冴ゆる花 … 10




 パチ、パチ、と火が爆ぜる音を聞いて、化野は目を覚ました。熱いと思うほどすぐ近く、目の前で炎が燃えている。

「うぅ」

 木の幹を背に、座ったままで寝ていたから体が痛む。だけれど焚火の炎のお陰か、雨に濡れていた服は随分乾いていた。そういえば、膝の上で抱いていた温もりが消えている。ギンコは立って、化野に斜めに背を向ける格好で遠くを見ていた。

「ギンコ、夕べの」
「たまかさね、かい? もう消えた」
「消え…」

 その途端、背筋が少し冷えた気がした。消えたというのはどういう意味なのだろう。けれどもギンコは、問い掛ける間を与えてはくれなかった。

「腹も減っているかもしれんが、生憎食うもんも底をついてる。少し先を急ぎたい。発てるか?」
「その前にお前の怪我を」
「自分で対処したよ。俺はずっと一人旅だからな、医家紛いぐらいのことは出来る」
「…そうか」

 焚火に濡れた朽ち葉を被せ、念入りに踏み消してから、二人はまた歩き始める。元の道に戻るのかと思っていたがそうではなく、洞窟を目指して登った道なりを、急ぎ足で先へと進んだ。

「ギンコ」
「…なんだい?」
「本当に、怪我は大丈夫なのか…?」

 背を見て追い掛けながら化野が問うと、逆に問い掛けられた。

「しつこいな。お前こそ、何処か傷めちゃいないか?」
「俺は大丈夫だよ。それよりそっちの怪我が気になる。近くの里に寄って、ちゃんと手当てをし直した方がいい。あれほどの出血だ。応急手当だけというわけにいかない」

 化野が重ねて言っても、ギンコは足を止めずに歩き続けるのだ。ただ、彼はこう言った。

「里なら、近いよ」
「そうか。じゃあひとまず其処へ」
「それより先に行くところがある」

 手当てより大事だというのか? と、化野は聞こうとしていたのだ。けれどもその言葉は声になる前に喉奥に消えた。登り続けた斜面が急に緩くなり、その向こうに、空の色とは違う青が見えたのだ。

「…海だ」

 風に混じった潮の香が、化野を包んでいた。初冬の海はあざやかに濃い青ではなく、けれども確かに、海の青だった。何故こんなにも、心が騒ぐのだろう。

「海…」

 緩やかに弧を描く湾、広くは無いが淡い砂色をした浜辺。ぽつんぽつんと見える岩に、小舟が数艘寄せられて。山の上から見ても、なんとかそれが分かるほどの距離しかない。

「舟。そうか、里があるのか。なら行こう」
「…見覚えは、ないんだろうな?」

 静かな声でそう聞かれて、化野は、はっとするのだ。見覚えは無い。無いが、そう問われたということが、胸をひたひたと濡らしていく。ギンコは今にも消えそうなかすれた声で、言ったのである。

「あれが、お前の居た里だよ」
「……」

 長いこと、化野はその美しい湾を見て、湾に添うように寄せる白波を見て、木の葉のよりも小さく見える小舟の数艘を見て、そして、耳にギンコの声を聞いた。それは謝罪の言葉だった。

「悪かった」
「…え…?」
「悪かった、化野。俺は俺の身勝手で、危うくお前を、死なせるところだった」

 言われた意味がすぐには分からなかった。遅れて思い至ったのは、足を滑らせて斜面を落ちかけたことだったが、酷い怪我をしてまで助けてくれたギンコが、自分に詫びを言うのはおかしいと思った。

「何を言ってるんだ? あの時、ギンコが手を掴んでくれたから助かったんだぞ。一緒に落ちる可能性だってあったのに、お前は助けてくれた。なのに、なんでそんな」
「違う、俺が悪いんだ」

 海のある方向を背に、ギンコは化野の方を向いている。そして彼は何かを握った手を、静かに化野へと差し出した。訳も分からず、化野はギンコからそれを受け取ったのだ。

「…お前のものだ。少なくとも、あんな危険な場所を歩く前に、渡しておくべきだった」

 熱いほどの温もりが移ったそれは、小さな丸い硝子。それが何なのか分からず、首を傾げる化野の手から、ギンコはそれをもう一度取って、化野の目元へ近付けた。

「こうするんだ。ほら、よく見えるだろ…?」
「……あぁ」

 いつも、いつも、いつも。視野の片側がおぼろに霞んで、少しでも無理をすると痛んだ目。夜ともなるとものを手に取るのにも難儀をした、片方だけ視力の弱い化野。ギンコから渡されたそれは、そんな化野の視野を一変させた。

「見える。驚いた、こんなに見えるもんなんだな、見えすぎて、落ち着かないぐらいだ。これが、俺の…?」
「あぁ、そうだ。お前のものだ」

 その、よく見える視野で、ギンコは月の表のように青ざめている。

「言いたいことがあるだろう? 聞きたいことも。言っていいぜ」
「…あるさ、沢山、ある。隠さず答えてくれるのか?」
「これは、お前の命を危険に曝した、俺への罰なんだろう。そうでなくとも、夕べ下手を打っちまった。聞かなくても、もう分かったろ。お前は案外、聡いからな」

 斜面を今にも、落ちて行きそうな化野に、ギンコはあの時、言ったのだ。数年前の冬、彼が崖から落ちた時のことを、よく知っているからこその言葉だ。

 離せ、なんて。もし今、俺にまで言ったら

 あの時、自分の命を軽く投げ出すように、片手で化野を支え、酷い怪我までして。それに、たった今も。

 お前は案外、聡いから

 あぁ、ほら。まただ。そう、化野は思っていた。お前は、また、そんなふうに。俺をよく知っているような口をきく。

 ギンコの後ろ、その遥か遠くに海が見え、里がそこにある証のように、砂浜には小舟が見える。弧を描いて寄せていく波の、繰り返すことを幾つか眺めて、それから化野はギンコに幾つもの問いを放った。どれも短い言葉だったが、ギンコはすべてに答えをくれた。


 俺を、知っているんだな。

    あぁ。

 俺の居た里のことも。

    知ってるよ。

 知人、だったのか?

    知人というより、友だ。

 俺を、ずっと、探していたのか。

    …あぁ。

 ずっと? 二年も?

    ……。

 ギンコ…?


 不意に黙り込んで、ギンコは顔を隠すように、深く項垂れた。彼は自分の言葉を、自分で聞きたくなかったのかもしれない。本心に慄くように、その声は震えていた。

「……お前が死んだと、思いたくなかった…」
「酷い男だな…」

 と、化野は言った。泣き笑いのような顔を、彼はしていた。そんな想いをこれまですっかり隠し通していたなんて。

 化野は夕べの雨にも雷にも、感謝したいぐらいだった。滑る地面や、難儀な木の根にすら、感謝したかった。それらが彼にギンコのことを、教えてくれように思うからだ。 

「もうひとつだけ教えてくれ、ギンコ」

 化野はそう言って、ギンコの腕を掴む。万が一にも逃がさないように、強く掴んだまま問い掛けたのだ。でもきっと、答えて貰えないと分かっていた。

「何故、隠した?」
「…さぁ、な」

 ギンコは唇を歪めるように微かに笑って、強い力で化野の手を、自分の腕から剥がした。そして彼は化野に背を向けて、遠くに見える浜とは、違う方角に歩き出したのだ。

「お前はお前の里に帰りたいだろうが、もう一つ、行きたい場所があったろう? あの時の蟲が居る場所も、ここからすぐだ。まずそっちへ行こう。丁度、雪が降ってきたしな」

 ギンコの言う通り、空の高いところから、ちらちらと雪が舞い落ちてきていた。妙に胸が騒いだけれど、化野はギンコの背中を黙って追い掛ける。

 あの花を見るよりも、蟲に会うことよりも、もっとずっと大切な想いが、彼を突き動かしていた。


 少しでもギンコと居たい。
 もう彼と、離れたくなかった。 

 










 やっとラストが見えてきたような見えていないような、見えたと見せかけてまた見失いそうな気がします。逃げないでくれぇぇ。あぁ、眼鏡を新調しようかな(視力の問題ではないのである)。



2022.06.05