冴ゆる花 … 6
ギンコは化野の目の前で、新しい煙草に火を灯した。煙草から、そして彼の唇から、漂い揺れる煙が、化野の方へも漂っていく。一本を吸い終わるまで、ギンコはずっと黙っていて、短くなったそれを小さな器の内側でもみ消しながら言った。
「…妻子を此処に捨てていくつもり、ってことかい?」
責めるような響きの声を、化野は真っ直ぐに受け止めて、もう決めていたのだろう言葉を放つ。
「捨てる気はない。俺が過去を求める気持ちを、元居た場所を探しに行きたいって願いを、妻にも義兄にも、ちゃんと話す」
「嫌だ、と言われたら?」
「……」
ギンコの問いかけに、今度は化野の顔が歪む。諦める、と、彼は言わないだろう。嫌がられてもきっと何度も許しを乞う。それでもどうしても許されない時は、きっと、今ではなく、過去を取るのだそう思える目だと、ギンコは思った。
「……もう発つ」
「ギンコさんッ」
「冬にしか現れない蟲だと言っただろ。ここいらにも雪は降る。海辺の蟲だから、此処に居たんじゃ見られないけどな。だから、初雪の頃に、また。気持ちが変わっていなかったら、あんたの行きたい場所を、一緒に探してやってもいい」
化野は一も二も無く頷いた。礼を言う彼から視線を逸らして立ち上がり、木箱を背負ったギンコは、家を出て行く時に言ったのだ。
「あんたは蟲師の俺を雇うんだ。ただってわけにいかないぜ」
ギンコが出て行ったあと、化野は疲れ果てたように俯いた。もうそろそろフチとシオが戻るだろうし、オキもきっと今日あたり帰ってくるだろう。今決めたことを、すぐに言うつもりだった。でもその前に、話をしたい相手がまだ、今この家の中に居る。
ガタ、と音を立てて建付けの悪い襖を開くと、その向こうでソウ太はとっくの態で布団に身を起こしていた。
「俺があんたに売った眠り薬、中々よく効くやねぇ」
じろ、と睨んでソウ太は言う。
「目ぇ覚ましてから残り香で気付いたよ。眠れない時があるって言うフチさんにと、俺が調合したヤツじゃねぇか」
化野はソウ太の前できちりと正座に座り、頭を下げて詫びた。
「すまない。あの人と二人で話がしたかったんだ」
「ならそう言いやいいだろうって! まぁ、よ? 俺が狼狽えてるんで、なんかあるって気付いちまったんだろうから、俺のせいなんだろうけどさ」
「あぁ」
「いやそこは、そんなことないって言うとこだろうよ」
あー、失敗しちまったなぁ、と呟いて、ソウ太は派手に頭を掻いた。人様のことに首を突っ込み過ぎるな。事情が分かったと思っても、それをべらべら喋るもんじゃない。そう言われ続けてきたことと、今のこの状況を見比べれば、失敗したとしか思えないソウ太であった。
「俺、頭悪ぃから、こういうのほんと駄目だ」
でも今回は、彼の姉も間違えたのかもしれなかった。いつもの小言とは真逆のことを、姉がソウ太にさせたのだ。ソウ太のぼやきを聞いて、化野は重ねて彼に詫びを言う。
「あの人が薬を買う約束をしてたんだったか、すまないな」
「違うって。そもそもあんなんその場しのぎの嘘だし、それは別にいいんだけどよ。悪ぃな、結構前に目が覚めたんで、あんたとあの人の話、多分殆ど聞いてた」
ソウ太は布団の上から退いて、部屋の隅の方へと手早く布団を片付け、渡すつもりで持ってきた薬を荷の中から取り出す。それを化野へ差し出しながら、窺うように顔を覗き込んだ。
「記憶を取り戻す為に、あの人に手伝って貰うんだってな。でも多分あの人、最初っから」
「いいんだよ」
化野の言葉が、ソウ太の言おうとしていることを押し留める。そして大事そうに薬を受け取り、丁寧に中を改め、化野はソウ太にしっかりと代金を支払った。
「いつもは二度に分けて払っているが、払い終えて置く。これはこの家の常の薬として、俺が頼んだものだから。次に来てくれた時に、まだ俺が居るとは限らない」
「家を出てくっていうのか? けどさっきはちゃんとフチさん達に話すってっ」
「話すさ。話した上で、出て行けと言われるかもしれんだろう?」
「…まぁ、そこらへんはさ、俺がどうこう言えねぇけどさ」
まだ何か言おうとした言葉を、無理でも口を閉じることで言いやめて、ソウ太は渡された代金を、きちりと数えて仕舞い込む。
「もう首突っ込んじまったし、ねぇちゃんも多分駄目だって言わねぇから、なんか頼りてぇことあったら、おれんとこ来なよ。話したことあるから、場所分かるだろ?」
化野は無言でもう一度、深く頭を下げた。
夕暮れが近付いてから、化野の妻と子が戻ってきた。裏の山で山菜が沢山とれた話をしながら入ってきて、シオも少し手伝ったんだと、嬉しげに言っている途中で、彼女は化野の顔を見た。
化野は火のない囲炉裏端に、妙にきちりと座っていて、じっと彼女の方を見ていた。フチの手から、山菜の入った布袋が落ちる。傍にいた我が子の背を、フチはそうっと外へと向けて押して、こう言った。
「シオ、もうすぐオキおじさんが帰ってくるから、お外で待っててあげてね。風が冷たいから、母さんの襟巻を巻いて。ね? わかる?」
まだみっつにもならない幼いシオだが、それでも何かを感じるのだろう。何も言わずにこっくりと頷くと、開けたままの戸の外へと出て行った。
カタ、カタ、と戸が鳴る。フチが震える手で閉めているからだ。隙間なく戸が閉まってから、彼女はぽろぽろと涙を溢した。
「…思い出したの…?」
問われて、化野は首を横に振る。
「じゃあやっぱり、こんな顔の女は嫌になった…?」
化野はもう一度、首を横に振った。彼の目は、ほんの少し微笑んでいて、フチにもシオにも優しいいつもの姿なのに、フチにとって、今の彼は果てしなく遠く見える。
「…でももう、終わりなのよね…?」
違う、と化野は言わなかった。違うとは言わずに、ただ静かに話をした。フチの留守の間に、ソウ太と共に旅人が訪ねてきたこと。その人が化野が過去を探す、手伝いをしてくれるということ。もうずっと、こんな日が来るのを待っていた、ということ。
「フチのことも、シオのことも大事だよ。愛しいと思っているよ。でも、忘れてしまった過去の分、心の中も目に見えるものも、酷く欠けている気がしてならなかったんだ。此処に居る俺は、本当の俺の半分だけの存在で、真っ直ぐ進むことも、真っ直ぐ立っていることも出来ていない。どうしてもそう思えて、俺は今も、苦しいんだよ、フチ。…どうか、許しておくれ」
過去を探し始めるのは冬なのだと、化野は言わない。それまでは此処に居られるなどと、言えるはずもない。ただ、このまま妻や子や、義兄と共に暮らしていくよりも、自分にとっては大切なことなのだと、それだけをはっきりと伝えた。
フチも、何も約束を求めない。戻ってきてくれるか、自分の夫で、シオの父親であってくれるかと、尋ねることもなかった。
欲しいものを何も持たず、恐ろしいこと、辛いことばかりだった日々を、彼女は過去に経験しているから、例え化野が何か約束を言葉にしたとしても、それを信じることは出来ない。信じることすら、怖いのだ。
「…兄には、私から言うわ。だから、もう」
目の前から消えてくれと、言われたように化野は思った。何一つ持たず、旅の支度もせずに外へ出ると、そこで一人遊びをしていたシオが、顔を上げて化野を見た。あどけない顔で、けれど、いつもとは違う顔に思えた。
まだ幼い子供は、母親の一部のようなもの。どこかで確かに繋がっているかのように、何も言わずとも何かを察するのかもしれない。そういえば、この子に父と呼ばれたことは、おそらく一度も無かった。まだ幼いからだと思っていたが、違ったのだと今は思う。
「…シオ、風邪を、引かないようにな」
それだけ言うと、シオはこっくりと頷いた。そして。自分へ向けて軽く手を振り、歩き出した化野の背中に、真似るように手を振った。
家から離れて、ひとりで歩いて行く。そんな化野の視野にある夕暮れの道は、白茶けて変に褪せて見えた。けれども脳裏にギンコの姿を思い出せば、これで良かったのだと思えた。顔を上げると、山と山が裾で重なる間に、遠い丘が見える。昼間は薄青く、海のようにも見える丘。
「俺はきっと、海の見える場所に住んでいたんだ」
記憶がまだらに抜けているように、フチたちに助けられた海すら、うまく思い出せないけれど。
「海の見える家に住み、医家を生業とし、あの人と、その家で会って居た。…きっとそうだ。…きっと」
ギンコはひとりで、峠を越えていく。一度も後ろを振り向かずに歩いて、灯りも持たずいる彼を、とっぷりと暮れた夜が包んでいた。慣れた旅の道に居て、仕事は今、特に何も抱えていない。だからただ、歩いていた。
初雪の頃に、と言った言葉が、脳裏に念押すように浮かんでは消える。どういうつもりか、どうするつもりかなんて、もうはっきり決まっていて、だからこそ彼は、化野と約束をしたのだ。
「まさか、こんな日がくるとはね」
表情の無い顔に、自嘲のような笑みが浮かぶ。旅に連れてけ、なんて、本気だか戯れ事だか分からない文句を、年に一度は聞いていた日々があったことを思い出していた。
いいさ。
最初で最後なら。
お前の欲しいものを、
ひとつだけやるよ。
お前に居場所を、教えてやる。
かつて居た場所だ。
この先、そこへ戻るかどうかは、
お前が決めろ。
ギンコは立ち止まり、暗がりの中で目を閉じた。そうして、化野の目の中に見たものを、苦い気持ちで思い出した。
化野が浜で見た蟲は、サイカ。冴える花、と書く、美しい白い花の姿の蟲。報復する蟲だと言われている。何かを奪われれば、必ずその相手から、奪うのだ。
続
が…っ、と話が進んだ。というより、今まで進まな過ぎた分、進んだだけとも言えるのかもしれません。フチは悲しい女性ですね。幸せをしっかり繋ぎとめて置くことも怖い。失うもののある年月は、きっと辛くもあっただろうと私には思えるんです。
でももう出てこないってわけでもないので、彼女らにも、たった今より良い人生を上げたいと思っております。ラストまでにはね。次回は後半、きっとギンコと先生の共に居るお話。書くのが楽しみです。頑張って書くね。
2022.04.24
