冴ゆる花 … 2 





 二年、過ぎていた。ギンコは項垂れて、旅の道を歩いている。これから行くのは、化野の里に程近い海辺の街だ。此処を訪れたのは初めてではない。一度目は化野が居なくなった次の春、そして同じ年の秋の終わりと、冬の只中の今日である。

「人を探しているんだが」
 
 大きな街である。ギンコが街の門番に話し掛けると、その男は振り向いて、いぶかしむような顔をしてこう言った。

「またあんたかい、その話なら前にも聞かれたよ。もう三度目さ。前ん時もあんたが俺に聞いたろ。悪いけど答えはおんなじだ、見てねぇし来てねぇよ」
「そうかい」
「…あのなぁ、言っちゃぁ悪いが、その医家ってなぁ崖から落ちたって話だろ。しかも真冬の吹雪の日にさ。そしたらもう、さ」

 男は呆れた態の中に、憐れむような色をのせてギンコを見る。なんで諦めないんだ、と、男の目が言っていた。ギンコは男に礼を言い、そこを離れて浜の方へと向かう。漁師が漁から戻るのを待って、同じことを問うつもりだった。きっとまた、同じ返事を聞くのだろう。

 なんで諦めないんだ、なんて、
 俺自身が一番思ってる。
 もう出来ることなど何もない。

 ってことを、
 理解、したくないだけかもしれない。
 
 ギンコは漁師達に聞いた。化野の好きそうな古物を扱う店にも聞いた。薬問屋にも聞いたし、この街に出入りする商人に行き会って、その男にも聞いた。同じことをだ、こういう男を知らないか、見たことはないか、噂だけでもいい。小さなことでも、なんでも。

 そんなことを、幾十もの土地でしてきた。まるでつぐないのようだと、時折ギンコは、思うのだ。

 あの時、彼はすぐに化野を諦めた。自分のせいではなく、関係のないことで死んだ化野に、心の何処かでほっとしたのだ。いつかきっとあいつを不幸にする、必ず酷い目に会わせてしまうのだと思っていたから、自分と関わりの無いことで、しかも、らしい理由で化野が命を落としたことに、安堵した。

 ぎり、と奥歯が軋んで音を立てる。嫌悪感が呼吸に混じって、色を付けたように真っ白い息が零れた。

 酷い話だ。きっと自分が見つけてやるよ、などと、思ったのは上辺だけか。蟲を寄せる自分が、あの里と化野に禍を呼ぶ、と、そう思っていたのなら、とっとと遠ざかればよかっただろうに。ずっとそれをせずに。

 ギンコの足元に、一匹の蟲がいた。山中から彼についてきた蟲だ。一匹なら人に害など及ぼさないが、寒い季節は別だ。仮にもう一匹何処かから来て、繁殖すれば途端に数が増え、そうなれば体の弱いものは病になる。

 彼は路地へと入り、荷の中から取り出した匂いの強い香に火を灯すと、まだついてくる蟲の体へと差し付けた。蟲は長い体を、苦しがるようによじらせ、尾から頭へと塵になって消えて行った。

 しなくていい蟲殺しだったと意識している。来る意味などない里について来させて、そして殺したのだ。ギンコは路地の壁を、緩く握ったこぶしで叩いた。こんなことをしてまで、どうして。

 何故、諦められないんだ。
 もう丸二年だ。
 そうさ、死んでるに決まっているし、
 仮に生きていたって、
 とうに別の人生を生きてる。

 ゆらり体を投げ出すように、ギンコは路地から出て、そのままその街の外へ出た。門の番のあの男が、憐れむような顔で彼を見ていた。
 



「あんた。寒いんだから、もう入ったら?」
「…あぁ。そうだな、フチ。ありがとう」
「あんたはほんとに、そこから遠くを見るのが好きね。何もないじゃないの。ただの枯れた木だけ」

 そうだよなぁ、と、言いながら、男はもう一度風景を振り向いた。細く続いている道の向こうから、妻の兄が戻ってくるのが見えた。手を振る姿に軽く会釈をしながら、男はあまり義兄の姿など見ていなかった。そのずっと遠くに見える、浅い青色を目に映している。

 それは遥か遠くの丘の色なのだが、見ようによっては海に見えて、男はそれが気になって仕方がない。

「あんたったら、入って頂戴。もう夕餉が出来てるんだから」

 妻の声に、遠慮がちな義兄の声が被さった。

「俺の留守を守っててくれて、ありがとうなぁ。助かるよ、化野さん」
「あ、あぁ、いいえ。お義兄さん、そんな」

 化野と呼ばれた男は、軽く目を眇めながらそう返した。片目ばかりがいつも疲れて、瞼が時々痙攣する。

「大丈夫? あんた。目が痛いの…?」
「大丈夫だよ、フチ。それより、シオは眠っているのかい?」
「えぇ、ぐっすり。おだやかな子よ、あんたに似てて」

 妻に導かれて、化野は布団で寝ている子供の顔を見に行った。あと半年で二歳になる。本当によく眠っていたけれど、その顔は何処も自分に似ていない。血の繋がりなど少しもないのだ。

「フチ」
「なに?」

 名を呼んでじっと見ると、彼の妻はやがて顔をそむけ、右頬を隠すような素振り。そこには青黒い大きな痣があって、彼女はそれを恥じている。自分から夫と呼ぶ化野にも、見せたくはないようだった。

「俺にまで隠すことは無い」
「分かってるんだけど」
「此処に居る誰も、気にしやしないんだから」
「…でも、シオはもう少し大きくなったら、こんな顔の母さんは嫌だって言うかもしれない。その時は…支えてね、あんた。あんたがいてくれたら、私、もう挫けないから」

 返事はせずに、化野はただ頬笑んだ。

 夕餉を済ませ、やがてフチが子供に寄り添い眠ってしまうと、囲炉裏を挟んで向かいに座る義兄に、化野は小さな声で言った。

「オキさん、そんな顔をしないで下さい。俺は多分、嘘がそんなに巧くは無いから、あなたがフチの後ろでそんな顔をしていたら、つける嘘もつけなくなる」
「……俺は、どんな顔してあんたを見てる?」
「すまない、申し訳ないって顔をしてる。あの日からずっとだ。俺にフチさんのことを頼んだ時から」

 頼むっ、騙されてやってくれ!
 思い出すまででいいんだ。
 あんたはフチの支えなんだよ。
 あんたが居なくなったら、
 きっとフチはまた心を病んでしまう。
 この通りだ…っ。

 土間に額を擦りつけて、オキがそう懇願したのは二年ほど前のことだった。

 冬の砂浜に打ち上げられて、意識の無かった化野を、オキとフチの兄妹が助けたのだ。フチは身重の上、夫を海で亡くしたばかり。オキがそんなフチを故郷へ連れて帰る、その旅の途中のこと。数日で目を覚ました化野はけれど、自分のことを何も覚えていなかった。

 医術だけは体が覚えているのか、大きなお腹を抱えて辛そうなフチに、適切な治療や助言をして庇った。優しい言葉に、フチは安堵して彼を頼りにした。そんなある夜、フチは兄のオキを外へと呼んで言ったのである。

『ねえ、兄さん。化野さんがあたしの、ほんとうの夫だわ』
『な、何を言ってるんだ…?』
『だって、沖に出て行ったあのひとは私にずっと酷く当たったもの。この痣のことも知ってて一緒になったのに、気持ち悪い見せるな、って。そうよ、子供が出来たって言ったら、余計に酷くなった。いつ殴られるかって怖かったの。そのうえ、夜中にお金を持って逃げたのよ。あんなひと、最初からあたしの夫じゃなかった。あたしの夫は、化野さん。ずっと何かの間違いだったのが、やっと元に戻ったんだわ』

 虚ろな目で、フチは笑ってそう言った。迷いなど一つもない言葉で、流れるように言ったのだ。もうずっとそう考えてきたのだろうと、兄のオキには分かった。

『…そう…そう、かもしれないな。ちょっと、俺から化野さんに聞いて』
『聞かなくていい…っ。だってそんなわかりきったことを聞いたら、化野さん変に思うわ、きっと、変に思う』
『そう、かい? フチ』
『えぇ…』

 フチの願いで、家に帰るのもやめた。顔に痣の有る娘を疎んで、遠くの里へと金を使って嫁がせた父母がいる家だ。オキはずっと妹が可哀想だった。兄なのにろくに守れないことが、家を捨てることを選ぶほど辛かったのだ。

「…すまないと、思ってるんだ、化野さん。でも、俺はずっとあんたが、妹と居てくれること願ってるんだよ」
 
 囲炉裏の火は、化野とオキとの間で赤々と燃える。時折火の粉が、強い黄色に跳ねては消える。化野はあの日、オキに頭を下げて懇願されて、首を縦に振るしかなかった。二人に命を救われた。それに、フチのことは、可愛いと思う、大事だとも思っている。もう二年も苦楽を共にしているのだ。シオのことだって大切だ。

 けれども、化野の胸の底で黄色い火の粉が跳ねるのだ。何か熱いものが、そこに在るのだと分かる。痛む片目の奥に、見なくてはならないことが眠っている気がする。失くした記憶が、胸の底や目の奥で彼を責めている。そう思えて苦しい。

「オキさん、俺が持っていた手紙の欠片は、フチさんが持っているんですか?」
「……手紙、あぁ、多分、そうだ」
「そこに俺の名前が書いてあったから、俺を化野と呼ぶんでしたね。きっと、フチは見せてはくれないでしょうから、教えて欲しい。その手紙には、どんなことが?」
「いや、千切れていて、殆ど名前しか」

 即座にそう言われても、化野は引かなかった。

「どうか教えて下さい。それを聞いたからと言って、急に此処を出て行ったりはしない」
「申し訳ないけど、嘘じゃない。書いてあったことと言ったら、確か…」

 化野、元気にしているか。俺は

「とか、そのぐらいで」
「……そうですか」

 化野は項垂れた。戸を細くだけ開けている奥の部屋で、子供に寄り添い寝ているフチの背中が、少し動いた気がした。












 また悪い癖が出て、オリキャラの設定が濃いから〜〜。でも仕方ないと思うんですけどもー。先生優しいからそんな兄妹と子供を放り出せないよねっていう……。あと、ほんとごめんなさいなんですけど、ギンコの心の葛藤を書くのが大変にやりがいあります。好きですよ。ごめんなさい、ギンコさん。土下座するわね。

 あとまだ決まってないことが結構あるので、もっと頭使って頑張ります。早く会えればいいね。でもその先また苦悩があるから、頑張って頂きます、ゴメンっ。



2022.03.06