりたいと思う薬を、あんたに」
なんて直ぐだ、それこそ、煩いぐらいだ。そう思った。そうしてイサザは自分自身に、止せ、と警告しながらも口が止まらない。
「ギンコ、のことだろ」
見事な反応をした。目を見開き、医家はその時手にあった薬包を、ばらばらと畳に落とした。
「知っているのか…? 今、どこにいるかも?!」
「いや、俺も一年近く会ってないけどな。海沿いの里の医家と知り合ったと、この前会った時聞いたんだ」
言うと医家は残念そうにしながらも、もうぬるくなっていた茶を入れ替えて、差し出してくれた。
「そうか…。俺は化野という。いや、ここへは半年ほど前に顔を出したが、それきりなんで、何かあったのかとつい思ってしまってなぁ」
たったの半年でそんなふうに思うのは、ギンコが何も話していない証拠とも言えた。けれどそれと同時に、もっと頻々とここに来ていたということでもある。蟲を寄せるギンコが、よほどの理由が無くば、一つの場所に年に二度は足を向けないギンコが。
止せ、とまた心の何処かが警告する声が、イサザの中で遠くなる。縁側に腰を下ろし、用意された薬を手に取り改めながら、彼は言った。
「ギンコなら古馴染みさ。ガキの頃から知ってる。来ないなら来ない理由があるんだと思うぜ? 理由もなく人を避けるやつじゃないよ。あんたが何かしたんなら、別だけどな」
「…そう、か…。きついな。正直、身に覚えがなくも無いから」
探りを入れられているのだと、思ってもみない直ぐさが、腹にちくちくと刺さるようで居心地が悪かった。前に会った時に、ギンコの口から聞いている、なんて、そんなことすらも嘘だというのに、化野は欠片も疑わない。ギンコの馴染みならば、信じるに足る、などと、そう思っているのが、透けていて。
その上で、ギンコと自分との間に、何かあったことさえほろりと零すこの医家の、苦労知らずに思える姿が、尚更に苛立を生んだ。
「これと、これ。あとこっちでいいよ。幾ら?」
「…あ、あぁ、なら」
変に安価な値を言ってきて、一つにまとめて薬を手渡しながら、化野は乞うようにこう言った。
「もし、ギンコに会ったら言ってくれ。待っていると」
「……いいけど。あんたさ、俺の名前も聞いてない」
「あ…っ…」
名も知らぬ相手に、そんなにもなりふり構わずいたことを、今更のように気付かされ、若い医家の男はうっすら肌を染めた。
「聞いてい…」
ざっ。
名を問われた時には既に、低い垣根を越えた木々の向こうに抜けていた。腹痛の薬、傷薬、とんでもないな。懐へしまっただけのそれが、ずきずきと熱を持つほどに、心を病ませてくれそうだった。
木々の間を抜けながら、瞬きをする一瞬一瞬、脳裏に過るギンコの姿は、互いに成長してからも何度もあった姿ではなかった。怖がりで心細げで、人に中々心を許せない、だからこそ放っておけないような、まだ幼いギンコ。
「あんまし、心配かけんなよ」
兄貴ぶって、そんなふうに言葉にした。けれど、そんな言葉で騙されてくれる、己の心ではないと、イサザは自分で分かっていた。
「面白いもんが手に入ってな。買ってくれよ、これ」
ひと月後だった。もう夏を迎えていて、じりじりとした日差しと、蝉の鳴く声に包まれる中で、短くて濃い影を連れながら、ギンコが庭先に立っていた。
「…ギンコ!」
無事だったのか、と、言葉を続けられなかった。あの日、ギンコの古い馴染みだと言うあの男が来て、薬を買って行ってから、もうひと月も過ぎていて。
ギンコが来ないのは、俺との間に何かあったからだと、そう見透かされた気がした、あの時のことが、今でもちりちりと胸を焼いている。
「よく、来たな…」
辛うじてそれだけを言った。そうして差し出された品を、差し伸べた両手で受け取り、綺麗な青硝子で出来た盃を、角度を変えつつじっと見つめる。
「あぁ、これはきれいだ」
そう言った自身の声に、またぎくりとする。意識し過ぎて笑えてしまう。ギンコの顔が見れない。どんな顔をして今の言葉を聞いたかと、心配が過ぎて。
「買うよ。まぁ、上がってくれ。茶を入れよう」
青硝子は、不思議な透度で化野を魅了した。片側から光をあてれば、透き通るその影は深い青。逆からあてれば碧の色で、揺らしながらみれば、まるでそこに生きた海が棲むようで。
綺麗だ。
本当に綺麗だよ。
惹かれる。
ずっと見ていたいほど。
お前を。
お前の白い髪を、
その翡翠のような目も。
深夜に、夜の中で告げた自分の言葉を、化野は思い出していた。途端に腕の中で強張った、ギンコの素肌と共に。もう言わない。でも、もしかしたら思っただけで、お前は嫌なのか、ギンコ。どうしたらいい?
「やすんで行くといい。一日でも、二日でも」
やっとそう言った言葉に、ギンコが微かに頷いて、化野は見惚れぬように、目を閉じた。
続
ん、と、イサザ×ギンコ。ではなくて、化野×ギンコ←イサザ。となるのかと思います。困ったことに、書いて見なければ分からないのですが、ギンコ←イサザ、の色が濃い作品になりそうな予感が…っ。
そしたらメインの目次ページ、化野×ギンコのコーナーに置いていいかどうかちょっと迷うところなんですけどね。でもまあ、蟲師クラスタ様方は、割とCPに寛容だと思いますので、あまり悩まず、こちらの目次に置かせて頂きました。
楽しく書ければと思っています。そしてまた、この作品が少しでも、アニメ続章の野末の宴の「イサザ」と、とうサイトに前々からいる「イサザ」を繋げるものになれば、と頑張る所存です。
なんとか頑張りたいっ。どうぞいろんな意味で応援してやって下さいませっ。読んで下さってありがとうございました(^ ^)ノシ
14/05/18