冴ゆる花 … 5
ソウ太を落ち着かせるために、白湯でも、と。用意をしながら、化野はそれを聞いていた。無意識に耳を澄ませていたのだ。小さくて粗末な家の中、余程声を潜めなければ、別の部屋に居たって声は聞こえる。
「聞いてくれよ…。ずうっと前、俺の母ちゃんさ、家を出てったんだ」
上擦ったソウ太の声。身の上話などして、本当にどうしたのだろう。彼がギンコと呼んだ男の、返事をする声は聞こえない。
ギンコ。
知らない名だと、化野は思う。勿論そうだろう。初めて会ったのだから、当然のことだ。けれども、随分珍しい見目の人だとは思った。白い髪に、見たことも無い変わった恰好、近くまで来て気付いたが、目の色が、緑だった。翡翠のような色。きれいな色だった。
気になって、不躾なほど見てしまって。でもその目は、余り化野を見なかった。一瞬目があったと思っても、ふい、と逸らされた。或いは、瞼を伏せられた。
何故、目を逸らす?
どうして、そんなにも、
俺を見ない?
化野は彼のことが気になって、だからつい自分のことを話してしまった。そうしたら急に、ソウ太の様子がおかしくなったのだ。あんな姿は初めて見た。何が起こっているのだろうか。少なくとも、これまでになかったことだ。
変に狼狽しているソウ太。それに比べて、不自然なほど淡々としている彼、ギンコ。化野が記憶を失くした話をしても、それを聞いたソウ太があんなに取り乱しても、まるで凪いだ水のように、彼は静かだ。
「あん時から、ずっと俺、悔やんでんだ…。なぁ…。だからよぉ、ギンコ…」
「何言いたいのか、わかんねぇよ」
隣の部屋から聞こえている二人の会話。ソウ太が懸命に、彼を引き留めようとしているのが分かる。このままだと彼は去っていくのだろう。そして、きっと二度と、此処へは来ない。もう二度と会うことはないのだ。ついさっき、化野自身そう言ったように。
「外で、煙草を吸ってくる」
そう言い置いて、ギンコが家を出て行く。化野はただの白湯ではなく、少量の薬を湯に溶いて、ソウ太の傍へと戻った。ギンコとどうしても、もっと話をしたかった。
「さ、ソウ太さん、これを。気を沈める薬だよ」
「あぁ、悪いな。急にやってきてこんなさぁ」
「気にしないで飲んでくれ。いつもはこちらが世話になっているんじゃないか」
軽く身を起こさせて薬を飲ませた。奥の部屋の布団に寝かせると、ソウ太は何も気付かないままで、すぐに眠ってしまった。少しするとギンコが中に戻ってくる。変わった匂いがするのは、さっき言っていた煙草なのだろう。
「ソウ太さんなら奥だ。余程疲れていたのか、薬を飲んで眠ったよ」
「…疲れているからって、こんなすぐに寝落ちるかね」
変わらない凪の顔のままのギンコにそう言われた。化野は戸口に立ったままの彼をじっと見つめて、また目を逸らされる。その時、唐突に分った。こんなにも彼が、気になってしまう理由。
もしかしたら、この人は。
そうであって欲しい。
どうか。
「ギンコさん…」
ぽつん、と呼んだ声を聞いて、ギンコはゆっくり瞬きをした。閉じる前の一瞬だけ、はっきりと視線が合って居た。
「あなたは俺を、探しに来たんじゃないですか…?」
ギンコは微かに笑った。さっきまでと同じ温度の笑みに見えて、そうではないように思えた。
「ソウ太を薬で眠らせてまで、そんなことを聞きたかったのかい? あんた」
「…他に誰も聞いていない方が、あなたが本当のことを話してくれると思ったんだよ。彼には悪かったが」
聡い人だ。眠り薬を使ったことまで気付かれている。でも少し、彼の声の加減が変わった。怒っているとも、苛立っているともとれた。怯まずに化野は畳み掛ける。今しかないんだ。たまたまフチが子供を連れて山菜をとりに出て、オキも商売に行っていて居ない今、彼が来たのはきっと運命だ。
「…話だけでも聞いてくれないか。俺はずっと此処にいるままで、失くした記憶の手掛かりを探し続けてたんだ。妻は、ずっと心が不安定だから、表だって人に聞くことも出来なかったが、それでも大きな通りへ出ては、なるべく沢山の人と会って、いつもいつも、俺を知る人が通りすがらないかと、思って。ずっとそう願って。そして今日、あなたが」
知らず知らずに、声が震えた。こんなにも過去を切望しているのだと、化野自身知らなかったのだ。忘れてしまった過去の分、ぽっかり空いた胸の穴の中で、何か小さなものがいつも光っている。呼ばれているような気がしていた。
その光は今や、これまででもっとも騒がしく揺れて、光って、暴れている。気付いたら、右目が涙を溢していた。
「あ…」
片手で目を覆って項垂れて、その時聞いたギンコの声が、遠いような、近いような、不思議な響きを持って心に入ってくる。
「あんたは、帰りたいのかい…?」
「…俺、は」
「妻が居るんだろう? 血が繋がっていなくとも、小さな子供もいて。頼りにされてると聞いたぜ? もうあんたは、此処に居なくてはならない人だ。ちいとも覚えていない過去などよりも、思い出せない記憶なんかよりも、今を大事にしちゃあどうなんだい?」
フチの泣き顔が浮かんだ。小さなシオの笑顔も。心配そうにしているオキの目も。けれど。
「だが、ギンコ」
言ってしまってから、はっ、とする。ギンコ、と呼び捨てた音が、唇に酷く馴染んで、そう呼んでいたのかもしれないと思った。
「あぁ…帰りたいよ……」
失くした記憶の中へ。過去の自分へ。其処にはきっと、今よりも大切な何かがあった。それで罵られるのだとしても、恨まれ憎まれるのだとしても、誰かが、泣くのだとしても。
「同じその時の中に、二度と帰れなくても、失ったままでいるのは、嫌だ」
ギンコ、ともう一度息だけで言った。音にして言うのが、どうしてか怖かった。「過去」にも帰れず「今」からも追われて、何処にも居られない自分になってしまいそうだ。
でも。それでも。胸の奥で光る輝きのひとつ、ふたつに、一瞬でもこの手が届くのなら。
「やっぱり、あなたは俺を知っているんだろう?」
もう一度、はっきりとそう聞いたのに、ギンコは頷いてはくれなかった。ほんの微かに目元で笑んで、彼はこう言った。
「あんたとは今日、初めて会ったんだ」
「…情がこわい人だなぁ」
右目から涙を溢したままだというのに、どうしてか笑えてしまって、場違いが過ぎるだろうと、困り果てた。
「教えてくれ。あなたは蟲師なんだろ?」
ようやっと涙が止まり、二杯目の茶をすすめながら化野はギンコに聞いた。まだソウ太は起きて来ない。薬のせいだけじゃなく、疲れているのもあるのかもしれない。妻子も義兄も戻らない。化野は、ギンコと二人だけだった。
「どうしてわかった?」
癖のある匂いの煙草を吸いながら、ギンコは問いを肯定した。
「同じような箱を背負った人と、会ったことがあるんだよ。変わったなりだと思ったし、旅慣れている感じだったから、俺の顔を知らないかと思って話しかけて、そのまま少し話をしたんだ」
普通、人には見えない、蟲という生き物がいる。
その生き物が人に近付くと、稀に病や障りがある。
それを治すのが、蟲師という生業。
「そういう生業があると初めて聞いて、その人に聞いた話を思い出すたびに、一目でいいから、蟲というのを見てみたいと思って。そうして、気付いたんだ。多分、俺は一度、蟲を見たことがある…」
化野の目が、ギンコをひたと見据えた。また、ギンコは目を逸らした。
「ちゃんとこっちを見て、話を聞いてくれないか。これは蟲師としてのあなたにしている話だよ、ギンコさん」
化野が悲しげに言うと、ギンコは少しだけ化野の方へ視線を戻した。膝の上に緩く置かれた、彼の手へと視線をとめて、彼はそのまま話を聞いた。
俺が蟲を見たのは、浜だ。二年と少し前のことになる。砂浜と岩場の混じり合ったような場所で、俺はひとりで目を覚ましたんだ。体は波に濡れていて、凍えて死んでしまいそうに寒かった。寒くて寒くて、此処でもう終いかと思った時、その『花』を、俺は見た。
波飛沫のかかる岩の上だというのに、白い花が咲いていたんだ。淡い青と、濃い藍色の斑の入った、花弁の尖った花だったよ。アケボノソウという花を知っているかい? それに少し似ていた気がする。でも、ただの花じゃなかったんだ。
最初はほんの幾つかだったその花は、俺が見ている間に、増えていくんだよ。蕾だったのが開いたとか、そういうことじゃない。何もなかった場所に、次々花があらわれていった。
最初は白いもやのように見えて、なんだろうと眺めているうちにそれが白い花になる。きれいだと思ったが、見ているとどうしてだか酷く不安な気持ちになった。死んだから見えるのかとも思ったしな。
でも俺は生きていた。そして助けられて、今此処に居る。
蟲師のあなたなら、そういう蟲を知っているんじゃないか? あの花は本当は花じゃなくて、あの時俺は、蟲を見たのでは。もしかしたら、俺が命を助かったのも、あの花のお陰だったのかもしれないと思うんだよ。
そんなふうに、化野は話を終えた。聞いている間ずっと、ギンコが去ろうとしないことを、内心で彼は嬉しいと思っていた。
「白い、花…」
吸っていた煙草を消して、ギンコは初めて真っ直ぐに化野を見た。そして無言で手を伸ばし、いきなり化野の目元に触れたのだ。
「なにを」
「目を見たい。さっき、涙を流していたのは右目だったな」
「そうだが、俺はどうやら右の目だけが悪くて、いつも片方だけ酷く疲れるから、そのせいだと」
化野が落ち着かなげに身じろぐと、ギンコは逆の手も伸ばして彼のうなじに手を添える。支えると言うより、捕らえるように。
「いいから、黙って、見せてくれ」
「わ、わかった」
翡翠の色のギンコの目が、化野の目に近付く。じっと覗き込まれ、胸が騒いで、怖いほどだと化野は思った。
「…あんたの見たのは、たぶん、本当に蟲だったんだ。まだ確信は持てないが、おそらくサイカという蟲だろう。白い花の姿をして、真冬の海辺に、群れて咲く」
す、っと静かに、ギンコはが化野の体から離れていく。まるで引き寄せられたように、化野の体が揺れた。
「……出来るのなら、またそれを見てみたいよ…」
「もの好きが過ぎるぜ、あんた。死にかけた時に見たんだろう?」
「そうだとも。でもそれは、記憶を失くした時に見ていたのかもしれないってことだ。もう一度見たいよ。出来るのなら、同じ場所で」
強い光のこもった目を、化野はしている。ギンコはそれを見て、どこか落ち着かなげに、また視線を逸らすのだった。
命を賭けてでも、
俺は記憶を取り戻したいんだ。
…ギンコ。
続
作中でギンコが迷いまくっているらしいので、書いている私も迷ってしまうみたいです。登場人物か私か、どちらかがグイグイ引っ張っていかないといけないのにっ!
元々キャラが動いたのを書き留めるタイプの筆者なので、こういうとき駄目ですねぇ。うん。でも今更変わらないんだなぁ…。というわけで、今回は先生に引っ張って貰いました! ありがとう先生っ。スランプの私を救ってくれてっっ(涙)
(私も)が、頑張ります。
2022.04.09