白いヌシ  前編

 冬の、さなかである。

 馴染みの行商人に書いて貰った地図を頼りに、人里を離れて山へと踏み入り、必死に歩いて、もう三日が過ぎた。化野が更なる深い薮に分け入って暫く、さらさらと細かな雪が降り出し、その雪は見る間に彼の視野を塞いだ。

 まるで、崩れ落ちる砂の中にいるかのように、前を向いても、何も見えない、振り向いても見えない。道どころか周囲の木々までもが消え、己の体を見下ろすも、自分自身の足元も、己の手さえも、殆ど見えないほどだった。

 自分の吐いた息が白く、白く、顔に吹き付けて、その冷たさに呼吸が出来なくなって、ぎゅっと目を閉じて訪れた闇がそのまま、開かなかった。


 ギンコ…

   と、彼は思う。

 ギンコ、何処に居るんだ。

   ただそれだけを、思う。

 俺は此処だぞ、

 お前を、迎えに来たんだ。

 
 夜遅く。行き倒れた化野の傍らに、白い人影が立っていた。闇の中だと言うのに、その人影だけが淡い光を纏っているようだった。項垂れて、じっと見つめて、動かずに、人影は化野を見ているのだ。

   迎えに来られたって、困るんだ

 彼が空を見上げると、僅かに降り続いていた雪が止んだ。冬枯れの枝々の重なり合う向こうに、細い月が掛かっていた。

   …でも、ありがとうよ

 目が覚めた時、化野の体には雪の欠片ひとつ積もってはいなかった。ふと気付けば傍らに、古びた提灯がおかれていて、灯された蝋燭の火が、あたたかな橙に揺れていた。見覚えのある提灯だ。それは間違いなく、化野が彼に貸したものだった。随分前のことだが、覚えている。

「見つけたぞ。…やっぱり、ここに居るんだな」

 見ればまるで帰り道を示すように、一方向だけ遠くを見渡せる方角があったが、化野はそちらへちらりと視線をやったきり、提灯を手にして、雪の深いほうへ深いほうへと歩いていく。

 帰れ、と言っているつもりか? 冗談だろう? 二年近くも姿を見せず、案じて、案じて、案じていた。それらしい姿を見たと旅の商人から聞いて、居ても経っても居られなかった。そしてやっと、こうしてお前に近付いたのだ。

 里人には頭を下げてきた。身勝手な医家で済まない、どうか許しては貰えまいか、と。皆優しくて、理由も聞かず、旅に必要なものの準備を手伝ってくれ、怪我せず無事にお戻りよと、そう言って送り出してくれた。化野は、皆の笑顔を思い出し、けれどそれはすぐに遠くなった。

「…誰が、帰る、ものか。帰るのなら、お前と、共に」

 まろびそうになりながら、行灯を、小さく灯った火を守り、彼は一心に歩いた。どちらへ進めばいいのか、何も分からずにただただ歩いた。朝なのか昼なのか、夜が来たのかこれから来るのかすら、彼には分らなかった。それでも歩いた。飲まず、喰わず、立ち止まらずに化野は歩き続けた。

「…居るんだろう…? ギンコ…」

 膝の力が抜け掛けて、雪の中に突っ伏しそうになりながら、化野はそう言った。彼は、一歩一歩と脚を前に踏み出したが、そのまま雪の中に倒れ込んで、また気を失ってしまう。

 次に目を開けた時、今度は苔の生えた洞窟の中に化野は居た。風も無ければ寒さも無い、光源など見当たらないのに、仄明るい不思議な場所だった。

 ここは、どこだ?
 いったい、どうして。

 ぼんやりとそう思った時、彼が求めて止まない、声がしたのだ。

「……迷惑な話だよ…」

 でも、どこからその声が聞こえるのか、わからない。洞窟の奥まで見通しても、ギンコの姿は見えない。ただ、蔦草のびっしりと這った岩壁と地面が見えただけだ。そして声は、その壁の方から、また聞こえてきた。

「俺はここを、離れる訳にいかない…」

 ざわり、蔦草が動いたのだ。震えるように、全体に。そしてその草は、まるで無数の蛇のように蠢き、ずるずると後退していく。地面を這い、岩壁を這い上って、それらが蠢きを止めた時、そこに、ギンコが立って居た。

「見ての通りさ。お前に話したことはないが、知っているんだろう?『ヌシ』の体には…」

 草が
 生えて
 いる

 着物でさえない白い布を、ゆるく体に纏ったギンコの首や背中から、後ろの岩壁へ、無数の蔦草が伸びていた。ギンコが喋ると、その草はざわざわと蠢いて、まるで、彼の意思がその蔦草の中に、通っているようだと、化野は、そう…。

「ギ…ン…っ…」

「帰れ」

 ざん、と音を立てて、雪の帳に閉ざされた気がした。視野が一瞬にして真っ白になり、咄嗟に閉じた目を開けると、また麓の里の見える場所に立って居た。片手には火の消えた行灯。もう、夜明けが訪れている。

「……ふ…、ふ、ざけ…っ…。ギンコッ」

 提灯を畳み、緩めた懐にそれを突っ込んで、化野はまた山道へと駆け戻った。だが…。雪を蹴立てて必死に走り、息を切らして走り続けているのに、一向に風景が変わらないことに、やがては気付く。進んだ、と思ったらまた麓の里が目の前に見えて、それと同じことを、何度やったか。

 終いには足が上がらなくなり、雪の中に体を倒して、ぜいぜいと息を吐くばかりになってしまう。成すすべなく蹲り、くぅ…、と喉奥で嗚咽した。進もうとするのをやめると、途端に現実が彼へと迫ってくる。見せつけられたギンコの姿が、何を意味しているのか。


 あの蔦…。
 ギンコの背中から生えて、
 …いたのか?
 
 あいつが、
 ヌシだって、
 ことなのか…?


 淡々と、静かに澄んでいたギンコの顔。眼差し。まるで、もう感情を失くしかけているような…。

 今更のように、ぞくり、と、した。

 ヌシは、山を守るもの。山の礎。理と山とを結ぶためにだけ其処に在り、それ以外ことなど、すべて「無」となる、と。

 それはギンコに聞いた話じゃない。ギンコはヌシのこととなると、殆ど話してはくれなかったが、化野が勝手に集めて、勝手に読んだ書物の幾つかには、そんなふうに書かれていたのだ。

 何が起こっているのかわかりたくなかった。悪い夢だ、と、そう思いたかった。目が覚めたらそこはいつもの家で、今までと何も変わらず、ギンコが、よう、と、いつも通りに訪れて…。あぁ、そうなら、どんなにか。
 
 その時、誰かがそっと、体に触れたように思った。立ち上がれない化野に手を貸してくれ、人里の方へと背を押してくる。

 そういえば、一夜目の野宿も二夜目の野宿も、導かれる様に大きな木の洞や、風を防げる岩陰に行き着いたのだ。その時にも、背なに触れる手を感じはしなかったか。
 
 化野は思った。これは、ギンコの手に違いない。もしも彼が、この山のヌシだと言うのなら、あの場所に居ながらにして、ギンコは化野を見ているのだろう。危険の及ばないようにし、自分に近付かせないようにし、そして、無事に帰らせようとしているのだ。

 これは、けして夢なんかじゃない、どんなに有り得なく思えても、現実のことだ。元々蟲の関わる世界は、理解の外だったじゃないか。分らないから、馴染めないからと、否定したりなぞしないが、それはこちらから踏み込めない、手出しの出来ない領域だ。

「……じゃあ、ギンコ、俺はどうしたらいいって言うんだ? 分るまで、帰れやせんよ、絶対にだ」

 背を押される気配を無視して、化野はまた山の方を向いた。そうして重たい足を一歩、前へと進める。履いている藁靴に、鉛でも詰まっているような感じがした。たったの一歩が重くて辛い。それでも歯を食いしばって、化野は逆の足も前へ進めた。何かに邪魔されたように、その場で転び、雪の中に突っ伏した。

 這うような格好になったら、今度はどうしても起き上がれない。邪魔されているのを感じたが、それでも彼は進もうとした。

 立ち上がれないなら這ってでも、お前を探す。もう一度お前と会って、納得のいく話をされないうちは、四つん這いでもなんででも、お前の傍に行こうとするのを、俺はやめない。

 例え無理でも、この気持ちは消えないんだ。今のお前は、この山を守るものなのかもしれないが。

 俺は、お前を守るものでありたいんだよ。






 化野が居た場所を、じっと見つめながら、ギンコは思い出していた。あれは、一年以上も前のことになる。

 ギンコは風の噂で、この地のことを聞いたのだ。度々ヌシが不在となる光脈筋。その山の下を流れる光の川は、他と比べてとても深いところを流れている。故に光脈の恩恵を受け難く、ヌシはほんの数年で力尽き、理の声を聞けなくなるというのだ。

 声が聞けなくなれば、役目を果たせないヌシはおそらく、死ぬことになる。

 それでもここはぎりぎり光脈筋だ。ヌシが居ないままと言うわけにはいかない。数年しか保たず、死なせることになるのだとしても、それを繰り返し、ヌシの居ないままの空白を、常に埋め続けなければならない。

 そこがどんな場所か知らない。どんなふうにヌシが死に、どんなふうに次のヌシが生まれるかも、他に例がないため想像のしようもない。それでも足が、緩やかにだけれどそちらへ向いて、いつも通りの旅をしながら、蟲師の仕事をしながらギンコは其処に近付いた。

 何故そこを目指しているのかも、自分で分らないまま、ある秋の終り、この山へと踏み入った。踏み入る時、脚が怖気たのを覚えている。遠目に見ても、山が荒れているのは気付いていた。たった今はヌシが不在なのだと、知識のあるものなら誰でもわかることだったろう。

 そして多分、ギンコは予感すらしていたのだ。ヌシの居ないその山に、彼があえて入ることで、何が起こるか、ということ。蟲の見える彼。ムグラノリの出来る彼。彼は昔、けして許されぬ罪を犯した。その時に理にも触れた。それだけではなく、さらにもう一度、理を乱した。

 自分はどうなってもいい、と、
 本心から思ったのだ。
 最初の時も二度目の時も。
 罪はいつか、償わねばならない。
 二度許されたとしても、
 魂に咎人の印をつけている自分が、
 咎人でなくなったわけではない。 

 強い意志を持ってその山に踏み入るなり、彼の四肢は強張り、呼んでもいないムグラが周囲の土の下で蠢いた。ムグラ達の間から、見覚えのある草が生えて、それが、足首から、じわじわとギンコの体内へ。

 痛みはなかった。でも拒絶するように、吐き気が込み上げた。恐ろしいと、そう思ったのだ。その草に身を許すことが、どういうことなのか分かっていた。

 どん、と心臓を、重たい何かで打たれる様な衝撃が来た。同時に、無数の命を己の身の内に感じたのだ。広い山の隅々まで、手に取るようにわかった。山が荒れていること、山で命の途切れることが、全部、自分の身に起きていることのようだった。

 なんて、重いのだろう、と思った。今にも体が裂けて、皮膚の下をいっぱいに埋めたものが、溢れ出しそうだった。でもそれは。

「一度は…望んだこと、だったしな……」

 ギンコは項垂れて、ぽつりと言った。もう受け入れた。やっと罪を償えることに、安堵しさえした。後戻りはしないし、もう無かったことには出来ないことだ。

 首の後ろから背筋を、背中の中ほどまでも、無数に生えた草が、ざわざわと蠢き、ずるりと伸びた。そうやってヌシの力が動くと、自分の中でヒトの心が薄れるのが分かる。

 思い浮かべていた化野の姿が、幻のように揺らいで朧になって、代わりにこの山の隅々までが、激流のように脳内に押し寄せて、また指先まで彼の中を埋めた。

 西側の川は、倒木で堰き止められている。次の雨が来るまでには、退かさねばならない。南の広葉樹群は、全体に病がつきそうだ。山裾の広野、集まって飢えている鹿の群がいる。北から飛来する渡り鳥は、まだ影も無い。

 あぁ、光脈の力は、相変わらず細くしか届いていないな。ムグラが、俺の体の中で暴れる。「山」と言う、広い広い俺の中で。

 苦しいな、息も、鼓動も。今にも意識が、途切れちまいそうだ。でも…。でも、こんな俺でもこの山のヌシだ。今は俺がいなくちゃ、この山は駄目なんだ。俺が、いなくちゃ。幸せだろう、ギンコ。あぁ、とてつもなく、幸せだよ。

 俺はこうして段々と、
 俺じゃないものになっていく。
 お前のことも、すっかり、
 忘れてしまうんだ。

 化野…。

 でも、嬉しいよ。
 俺の守る山の姿を、
 お前に見せられたことが、
 本当に、嬉しかったよ。

 












 前後編、同時アップになりますので、よろしかったら続きもどうぞv 前半より後半の方が少し短いです。うまく真ん中で分けられなかったのですよ。



17/02/26