冴ゆる花 … 15




 渡されたのは丁寧に折った紙包。中には薄い紙片が入っていた。一度濡れたのを、乾かしたものだと気付いた時、化野は顔を上げてフチを見た。

「帯の間にきちんと畳んで入ってました。そんなふうにしたのは、私です」

 そんなふうに、とフチは言った。握り潰されたようにしわしわで、しかも手紙は二つに裂かれているのだ。二つのうちの一枚、小さな方を化野は開く。

『化野、元気にしているか。俺は』

 書かれてあるのは、それだけ。前にオキが言っていた通りの文面。フチは項垂れ、頭を下げた。

「濡れた着物を脱がせて、兄の着物に着替えさせたとき見つけて、渡そうと思っていたんです。でも、渡しそびれているうちに、どうしても渡せなくなった。その上、見せるなら元々そうなっていたと言ってそれだけ見せようって思って、私が破ったんです。…全部を読んだら、思い出してしまうかもしれないから、隠してた。どうかしていたんです…ごめんなさい」
「いや…」

 急ぎもう一枚の、大きい方を化野は開いて読んだ。一度読み通し、もう一度読み、さらにまた読んだ。まぎれもないギンコの字だった。旅の間に何度か見たから、知っている。


 化野、元気にしているか? 俺は
 まあまあってとこだ
 このあいだ少し分けてもらった腹の薬
 宿で一緒になった男に飲ませたんだが
 随分痛がってたのがぴたりと治った
 詳しく処方を教えてくれ
 
 お前は医家と言うだけじゃなくて
 腕利きの薬師でもあるんだから
 妙な買い物に金を使ってないで
 もっといい薬研でも買え 旅の
 ついでに俺が探してやってもいい
 返事は春に聞く 
  
 ギンコ


 読み終えて、化野は暫く黙っていた。責められることを覚悟して、フチはじっと、彼の言葉を待っていたが、彼の口から出てきたのは感謝の言葉だけだった。

「捨てずにずっと持っていてくれてありがとう、フチさん。確かにこれは大事なものだ。思い出してはいないが、きっとそうだとわかる。こりゃ、あんたに負けていられないな」

 化野は大声でアユを呼んだ。呼びながら表へ出て行って、蔵の鍵を出してもらった。奥の棚に積まれていた先代の書付を、一冊二冊ではなくて全部持ち出して、埃を払った。

「どうしたんだい、随分張り切ってるねぇ」

 アユはそう言って、不思議そうにしている。

「もっと凄い薬師になりたくなったんだ、まだまだ知識も欲しい」

 ギンコがこんなに長い手紙をくれるなんて、滅多にない、どころか初めてだった。それが嬉しかったし、書かれていることも嬉しかった。だから肌身離さず持っていたんだなどと、今の化野には分からない。手紙を仕舞う前に、彼は文面の一部を、指で丁寧に撫でた。

 殆ど全部の記憶を失った彼が、医家としての知識と、薬の作り方だけは忘れていなかった。そんなものはたまたまなのだろう。それともあの蟲は、喰らう記憶に好みがあるのか。何にせよ、化野は改めてその運に感謝したのだった。

 

 
「た、ただいま、フチ!」

 次の日の午後だった。店先からそんな声がする。オキの声だ。息でも切らしているように、その声は揺れていた。

「おかえりなさい、兄さん」

 しっかりと落ち着いた声で、フチがそう返している。

「兄さん、化野さんは奥に居るの。でも…」

 問い質したりなんかしないで、とフチが続けようとした言葉に、オキの嬉しそうな声が被さる。

「あぁ! そんなこと何処かへ吹き飛んだ。お前がそんなに明るい顔して、店の前に出てるだなんてっ、だ、大丈夫なのか…っ、その…っ」
「痣のことなら大丈夫。病気じゃないんだし。それに、考えてみたら、人様に隠すようなことじゃないもの」
「そ、そうか…そうか…っ」

 オキは少し涙声になっていて、終いにはアユに咎められている。

「ちょっと! 嬉しいのはわかるけど、店の前で辛気臭い顔してないどくれよぉ。どうだったんだい、商売はさっ」

 奥へ引っ張り込まれたオキと化野が顔を合わせる。化野は一度深く、頭を下げただけで何も言わなかった。オキも何も言わない。ただ、此処でフチと一緒に薬作りをするという化野に、今回よく売れた品のことを話した。

「打身やなんかの痛み止めと、腹薬と感冒、頭やみ、あとはあの薬茶だけど、いつもの得意先だけじゃなくて、宿屋に持って行ったらすこぶる人気だったんだよ。注文を取ってきたから、次の時はもっと多めに持って行きたい」

 オキはフチやアユに今ある数を聞いた。ソウ太も話を聞きに来て、みんな集まっているものだから、シオも外から入ってきて、輪の中に首を突っ込んだ。そうなると当然店の前は空になる。

 少しして、空っぽの店先に誰かが立っていることに気付いた化野は、急いで出て行って、そこにギンコの姿を見たのだった。化野の姿に、ギンコはさっと青ざめた。それでも、先に言葉を発したのは彼だったのだ。

「お前、何故此処に居る? 一体何をした?」
「ギンコ…! ご挨拶だな、他に言いたいことはないのか?」
「あの時、もう一度忘れた筈だろう? それに、その気配」

 最初化野は、ギンコの言う意味が分からなかった。でもその真っ青な顔を見て、気配と言う言葉を聞き、段々理解が追いついた。

「あの花のことかい…? 聞きたきゃ全部話してやるさ。俺だって色々問いたいことがある。店先じゃ迷惑だ。奥を借りよう。アユさん、済まないが」
「やれやれ、お茶を振る舞ってる場合じゃないってかい? あいよっ」

 黙って様子を見ていたアユが、立っていた場所を退いて家のずっと奥を指し示している。

「狭い家なもんでねぇ、ずっと通り抜けた向こうの蔵を使って貰えるかい? 意外と壁の分厚い蔵だから、なんなら罵り合ったっていいよ、存分におし。あとに残るものがないようにね」

 二人の間に何があるかはしらない。でも相当に根が深いのではないかとアユは思っている。ソウ太は物言いたげにしながら何も言わず、他の面々も黙って二人を見ているだけだった。

「…すまないな。罵るかどうかは、この男次第だ」
 
 化野は蔵の扉を開け、ギンコに先に入らせた。そして出口を塞ぐ場所に立って、ギンコが何かを言う前に、淡々と言ったのだ。

「まず、先に聞く。ギンコ、お前は、蟲を寄せる体質、というやつなのか?」

 高い位置にある小さな窓から、外の光がひとすじだけ入っていた。それだけの薄暗い空間で、ギンコの白い頭が微かに項垂れた。

「そうだ…」

 ギンコは背中の木箱を下ろし、中から乾いた草のようなものを取り出すと、それを両手で強くもんで、木箱の上にぱらぱらと零した。彼の煙草の匂いに似た、変わった香りがする。

「蟲除けだよ。常に必要でな。ここにゃ燃えやすいものが沢山ありそうだからな、煙草は止しておく。こうしてたって危ないんだぜ? いつどんな蟲を寄せるか、わかったもんじゃない」
「…なるほどな」
「お前だって、蟲、と言う存在がどれだけ危険なものなのか分かっているだろう。ああいう生き物をきりなく寄せ続けているのが俺なんだ。…こんな人間と、親しくするべきじゃない。里に来るなと、お前から言っても当たり前なぐらいなんだ」

 ギンコは、化野の顔をやっと見た。明かりの乏しい蔵の中に居てさえ、ほんの少し透けたような、ギンコの緑の目が綺麗だと、化野は心の何処かで思っていた。

「…ひとつ教えて欲しい。以前の俺はそのことを知っていたのか?」
「何度も言った。それでもあいつは一度もそんなことを俺に言わなかった。それどころか、いくらでも来いと繰り返した。夏は涼みに、冬は暖を取りに、他の季節も、自分や里のみんなの顔を見に来いなどと、馬鹿なことを。…何が可笑しいんだ」

 自分でも知らぬ間に、化野は笑っていた。さもおかしそうに目を細め、小さく笑い声さえ立てていた。

「いや、記憶を失っても俺は俺なんだなぁ、って思ったのさ」

 化野はきょろきょろとあたりを見回し、お誂え向きの踏み台を見つけると、それを扉の前に持ってきて腰を下ろした。指を一本立てて、突き付けるように、けれどもゆっくりとギンコの胸を指さした。

「聞け、ギンコ。今だって俺は同じことを言うぞ。確かに、蟲のせいでひどい目にあったが、それはお前のせいじゃない。里に蟲が湧いたとしても、きっとお前のせいじゃないんだ。だって見えないだけで、蟲は何処にでもいるんだろう? なのに大事な友に『来るな』と言えって?」
「友なんかじゃない」

 化野はまた笑った。今度は滲みるように静かに、目で笑ってギンコをじっと見つめていた。

「あぁ、そういやそうだな。今は金で雇ったものと、雇われたものの関係だ」

 彼は立ち上がって、傍らの棚に手を伸ばすと、小さな箱の中から財布を取り出した。そうして財布ごとギンコへ真っ直ぐ差し出したのだ。

「これはお前へ渡すべき報酬だ。里へ送り届けてくれて感謝している」

 ギンコは慄いたような顔でそれを見たが、受け取るための手も出さなかった。だから化野は一歩彼へと近付いて、その手を勝手に取り、無理やりでも押し付けた。

「これで俺とお前の関係がひとつ終わった。それでもまだ残っている。お前とは『友』じゃない。あの時、お前自身そう言ったし、里に居るいおって娘からも聞いたよ。お前と俺のことをな」

 その言葉が届くと、ギンコの体はびくりと震えた。その胸の動悸が伝わりそうだと化野は思う。いいや寧ろ、己の胸にあるすべてが、ギンコへと伝わって欲しかった。

 会いたかった想い。
 怒っていること。
 案じていること。
 そしてこれから先に、
 そうあれ、と、
 願っていることも。

「蔵はいいなぁ」

 ぽつん、と化野は言う。
 
「ほどほどに狭くて、此処にこうして立っていれば、お前を逃がさずに済む。そういや入ってみる暇がなかったが、久々に戻った俺の家にも蔵があった。あの中にはお前からもたらされたものが、沢山、俺を待っている気がする」

 化野がもう一度近付くと、ギンコは同じだけ後ずさった。丁度彼の上に、窓からの明かりが差していた。

「逃げないのは、確かめたいことがあるからだ、化野。その目を、もう一度見せてくれ」

 言われた途端、化野の視野の左で、青い模様が震えた。










 かなりラストに近いところまで書けた! と思います。あと二話かなぁ。って思った本日。長編になると分かってからというもの、なるべく急いだつもりだったけど、このざまですよー、っと! 幾つめになるのか分からない、この記憶喪失のお話。ラストまでとにかく走りますね! 


2022.08.16