冴ゆる花 … 4
その家には、女とその夫と、女の兄がいる。ずっと空き家だった家で、ぼろぼろでさ。とても人が住める家じゃなかったんだが。夫。そう、元医家らしい男が、なんてぇのか、すげぇ出来た男でよ。そういうのは人徳があるっていうんだ、って姉ちゃんは言ってたな。
そこはどの里からも随分離れてるんだが、大きい通りまでは程近い。元医家はその道まで出て、いろんな旅人に声をかけてたんだ。野菜売りに乾物売り、猟師、器屋、布屋に大工、石工。そんで声をかけられた薬屋が俺さ。
俺ん家はほら、流して歩く旅の人らを客に生業ってっだろ。だから顔が結構広いんだ。その男が愛想が良くていいヤツだったんで、俺もいろいろと口聞いてやった。
そんで今じゃ家はすっかり直って、そこで暮らすためのものや、食べ物なんかも不自由なくなって、それからずっとその三人は其処に住んでる。三人じゃねぇか、子供もいるもんな。ガキは男の子でまだ小っせぇよ。
俺がその家に出入りするようになった時は、まだこんなくらいの赤ん坊だったんだが、時の経つのは早ぇよな。今じゃ父親にくっついて、俺と父親とが話すのも聞いてら。父親似なんだろうな、ありゃ、愛想がいい。顔はあんま似てねぇけど。
俺が知ってるのはこれくらい、と、そこで話を閉じようとしたソウ太に、ギンコが聞いた。
「なんで、そんな不自由な土地に?」
するとソウ太は口を濁した。視線を横へ逸らして言いたくないような顔だったが、全部話すと言う約束がある。微妙な苦笑をしながら結局は言った。
「……女がさ、ひでぇ痣持ちなんだよ。しかも顔だぜ? 青黒い痣が、こっちの方にこう、さ。だからかいつもちょっとおどおどしててよ。かわいそうなもんだよな。ありゃああいうとこに住みたくなるのは分る。けどあんな立派でソツの無い旦那がいるんだから、よかったよなって思うぜ」
ソウ太は握りこぶしでもって、ギンコの胸をとんと叩いた。そして彼はちら、と彼の顔を覗き見る。
かわいそうだとあんたも思うだろ?
波風立ててやんなくてもいいじゃねぇか。
きっと違うよあんたの探し人じゃない。
話が終わっても、ギンコは何も言わなかった。言わずに、ただ、これから進む方角を見る。そして彼は暫し後、立ち上がって歩き出しながらこう言った。
「生きているのを、確かめるだけでいいんだ。新しい人生を生きているのならそれで。無理に連れ戻そうとか、する気はない」
それを聞いたソウ太は随分ホッとして、彼の横に並んで歩いた。もうかなり距離を歩いてきた。すぐ其処の樫の木を通り過ぎたら家が見えるのだ。細い道だったから前後して歩いていて、ソウ太が後ろに居たのだが、突然ギンコが立ち止まったので、彼はその背にぶち当たってしまった。
「わっ、な、なんだよ急に…っ」
「……」
ソウ太が言うのへギンコは返事をしない。ただ、彼は息をゆっくり吐くようにして、言ったのだ。
「………あんたの言う通りだったな。違ったよ…」
「あぁ、そうか。…そりゃ、残念だったなぁ」
がっかりしただろうと思って、ソウ太はギンコの肩に手を掛け、追い抜くようにして先へと出る。ソウ太の姿が見えたのだろう、視線の向こうで馴染の元医家の顔が、にこりと笑って会釈した。
「あんたも疲れたろ。茶でも一杯貰っていこうや。化野さん、いいひとだからよ。な?」
「…そうだな」
手を触れているギンコの肩が、その一瞬に微かに震えた気がした。でもそれはソウ太の気のせいだったのかもしれない。振り向いて見た顔は笑っていたから。
それから二人は家へ上げて貰って、熱い茶を貰った。それもまた件の薬茶。懐かしい手から渡される懐かしい香りの薬茶が、刺すように深く、ギンコの喉に沁みたのだ。
「旅の方ですか」
と、化野はギンコに問う。そんなことを問われる前から、ギンコには分かっていた。
そうか、化野、お前。
命は失わなかったけど、
記憶を失くしていたんだな。
さっき、俺の見目を見て、
不思議そうな顔をした。
こんな珍しい姿、
「初めて見た」って顔だった。
「あぁ、この辺は初めてくるんで、迷いそうでいけない。方角が同じだったんで、案内して貰っててな」
「そうでしたか。今日は家のものが居なくて、何もお出しできませんが、休んでいって下さい」
遠慮しながらも、化野の目がちらちらとギンコの髪を、そして翡翠のような色をした目を見ている。
「不躾で申し訳ないが、その」
「この髪や目ですか? …昔の記憶がなくて、自分のことだってのに、いつからどうしてこうなのか、とんと」
「あなたも、記憶が…?」
言ってしまってから、はっ、としたように化野は周囲を気にした。どこか不安げな所作だった。
「…実は俺も、二年より前のことを覚えていないんです。浜に倒れていて助けられたことは覚えているんですが。そんな目に会う前のことは、なにひとつ」
「えぇ…っ。そ、そうだったんかい?」
頓狂な声を立てたのはソウ太だった。腰を浮かせ、思わず化野の言葉を遮る。
「ちょ、待ってくれよ。そしたらもしかして化野さん、ここの兄妹に助けられたってことなのかっ?」
「あぁ、旅の途中だった二人に助けてもらって、一緒に此処へと辿り着いて、そのまま、今日まで。俺には不思議と医家の知識があったから、身重のフチさんの助けになれたが」
「じゃあ、じゃあっ、あの子の父親でもないし、フチさんの夫でもないってことかいっ?」
あんまりびっくりしてしまって、ソウ太は床にすとんと腰を落とし、すぐ隣にいるギンコの方を見た。自分の探し人とは違った、と、はっきり言ったギンコの顔。彼は笑っている。波風のひとつも立てない顔なのだ。
あんた、さっき言ったの。
ほんとうにほんとうなのか?
ほんとうは、まさにこの人が、
あんたの探していた人、
ってことじゃ、ないのか?
この時になって、ソウ太はぎくりとする。ギンコが一度も自分から、探している人の名前を言わなかったことに思い至ったのだ。遅すぎる気付きだと言えた。ギンコの口からそれを聞いていたら、違うか、違わないか、此処に来るまでもなくすぐに分ったことだった。
ソウ太の目に映るギンコの横顔は、酷く穏やかだ。淡々と、淡々と、頬笑んでさえいて、それはもう不自然なくらい。
「申し訳ない。言うつもりは無かったんだが。今日は久しぶりにひとりで居て、あなたを…初めて会った人だし、きっともう会わないと思ったら、つい」
ソウ太の目の前で、ギンコの笑みがふうっと深くなった。それを見ているソウ太の背筋が、ぞくりとする。待てよ、待ってくれよ、と、繰り返したい気持ちで、けれども喉が引き攣れたようになって何も言えなくて、眩暈がした。
それへ化野が目敏く気付いて、声をかけてくる。
「ソウ太さん、もしかして、具合が悪いんじゃないのか?」
「……あぁっ、うん、そうかもしんねえ。よ、横にならしてもらっていいかな、ちょっとさ…っ」
咄嗟にそう言ったのは、このままギンコが何も言わずこの家を出て、それっきりになりそうだと思ったからだ。引き止めたかった。赤の他人のことだというのに、あんまりだと、このままは嫌だと思ってしまっていた。なのにギンコは言ったのだ。
「じゃあ俺は先へ行くよ。此処からならひとり行けると思うから」
「そ、そんなん駄目だ…ッ。あ、いや、ほら、薬を買って貰うって話をしてたじゃねぇか。あんたも此処に居てくれよ、頼むから、後生だから…っ」
手を伸ばして、ギンコの服を掴んで、ソウ太は懇願した。どう見えるとかそんなものは考えても居られない。
「商売の機会逃したらさぁ、姉ちゃんにどやされっちまう。ギンコ、頼むよ、なぁ」
縋るようなことを必死に言って、その時に見えたギンコの顔は、少し強張って見えた。それでもギンコは立ち上がろうとしていたのをやめて、脇に置かれた木箱の紐からも手を放してくれたのだ。
化野は奥の部屋へ布団を敷きに行った。すぐに戻ってくるだろうから、今しか言えないと思って、ソウ太は言葉を選ぶことも出来ずにギンコに言った。でもそれは、およそ今とは関係の無いようなことだった。
「聞いてくれよ…。ずうっと前、俺の母ちゃんさ、家を出てったんだ。俺がガキの頃、うちは商売がうまく行ってなくてよ、父ちゃんと母ちゃん毎日喧嘩しててさ。俺も姉ちゃんも引き止めらんなかった。これきりでもう母ちゃんに会えないなんて、思ってなかったんだよ。あん時から、ずっと俺、悔やんでんだ…。なぁ…。だからよぉ、ギンコ…」
「何言いたいのか、わかんねぇよ」
「ギンコ…っ」
またギンコが立ち上がろうとする。ソウ太は裏返ったような声を出し、短く彼にいなされた。
「外で、煙草を吸ってくるだけだ」
憐れむような顔をされた、気がした。でも違うとすぐに思った。あれは痛みを耐える顔だ。ずっとあんなふうに静かに笑っていた癖、本当は痛かったんだ。もう会わない、なんて言われて。
きっと、間違いない。
ギンコが探してたのは、
化野さんだ。でも…。
「どうすりゃ…。どうすりゃいいんだよ」
化野が戻ってきて、ソウ太をしっかりと支えてくれ、奥の部屋の布団に寝かせてくれた。彼が処方したのだという薬を飲ませて貰って、あろうとことか、そのすぐ後に、すとんとソウ太は眠ってしまったのだった。
なんかソウ太、目立ち過ぎですかって思いつつ。なんというか彼はここへきて、私と読者様の代弁者のような感じかもしれないな。つーか、ギンコよ、お前、ソウ太の過去の傷を計らずもえぐってしまって。あんまり辛い人生を選ぶと、傍にいる優しい人も一緒に傷つくんだかんな?
この局面、っていうか、このあとどうなるかって、えぇ、どうなるんですかね。次回はそんなに間をあけずに書きたいと、思って、思って、思っていますっ!
2022.04.03
