冴ゆる花 … 8




 共に歩き始めてから、半日が過ぎた。少し遅れ始めた化野を、ちらと見て一度足を止めると、ギンコは彼が追いついてくるのを待って、短く溜息をつく。

「案外ついてくるな」

 そう言われた化野は、幾分乱れた息の合間に、にや、と笑って見せた。

「二日に一度は、山野を、歩いていたんだ。時間を貰って、あえてきつい行程で薬草をな。滅多に人の入らないとこへ、入るので、珍しい山野草も見られて、いい薬の材料も」

 はぁ、とやっと少し息が落ち着いたところで、ギンコはまた歩き始める。化野は文句のひとつも言わずにまたついていった。それでも、加減してくれているのだということも分かっていた。日が沈み足元が見え難くなる前に、ギンコは峠手前の宿屋に入ろうとする。

「野宿かと思っていた」

 化野が意外そうに言うと、ギンコは軽く振り向いて言う。

「そうしたいがな。初冬とは言え雪もちらついてるんだぜ? 俺は良くても、あんたの体がどうかなるだろ」

 化野はギンコに従い、雑魚寝の安宿に逗留することになった。宿は空いていて、雑魚寝と言えども、四、五人しか客が居ない。入り口から離れた角の方に陣取り、宿賃に含まれるらしい握り飯と茶をそれぞれ口にした。

「美味いな」

 化野は言って、茶のお代わりを入れてくれる宿の娘に、にこりと笑って語り掛ける。

「ここいらで一番近い海と言ったら、どのぐらい離れてるんだい?」

 娘はだいたいで答えてくれたが、後でギンコが何でもないことのように言ったのだ。

「さっき聞いてた話より、今向かっている方角の方が目的の海に早く出られる。そっちは栄えた街が無くて行き来するものも居ないから、宿の娘はよく知らないんだろう」
「そうか」
「冬に強風が吹くのは山の北側。あんたの見た花は、冷たい風の吹く海辺を好む。身重の女と共に旅をしたのなら、それほど険しい道とは思わないが、もしもあんたが海に落ちたとするなら」

 伏し目がちで話すギンコの顔を、化野はじっと見ている。彼はギンコの言葉を遮らず、ずっと聞いていようとしたが、ギンコは途中で何かに気付いたように口を噤んだ。

「…油断も隙もねえな、あんた」
「何の話だ?」
「俺の行く方角にずっと口を出さない。聞くこともしない。そうやって、俺が何かを知っていることを見通す気なんだろう、性質が悪い」

 短く溜息をついて、化野は少し笑った。

「誤解だ。と言っても信じないだろうな。ギンコさんは」

 ギンコは化野の方を見ずに言う。

「……ギンコでいい。堅苦しいのは苦手だ」
「わかった、ギンコ」
「見な。向こうの端で荷を広げてる男がいるだろ? あそこへ行って、上着を一枚買って来なよ。そのなりじゃ朝晩は凍える。金、持ってるんだろ。代金の話になったら、それとなく一度俺の方を見ろ。足元を見られず済む」

 上着が必要なのは分かったが、唐突に買い物をしろと言われて、化野は少し躊躇った。ずっと貯めてきて今携えている金は、ギンコに支払う金のつもりだったからだ。ここまで一度も、そういう話が出ないのも気になっていた。

「ギンコにまだ金を払ってない。支払って、その残りで上着が買えるのならいいが、この先の旅の費用も…」
「いいから買ってこい。古着を求めれば大した値はしない。俺へは…。そうだな、件の白い花を無事に見られたあとにでも、支払って貰うさ」

 そして夜、薄いかけ布二枚を宿から借りて、ギンコと化野は隣り合って横になる。大部屋の他の旅人が寝入った後、中々寝付けずにいた化野は、同じく眠らずにいるギンコに問いかけた。

「……ギンコは記憶を取り戻したいと、思ったりはしないのか…?」
「ガキの頃のことだからな。なんとか生きていくだけで精一杯だった。それに、多分俺のは、そんないいもんじゃない」
「そうかね」

 ほら。

 ギンコの背中を見ながら、化野はそっと目を細める。俺がこんなに焦がれている過去を、彼はやっぱり知っているのだ。ギンコは今までに何度も、そう取れることを言っている。彼の姿はきっと、自分がかつて居た『そこ』にあったんだ。どうしたらそのことを、俺に話してくれるだろう。
 
 俺が欲しいもの。
 俺が何より取り戻したいものは、
 彼の中に、ある。

 向けられている背中に、化野は手を伸ばしかけた。でも触れる寸前でその手を引っ込める。猫のように体を丸めて、化野は眠った。目覚めたら忘れてしまう夢の中でいいから、過去の自分と、過去の彼が、傍らにあって欲しかった。

 化野は寝返りを打ち、ギンコに背中を向ける。そんな時、ギンコはじっと息を詰めていた。彼が自分に触れようとしたことも、気付いていたのだ。化野が傍にいることが、胸にずっと沁みてたまらない。何年も生死すらわからず、それでも一度も諦められなかったことが、寄せ波のようにギンコの心を揺するのだ。

 あぁ。
 生きて、話して、此処に居る。
 なんという奇跡だろう。
 なんという、幸いだろう。

 早く眠ってしまってくれ、
 俺の息が震えないうちに。

 少し後、化野の寝息が聞こえると、ギンコは身を起こして、彼の寝顔を眺めた。疲れた姿が気になって、自分の分のかけ布も掛けてやりたい気持ちになったが、そんなわけにはいかなかった。
 



 道中、化野はよく、山中に寄り道をする。

 勿論ギンコに許可を得てからのことだが、こまめに薬草を摘んでいるのだ。そして宿に泊まる時にはその薬草に簡単に手を加えて薬にする。葉を揉むとか、茎を磨り潰す程度のことしかできないけれども、最初からそういうやり方でこと足りる薬草を集めているようだった。
 
 それから移動の途中の道端で、通りすがりのものに薬を売った。何気なく話しかけて、体調を聞き出したり、手持ちの薬の有る無しを聞いては売るのだ。うまいものだとギンコは思っていた。そうやって彼はちゃんと、自分の分の旅費を工面している。

 そんなある日、化野がじっと何かを見つめ続けているのにギンコは気付いた。視線の先には、母子で旅をしているらしい二人連れが居る。子供はまだ小さかった。

「…気になるか」

 ギンコがそう言って、化野は苦いような顔で微かに笑う。

「あぁ…。今更だが、どうしているかと、時々思う」

 勿論それは、フチとシオのことだろう。少し、ひとり言を言う、と化野は呟いた。

「…もっと、縋られるかと思っていたんだ。でも、そうじゃなかったよ。俺は案外うぬぼれ屋だったらしい。生まれてからずっと傍に居たのに、シオは俺を父親だとも思ってなかったようでな。そっけないもんだった。フチも、俺を引き留めなかった」

 するとギンコは、煙草の煙を濃く吐いて言ったのだ。化野の眼差しが、その白く動く形を見ていた。

「ずっとだとは、思ってなかったんじゃないのかい? 子供があんたを慕えば慕うほど、その子自身も女も辛くなる。いずれ別れの来た時、せめて子供が悲しまないように、女は子供に、あんたのことを父と呼ばせなかった」

 化野がゆっくりとギンコの顔を見た。少なからず驚いたようだった。

「見ていたように言うんだな」
「見てきたんだ。あのままあんたが居るとは思わなかったが、それでも一応寄った。道に迷ったふりをしてな。親切にしてもらったよ」
「…元気に、していたか?」
「あぁ」

 本当の妻ではない女のこと、自分の子ではない子供のことを、化野は短い言葉で案じる。ギンコは推測でしかないことを、殆ど確信しているように告げてやった。遠く外れているとは思わない。彼は化野のことを、本当は知っているのだから。

「あんたがあの女に、どんなふうに話をしたのか分かる気がするよ。あんたがずっと傍に居たこと。そしてとうとう去っていくのが、自分の顔のせいじゃなかったってことが、彼女にとってはきっと大きいんだ。…推測でしかないがね」

 不幸なこと、辛いことは何もかも、自分の見目が理由で起こる。これからもずっとそうなのだと思っていただろう彼女にとって、化野との日々も別れも、初めてのことだった。会えてよかったと、きっといつか心から思うだろう。化野が彼女の元に戻るとしても、二度と戻らないとしても。

「ありがとう」

 と、化野は前を向いて呟いた。彼の視線の先に、旅の母子はもう居ない。ギンコは礼など聞いていない様で、前置きも無く歩き出すものだから、化野は随分焦って、広げていた薬を片付けて追い掛ける。

「まだ海には遠いのか、ギンコ」
「まだまだ先さ。そんなに海が見たいのかい」
「見たい。ずっと見ていないんだ。ギンコは?」

 歩きながら器用に煙草に火をつけて、それをギンコは深く吸い込む。

「俺は、見たばかりだよ」












 無欲の人間はいない。 人が人を思う心も、欲なのだと私は思う。だけれど、もう充分だと思うヒトはいるかもしれないよね。でもそれが本当の本心なのかと言ったら、そうじゃない場合が殆どなんじゃないかな。一度は手にした大切なものを手放すことも、この先それ無しで生きることも、きっと淋しくて切ない。

 そういう気持ちを、書けばいいだけなんだけどっ、それがどうしてもうまくいかなくてですねっ。えぇ…。実はこの8話目、凄い難産でした。なんでなん…。しっかりしろ自分! てなってます。書きたいシーンがこの先色々あるので、テンション上げてやるしかないですねっ。

 ガンバリマスー。


2022.05.10