冴ゆる花 … 9





 ギンコはよく、空を眺めている。里を離れ山中に入る前、これから夕暮れという時や、夜明けに宿を出る時にも。雨が降ると予想がつく時はけして無理をしない。空気が湿っている時、渡り鳥が飛び立たず木に宿っている時も。

 ある日彼は峠の手前に足を止め、暫し難しい顔をして地図を眺めていた。

「迷っているのか?」

 化野が傍らで問うも、ギンコは顔すら上げず返事もしない。宿で貰ったばかりの、まだ温度の残る茶を差し出すと、短く息を吐いてやっと言った。

「少し、読み間違っちまったらしくてな。…留まるのも、先へ行くのも同じだけ不安がある。戻るには時刻が悪い。宿につく前に夜になる。ここらへんは山犬が出るんだ。…出来れば、先へ進みたいが」
「荒れる、ということか?」

 化野にはよくわからないのだが、それでも空を仰ぎ見てみる。まだ夕にもならぬ時間だし、風はなく青空だ。

「化野」
「なんだ?」
「右目、暗いと余計見えないだろう」
「…意識したことはなかったが、そうかもしれない。だが、動くのに支障があったことはないよ、ギンコ」

 返事をしながら、胸の奥からふつふつと嬉しくなる。前に一度言っただけのことを、覚えていてくれたことに。だけれどその喜びの後ろから、別の揺らぎがちらちらと顔を出した。

 覚えていてくれた、ではなく、
 元々知っていたのかもしれない。
 いつまでもずっと、ギンコは俺に、
 本当のことを秘めている。
 少なくとも俺には、そう思える。
 
「俺は、早く先へ行きたいよ」
「……そうかい」

 ギンコは地図をしまって、やっと歩き出した。化野もその背中についていった。峠を越えて下り道を暫く行った頃、化野にもギンコの危惧の意味が分かった。

 たった今越えてきた山の方から。つまりは後ろから、足の速い雲が追い掛けて来ていたのだ。雲はみるみる大きくなり、夕色に変わりつつあった空を驚くほどの濃さで黒く覆っていった。そして聞こえてくる、遠雷。

「思ったより速かったな」

 進みを止めることなく、ギンコが言った。そして歩いている道を、うっかりすれば見落とすほどの細い道の方へと逸れた。

「随分、険しいが」

 少し行くと、進んでいる道の右も左も、急な斜面の悪路になった。細い木が茂っているけれども、仮に足を滑らせた時、それが何になるだろう。酷く不安になり化野が聞くと、ギンコは斜面の上の方を見て答える。

「すまんな。だが、この道を四半刻ほど行けば洞窟がある。其処で雨をやり過ごすしかない」
「そうか。でも、詫びられることじゃないよ」
「…恐らくもう、雨に追い付かれるだろうが、そうなったら木の根をなるべく踏まないでくれ。泥を踏むよりも遥かに滑る」
「わかった、気を付けよう」

 言い終えるか終えないかのうちに雨が来た。粒の大きい冷たい雨だった。地面は濡れて色が濃くなり、ギンコの言う木の根が良く見えない。その上、体が濡れれば濡れるほど、寒さは倍増しになっていく。

 そのあと、暫し何も言われなくて、続いている風の音が、ギンコの声を掻き消しているように思えた。まるで悪いものが憑いたかのように、化野は不安になった。根拠なく、今に彼を見失いそうだと思う。

「ギンコ」
「…どうした?」
「どうも、しない。が、そろそろ、言ってくれないか」
「何をだい?」

 足を止めぬまま、背中を向けたままで返される言葉。化野は自分の足元から目を離し、ギンコの姿を見詰めて聞いた。

「…俺を、探しに来たんだろう…? 誰かに頼まれてかどうか知らないが。それでもギンコは俺と、初対面なんかじゃない」
「逆に俺があんたに聞きたいよ。いったいどうして、そう思うんだ?」
「分からないが、そう思えるんだ。そうだったら、と」
「……」

 ギンコはまた返事をしない。何も言わずに足を止め、振り向いて手を差し出した。

「ぬかるんでるし、木の根が多い。化野、手を」

 その手に手を、化野が差し出した、その時だった。ギンコのすぐ後ろに、激しい光の柱が立ったのだ。白い光だった。耳を割くような音と共に、光はギンコのすぐ後ろを、真っ白く焼き切るように掻き消していた。

 落雷。

 化野は、雷が落ちたのだなどと、意識することも出来なかった。地面についていた両足とも、無意識に力が入って、ずるり、後ろへとずれる。恐れが彼に、逃げを打たせた。

「化野…ッ!」

 真後ろではなく斜めに、化野の体は傾く。届いていなかった彼の手へと、ギンコは必死で手を伸ばし、捕まえ、そのまま彼自身も地面に体を投げ出した。無数の細かい枝の折れる音が、二人の体の下から聞こえた。

「ぎ、ぎ…ん…。後ろ…ッ」

 雷の落ちた木が、縦に真っ二つに裂けたまま倒れてくる。枯れた枝先には炎も見えていた。

 ばきばきばき…っ。
 どおぉ…ん…ッ。

 他の木を薙ぎ倒しながらその木は倒れ、地面が激しく震える。化野の位置からは、その木がギンコの上に倒れてくるように見えていた。

「ギンコ…っ、ギンコ…ッッ」
「……大丈夫だ、下敷きになってやしねぇ。それより…っ」

 伏していたギンコが顔を上げて、化野の顔を見る。化野の体は今にも、濡れた急斜面を滑り落ちそうになっていた。

「手」
「……」
「離せ、なんて。もし今、俺にまで言ったら、金輪際許さねぇ…」
「ギ…」

 薄暗い中で、ギンコの手は濡れていた。濃く血の匂いがして、ぬるついているのが雨や泥や、汗ではないことが化野には分かった。

「怪我、を…」
「そうらしい。そう大したこっちゃ、ねぇさ」
「でも」
「でもじゃねえよ…ッ」

 叫んだギンコの顔は間近で、暗くとも化野には見えている。泣いたような顔。懇願するような目で、ギンコは彼を見ていた。

「生きると言え」
「……ギンコ」
「聞いてんのかっ? 生きると言え!」
「生きる。…あぁ、生きるよ。どうしたら、いい?」

 ふーーーー、と、ギンコは長く息を吐いて、一度目を閉じた。それから目を開くと、自分たちの周りをそろりと見回す。雨は続いている。すぐ後ろに倒れた木の枝の火は、もう消えていた。そして彼は言うのだ。

「化野。左手はどうともないか?」
「あ、あぁ」
「なら、左見ろ。ゆっくりだ。笹が生えてるのが分かるか? 左手でそれを掴んで引いてみてくれ。抜けて来ないようなら、それがお前の命綱だ」
「辛うじて、見える。多分。あぁ、掴んだ。大丈夫そうだよ」

 化野はギンコの指示に従い、一塊の笹の茎をしっかりと握った。地下茎で繋がっている笹は抜けにくく、細くとも案外丈夫だ。掴んで、それへと体の重みを少しずつ預け、安定したところで今度は足をかけるところを探す。右足から、次に左足も。

 それから化野はギンコの顔を見ながら、彼に握られていた手を、やっと離す。完全に離れた途端、ギンコは酷く顔を歪めたのだ。激しい痛みを耐えるように。そして、粗い息遣いが聞こえた。

「ギンコ」
「……んん?」
「怪我をしたのは、腕か?」

 化野はギンコに聞いた。静かに、けれども強い声。

「教えろ」
「怖い目だな、医家先生」
「いいから言え」
「肘の内側。折れた枝がかすめただけだ。大して深かねぇ、ちゃんと指も動くしな。なぁ、ちっと目ぇ、つぶらねぇか、化野」
 
 言われて、化野はゆっくりと首を横に振った。視線は一瞬も離れない。ギンコは諦めたように少し笑って、そのあと顔をぎゅっと歪め、一度だけ低く、呻いた。

「うぅ…ッ!」

 血の匂いが濃くなった。かすめただけなんてのは嘘だった。刺さったままだった枝を、たった今ギンコは、己の腕から抜いたのだ。浅い息を吐いて、ギンコはゆっくり体を縮込める。疲れた横顔が、化野の目の前にあった。

「もう動くな、ギンコ」
「馬鹿、お前こそ動くな、滑り落ちたらどうするっ」
「落ちないように這い上がる。目が慣れてきたら笹があちこち見えてきた。俺は大丈夫だよ、ギンコ」

 左右が滑る斜面の、細い道の上で、化野は自力で這い上がった。そしてギンコの体の上に覆いかぶさるようにして、彼の服の上から腕の止血をした。

「…よくもあんな急場で、木箱を放り出したもんだ」
「あぁ、まぁ、身に沁みついてんのさ、重てぇから、背負ったまま落ちたら重石になって止まらない。下敷きになったら骨が数本余計に折れちまうしなぁ」

 まるで、経験したようなことを言う。

「危うく倒木に、潰されるとこだったけどな」

 はは、とギンコは笑うのだ。笑う余裕に閉口しながら、化野はギンコの腕を撫でた。消毒する薬品は少量あるが、今はそれを取り出すことも、ちゃんと患部を診ることすらも出来ない。雨は上がっているし、雲の切れ間には星まで見えて、それを幸いとするしかなかった。

「落ちなくてよかったし、今命があるのも奇跡みたいなもんだが、寒いだろう? ギンコ。あれだけ出血してりゃ、余計に」
「多少な。仕方ない、とっておきを使うか」
「とっておきって?」

 二人支え合いながら少し斜面を登ると、少しは広いところへ出た。化野が持ってくれた木箱の蓋を開け、ギンコは大きい抽斗の中から布を取り出す。風を避けるように木の根方へ座り、二人でその布を被った後、ギンコは何かを、化野の膝の上に置く仕草をした。

「なんだ? 温かい、ような…」
「たまかさね、って言ってな。これは死んだ獣の温もりを取っておいたもんだ。食うためとか売るために、兎二匹と、仔鹿一頭、雉が一羽、だったかな。お前にゃ見えんものだが、俺には丸い形の光に見えてる。感謝してぬくもりに預かってくれ」

 そう言われて、化野は目を閉じた。疑う気持ちになど少しもならない。視覚を塞ぐと、不思議とそれが見える気がした。淡い橙色の光の塊、仔兎の、丸い背中のような形の。だんだんと温もりは増してくる。ギンコと触れ合っている部分も、暖かくなった。

「あぁ、あたたかいなぁ、あたたかい…」

 どうしてか、ほろりと一粒、頬に涙が伝った。温もり以外の何かが、胸に満ちていた。










 
 
 ちょっとお話を先へ進めることが出来ました。さすがにね、案外嘘の巧いギンコも、彼の命にかかわる場面では素が出ます。こうなってしまったことへの罪悪感もある。次回がけっこう楽しみですっ。もうねー、何話目で終わるかなんて、もう考えてないっすよー。
 
 
2022.05.15