さーーーーーー
細かい細かい、まるで氷の粒のような雨の雫が降り頻っている。化野はその音を聞いて、うっすらと目を開けた。傍らに見知らぬ女が居て、すぐに気付いて大声を出した。
「あ、あんたっ、目を…! お前さん、このひと気付いたよ!! 目を覚ましたよ…ッ」
粗末な山小屋のような家だった。体が萎えて起き上がれない化野の面倒を、若い夫婦がみてくれた。最初は重湯を、それから粥を、数日後、やっと声が出せるようになって、問い掛けると、男の方がこう言った。
「あんたは五か月以上も、ずうっと寝てた。医家に見せたら寝ているだけだと言ったが、飲まず食わずでこんなにずっと。どう考えたっておかしい。そう思いながらも、どうすることも出来ず、ただただここに寝かせておいたんだよ。目が覚めてよかった。…あぁ、ここかい? ここはあんたが行き倒れてた山の外れの、山守の家だよ」
そう教えられて、化野は自分のことを思い出す。自分が誰なのか、どうしてこの山で行き倒れていたのかを。
「……ギンコ…、ギンコは…っ!?」
起き上がろうと足をばたつかせるが、とても無理だった。やめさせようとして、男がしっかりと化野の肩を押さえ、布団の上に押しつける。それでも我武者羅に暴れていたら、男はさっきと同じように、淡々と言ったのだ。
「ギンコ、ってのは、もしかして今の山のヌシのことかい? この山のヌシに、ヒトが着いてくれたらしいことは、山守の俺らも知ってる。遠目にだが何度も、美しい白い姿を見たからね」
それを聞いた化野は、暴れるのをぱたりとやめて、真っ直ぐに男の目を見た。そして覗き込むようにしながら、問い掛けた。
「なんで、ギンコが…。ギンコでなきゃ駄目なのか…?」
すると男は、やんわりと首を横に振った。そうじゃない、と言ったのか、わからないという意味なのか、化野には判断がつかない。答えは後者だった。男が自身でそう言った。
「ヌシを選ぶのは、コトワリという存在だと言う。どうやって選ぶかはしらない。うちは代々この山の山守をしているから、ヌシがしょっちゅう変わっていることぐらいは知ってるけどな。
前のヌシは大きくて立派な鷲だった。その前は見事な角を持つ雄鹿だったよ。その前が蜥蜴。その前は狐で、さらにその前は白鷺だったんだ…。ここは特殊な土地らしくて、ヌシは長くても五年もたないようだ。前のヌシが、ヌシを続けられなくなると、数か月以内に次のヌシが選ばれ、ヌシの交代が起こる。
…真っ青だが、あんた、大丈夫かい?」
「…大丈夫だ、続けてくれ。知りたいんだ。知り得ることはすべて」
ドンドン…っ、ドンドンドンっっ。
その時、急に扉が叩かれた。外から声がして、その声は化野の名を呼んでいた。
「先生ぇ、先生ぇっ、ここに居なさるって聞いたんだよ、化野先生ぇ、無事なのか…ッ」
よく知った声だった。里のものたちが、戻らない化野の身を案じて、ここを探し、迎えに来たのだ。何処へ行ったのかは、化野に此処を教えた行商人に聞いたのだと言う。
化野の無事な姿を見て、涙ぐむ顔、顔。懐かしい里人らの顔に、化野は、あぁ…、と思った。半年以上も里を留守にしていた。その上こんな遠くまで、案じて探しに来てくれた。戻らなくてはならない、と、そう思ったのだ。けれど。
ギンコをこの山に置いて?
それは、
諦めると言うことなのか。
「……もう少し、もう少しだけ、待って、くれ」
項垂れて、そのまま深く頭を下げて言った化野。里人がどよめき、それへと返事をする前に、山守の男が静かに口を挟んだ。
「なぁ、化野先生とやら。あんたは五か月もの間眠ったままで、なんで自分が死なず済んだのか、わかっているのかい? 俺が行き倒れたあんたを見つけた時も、いったい何日雪の中でそうしていたものか。あんたが今、こうして生きているのは、ヌシ様があんたを死なせなかったからだよ」
そして、男は立って行き、閉じていた扉を大きく開ける。いつの間にか晴れていた外。春の日の差す山中を、化野の前に開いて見せた。彼は真っ直ぐに腕を伸ばして、遠くに立っている一本の木の、一番高い枝の上を指差したのである。
「ほら、見えるだろ? あれが… 」
化野は目を凝らして、彼の指差す先を見る。眩しい陽光を浴びて、それは其処に居たのだ。臓腑の底の底から、深い息を吐き切って、化野は項垂れ、項垂れたままで、こくり、と頷いた。
「あー、こらこら、走るなっ、転んでまた怪我をするだろう、シュウタっ、ハルっ。あ、ナツヨさんの飲み薬はこっち、朝飯の後にな。あと、フユスケの膏薬はこれだよ。用法はここに書いて置いたから、ちゃんと守ってな」
海里に一人の医家は、今日も朝から忙しい。
気持ちのいい春風が吹いて、何かいいことが起こりそうだと、化野は思っていた。次々訪れた患者やら馴染みの商人やら、おすそ分けを持ってくる里人やらが、ようやく途切れたのは夕方前だったが、まだ、その日の客は残っていた。
いや、それは、客ではなかった。患者でもなかった。
奥の薬棚の前で、化野はせっせと薬の整理をしていた。その手が、理由もないのにぴたりと止まり、彼は大きく開けたままの縁側の方を、振り向きたくて、振り向きたくて、堪らなくなったのだ。
どうしてだろう。
どうしてこんなに、振り向きたいんだろう。
なのにどうして、振り向けないんだろう。
怖くて怖くて、嬉しくて、まだ閉じていない抽斗に片手を置き、さっき閉じた抽斗のとってのあたりを、意味も無くずっと見ているままで、浅い、震えた呼吸をして、ものも言えない唇で、彼は誰かの名を呼びたがっていたのだ。
「………」
足音が聞こえた。木の箱の中で、瓶やら何かやらが、コトコト、ガタガタ鳴る音もしていた。後ろを向いたままだから、そんなこと見えやしないのに、潮を含んだ風に、きっと揺れているだろう髪を思った。夕の色に少し染まった、彼のいつもの服を思った。
短い息遣いが、とうとう聞こえた。もしも空耳だったなら、きっと落胆で心臓が潰れるだろう。けれど、声も、聞こえてきた。
「よう」
と、何でもないような声だった。聞き間違いで、それが望みの相手のものじゃなかったら、二度と息をすることも出来なくなりそうだった。まだ、化野は振り向けない。ごとり、と重たげな木の箱が縁側に置かれただろう音がしたのに、まだ振り向くのが怖い。
「暫くぶり」
などと言う声がまた聞こえた。
「…なぁ、いい加減こっち向けよ、化野」
そう言われて、化野はやっと振り向いた。太陽を直接見たように、眩しいと思った。そして何処か、神々しさまで一瞬感じたのだ。それはあの日、山守が指差した先の木の枝の上に、立派な、年老いた、一羽の鷲を見た時の気持ちに似ていた。
ほら、見えるだろ? あれが…
あの時聞いた、山守の声が胸の奥で蘇って、化野は嗚咽する。
あれが、前のヌシだよ。
この山のヌシは、長くとも五年以上はヌシを続けられない。山の声が聞こえなくなったヌシの体から、ヌシの力と共に草は抜け落ち、その力と草はこの山の土に還る。そして次のヌシがまたそれを体に受け入れて、やれる限りの間ヌシをする。そうやって続いていくんだよ。ただの山守の俺でも、知っていることだ。
だから…。
だから、俺の大事なギンコも、きっと数年後には任を解かれて「この世」に戻ってくるのだ。俺のいる此処に、戻ってくると、信じて待てる。
「ギ…ン…っ」
「あぁ、みっともねぇなぁ、なんだよその顔。ちょっと長いこと、来なかっただけじゃねぇか」
化野は、やっとの思いで声を出した。そして必死になって顔を拭い、普通を装い、何も無かったような声でギンコに聞いた。
「…大変だったんだろう? 仕事。少し、痩せた、な…?」
「あぁ…まぁ、ちっとな。でも」
「…でも?」
ギンコは縁側のいつもの場所に、いつものように背を向けて座って、首の後ろを掻いて、こう言ったのである。
「でも、なんだかちょっとばかり、軽くなった気がするんだよ。ずっと背負ってきた荷物が、な」
まるで、一瞬だけ見た幻のように、あの日のギンコの姿が、化野の脳裏をよぎった。そういえば、酷く美しかった。目の潰れそうなほどに美しくて、あの時、目どころか、魂ごと化野は眩んだのだ。
でも、もう二度と、見たくない。
「…ギンコ」
「んー?」
「お前はまったく、いつもいきなり来るから、夕餉はろくなもん出せないぞ。飯と、昨日の残り物の汁と、沢庵と、あと俺が朝半分喰った焼き魚とかな」
まだ少し震えているその声を聞き、ギンコは笑っている。
「いいねぇ」
ヌシの役目を終えたとして、その後も生きられるとは思わなかった。すっかり諦めたここへ、また生きて来ることが出来た。この男の顔が見られた。そのことだけで、今は苦しいほどに満たされて。
「充分過ぎるほどだよ」
そう言った。
終
読んで下さいまして、ありがとうございます。今月の頭あたりからネタを決めてあって、すぐに取り掛かればいいものを、まだまだ時間あるしー、と余裕をこいていたらギリギリになりました。学習しないですね、私(T T)
けれど、お話はとてもお気に入りのものとなりましたので、これにて「LEAVES」11周年の記念のノベルと致します。皆さまのお蔭でここまで続けてきたこのサイト、これからも皆様に支えられて続けていけたらと思っていますので、どうぞよろしくお願いします。ふかぶかと礼。
17/02/26 LEAVES 11周年