冴ゆる花 … 7
家を出て、一夜が明けた朝である。
化野は広い街道の道の端に座って、右へ左へと行き交う旅人を見ている。半日も居れば、辛そうに歩くもの、足を引きずっているもの、顔色の悪いものがいくらも目に入った。彼はそれへとさり気なく近付いて、煩くない程度の助言をする。
足をくじいているものには、今使っていない風呂敷などを出させ、それでもって患部が痛まないように、これ以上悪くならないように強めに巻いてやった。
腰痛に苦しむものには、楽な歩き方を教えてやったし、疲労しているらしきものには自身の名を教えてやり、顔なじみの茶屋の奥で休ませて貰えるからと言ったりした。
柔らかな物腰と親切な物言い、裏などなにひとつ感じない笑顔に、旅人は皆彼に感謝をし、せめてと小銭を渡して来たり、手持ちの物を何かくれたりするのだった。化野は小腹が空いても何か買おうとせず、貰った食べ物も食べず、さらにそこで旅人を診続ける。
空腹でしんどそうなものがいれば、貰った食べ物を渡して感謝され、疲れているものが居れば、暫し荷を持って一緒に歩いたりもした。そうして夜になると、寝るのは木陰で丸くなって、体を覆うものも無く寒さを耐えて眠った。
次の日は手元に残ったお礼の品を売り、得た金でもって、流しの薬屋から薬包紙や薬の材料を買い、古い薬研も買い取った。その次の日は、煎じずとも使える薬草を山の中で何種か摘んで、また道行くものを診る医家をした。その日の夜には襤褸だが古着が買えて、野宿も楽になったし、粗末でもちゃんと食べ物も食べた。
雨の日は茶屋の物置で寝させて貰うこともあり、自分が声をかけた旅人を休ませてくれたことへの礼も言う。茶屋の女は、暫く逡巡したあと、こんなふうに言うのだ。
「聞いていいか分かんないけど、どしたの、一体? 家に帰ってないんだろ? フチさんは? シオちゃんは? 夫婦喧嘩でもして、ほとぼり冷ましているのかい?」
「まぁ、そんなところだよ、女将。俺が悪いから、仕方ないんだ」
「そうなのかい? そしたらさ、もしもここへ探しに来たら、旦那さん反省してるみたいだよって、言っておくからねえ」
化野は曖昧に笑い口の中だけで、来ないと思う、と呟いた。
「女将」
「んん? なんでもお言いよ。あんたのお陰で、此処へ寄ってくれる客が随分増えてる、助かってるんだよ、ほんと」
「フチは本当は、人に見えてる以上にしっかりしているし、強い女なんだ。手先も器用で料理も美味い、繕いものだってなんだって手際よく出来る。ただ、人前に出るのが辛いと思い込んでしまっているんだ、それだけなんだ」
女将は前掛けで手を拭きながら、うん、うん、と頷いている。
「…わかる気がするよ。あたしだってこの商売長いからねえ。男だろうと女だろうと、人とは見目の違うものは少なくない。それでも誰もが逃げ暮らしてやいないよ。フチさんも、変われりゃいいね…いつかさ」
半月が過ぎた頃、化野は今まで居座っていた街道を、山裾へと下りる方へと歩き始めた。分かれ道で幾度か迷いつつ、それでも半日と少しで、街へと抜ける。そして、前に聞いて覚えていた店を目指した。
「ソウ太さんは、今、居るだろうか」
無精ひげを生やした顔で、少々小汚いなりで、彼はそう言った。ちょっと見ればいい男ぶりだと分かる彼を、アユは二つ返事で招き入れ、手布を熱い湯で絞って渡してやり、薬茶も出した。彼女の見ている前で化野は顔を拭き、着ているものを整えて、きちんと座り直して、こう言ったのだ。
「化野と言います。ソウ太さんを通して、この店にはずっと世話に」
「やっぱりかい! そうだと思ったっ。ソウ太っ、ソウ太っっ、早く戻っといでったら!!」
店先から顔を出すなり、アユは大声を張り上げる。数軒先で油を売っていたソウ太が、何事かと突っ走って戻ってきて、化野の姿を見るなり、顎が外れそうな顔をした。
「おっ、おっ、おまっ、あんた! いったい今まで何処にっっ?! オキさんが二度も探しに来てたんだよ、フチさんと子供も一度、連れて来てたんだっ」
頭の上から大声を浴びて、それでも化野は落ち着いていた。
「あぁ、街道で拾い仕事しながら、オキさんの姿は見掛けた。フチやシオが一緒に居たこともあった。そのたび、人の波に隠れたよ。でも、フチは俺を探しているとは言わなかったろう…? シオも俺を恋しがったりしない。…違うかい?」
ソウ太は何かを言おうとしていたが、化野の言葉を聞いて、全身から力を抜いた。
「…千里眼かよ。なんでそんな見てたみたいに分かるんだ? けどオキさんは、戻って欲しいと言ってたよ。とにかく話をしたいって。いや、あんた、それとさ。あの人、ギンコさんと約束してたんじゃないのか? あの家で待ってなくていいのかい?」
問えば化野は妙に真っ直ぐな目をして、小窓の向こうの青空を眺め見る。何も怖くないような目だとソウ太は思い、もうとやかく言うのを諦めた。
結局は人の人生だ。オキにもフチとシオにも、この化野にも、他人の自分から何かを言って、生き方を変えさせることは出来ない。他人以上であれば、また違うのだろうけれど。不思議とギンコの静かな顔が浮かんだ。此処に居る化野と彼とは、本当はどんな間柄なのだろうかと、問うに問えないことを思う。
思い出せねえんだもんな。
そんなもんはさ、
あんたが一番知りたいんだろうよ。
「で、これからどうする気なんだい、化野さん」
問えることを代わりに聞けば、化野はソウ太とアユの顔をしっかりと見て、畳に手をつき頭を下げた。
「雇って欲しい。この店の片隅を借りて、医家をやらせて欲しいんだ。それが駄目なら薬作りも出来る。山で採れる薬草をもう携えて来ているんだ。腕を見てくれていい」
「いいともさっ。最初から両方やるってお言いよ、あたしらは願ってもなんだ!」
打てば響くようにアユが言って、化野の腕を強引に引っ張る。男前な即決に化野は驚いたが、奥の間で着物を剥がれそうになってなお驚いた。
「とって食おうってんじゃない、薬屋お抱え医家なんだから、そんな汚いのもむさくるしいのも困るよ。さぁ、洗うからとっとと脱いでっ。ソウ太っ、裏んちで風呂借してくれるから連れて行きな、さっき焚いてたからそろそろ沸くころだよ。あんた、その髭も剃ってっ」
言い捨てて、着替えを探しに行くアユであった。残されたソウ太は着物を半端に剥がれてびっくりしている化野に、こうぼやく。
「聞きしに勝るって思ったろぉ?」
「…あぁ、まぁ。でも話が早くて助かるよ。家から出ても此処に居れば、あの人は俺を見つけてくれると思うんだ」
春が終わり、夏が来て、その夏もあっという間に過ぎたような気が、化野はしていた。結局、オキもフチもシオも、もう彼を探しには来なかった。ソウ太が薬を置きに行っても、何も問われないのだと言う。一生懸命暮らしているそうだ。
やがて、冬がくる。小雪のチラつく空を、変に熱っぽい目で化野が見上げていて、それを横目で眺めたアユが、困ったふうにこう言った。
「今日はまたあんた、やけにいい男ぶりだねぇ。はす向かい宿屋の娘も、広小路の甘味屋の娘も、あんたが気になって仕方ないみたいなのに、そんなんじゃ、夫がいる女たちだってよろめくって話じゃないかい。仕事変えてもいいんだよ、役者とかにさぁ」
「なんの話か、分からないが」
薄く笑って化野は俯いた。手元の薬研に薬茶に使う葉を入れて、ごりごりと擦る。暇さえあればすぐそれを始めるものだから、最近ではそれも売り物にするようになった。前より香りが深くなった、美味いと言われて、よく売れた。
「この香りが好きでな。落ち着く」
「ふーん、元は渡来だというけど、けっこう昔からある茶だからねぇ、あんたも前から飲んでたのかもしれないね」
今もまだ何も思い出さない化野に、やんわりとアユは呟いた。
擦りたてをすぐに茶にして飲むのがまたいい、と化野は言って、自分でその茶を入れて飲もうとした、その時であった。彼の手元に、人の形の影が出来る。化野の手が、小さく震えた。茶の香りよりも、もっと気になる匂いがしていた。
薄紫の煙が、目の前で弧を描いて薄く伸びて、消えていく。
「化野」
と、言葉が降る。耳にそれが深く沁みて、見えているものの何もかもが白く、薄れていくような心地がする。顔を上げながら、化野は自分のために入れた茶を差し出した。
「まずは茶でも、飲んでくれ。…ギンコ」
苦い茶でも飲んだような顔をギンコはする。そして化野の手から湯飲みを受け取って、立ったままでそれを啜った。あぁ、まさにこの味だ、と、ギンコは心の奥で懐かしむ。前に此処で飲んだものとも、違っている。彼の胸の奥で、その茶の味と、海の香りが混じる。
「いつ、発てる?」
「すぐにでも」
傍で聞いていたアユは何も言わなかった。丁度奥から顔を出したソウ太も黙っている。そう出来るようにずっと化野はしてきた。口出しのすることなどは何も無いのだ。
「必ず、一度は戻ります。フチやシオのことも、あるから」
ギンコと共に旅に発つとき、化野の言った言葉である。アユは分っていたようにただ頷いたが、ソウ太は少し意外そうにしていた。
「参ったね。男前が過ぎてさぁ」
「え? どっちがだよ、ねぇちゃん」
遠ざかる背中を見送って、姉弟がやり取りする。
「化野さんだよ。けど、たぶん、どっちもイイ男さ。あんたも見習いな、って言いたいけど、あそこまでじゃなくてもいいかねぇ。ああいう男は関わった大勢を幸せにしながら、けっこう難儀に生きてそうだもの」
「ねえちゃんすげぇなぁ」
そんなことが分かるなんて、とソウ太は言って、化野が残していった分厚い覚書を開いた。
曲がりなりにも、居なくなった代わりをしようと思っているような、真面目な顔だったから、アユはソウ太の頭を、母親がよくやっていたように、ぐしゃぐしゃと撫でるのだった。
続
相変わらず書かなくていいことを、多々書いている自覚のある筆者です。ストーリーを進めるだけなら、こんな枝葉は要らないよなぁって思いながら、物語の中で彼らは生きているので、動いた通りに綴ってしまい、結果要らないところも多々、となってしまいます。
ご容赦下さいっ。そのせいでギンコが中々迎えに来れなくて、物語は伸びていきます。とほほだけど楽しいです。
ではまた、いつ書き上がるか分からないストーリーの次回をお楽しみに(ゴメンナサイ)。
2022.04.30
