冴ゆる花 … 16




 見せろと自分で言った癖に、ギンコの手は震えていた。化野は自分で踏み台を引き寄せ、差している光の下に腰を下ろす。覗き込む眼差しを感じながら、彼はあの花を舌に思い出していた。

 棘のある氷を喰ったような冷たさと痛み。生あるものをそのままに咀嚼する居心地の悪さ。口の中で暴れていた感触。それでも、化野は後悔などしていない。彼は大切なものを、自分の意志で取り戻したのだ。そして今、その結果をギンコが知って、今にも気を失いそうなほど、酷い顔色になっている。

「蟲が、いる。お前の中に、生きたまま」
「…そうかい…」
「ど、どういうことだか、分かってるのか…?」

 よろめいて、ギンコは化野に両腕を掴まれ支えられた。怖いものを見るように、ギンコが彼を見ている。

「何をした…? いったい、何をしたんだ、化野…ッ」

 激しい声で問われて、化野はいっそ冷静になった。ギンコは案じてくれているのだろう。だけれど、それがなんだ、と彼は思っていた。ふつふつと心が煮える。彼は怒った目でギンコを睨み返した。

「あの花を、喰ったんだよ。模様の浮き出た花を全部喰った。お陰で俺は、何一つ忘れていない」

 ギンコが息を飲むのを見届けて、化野は彼の腕を掴んだまま教えてやる。

「生憎だったろうが、お前が俺にしたことを全部覚えているぞ、ギンコ」
「あれは…お前の為だった」
「笑わせるなよ。人の人生を、お前はなんだと思ってるんだっ。己の気持ちひとつで、変えてしまっていいような軽いものかっ?」
「変えたくないからああしたんだ!」

 はぁ、はぁ、と浅い息をギンコは吐いていた。青ざめていた顔に、朱が差して、ギンコは奥歯を噛み締めている。唐突に、化野はギンコのことが可哀想になった。友と、自分との縁を完全に断ち切ることが、その友のためか。あまりにも身勝手で、そして、なんて悲しい…。 

「…そんなものは、余計な世話だよ、ギンコ」

 化野は出来得る限り静かに言った。まだ憤りは冷めてはいなかったが、これほど勝手で酷いことをされても、彼はギンコが好きだった。好きな人に辛い想いをさせる自分の言葉が、棘のように痛い。

「こっちの視野に、常に青い模様が見えるが、何、きれいなもんだ。もう慣れてしまって、意識しなければ見えない。飲んだ後は体が冷えたが、それも少しの間だけだったし、あれから今までだって何もない。それでも心配なら、お前が時々、俺を診に来ればいい」
「蟲を、甘く見るな…。サイカを喰ったものの記録など見たことが無い。お前の中で生きている蟲が、これからお前を殺すかもしれないんだぞ」

 歯を食い縛るように低くギンコは責めたが、もう全部、元には戻せない。

「…馬鹿な、ことを…化野」
「そんなに怖いか? ギンコ」
「怖いに決まっているだろう…ッ!」

 捕らえたままだったギンコの両腕を、やっと化野は離した。

「俺は、お前を忘れることの方が怖かった。忘れたら、お前との縁も切れちまう。それが何より嫌だったんだ。俺はこの上なく満足している。ギンコ、お前を忘れず、今も蟲に憑かれたままで。これでお前は俺を、放って置けなくなったろ…?」
「なんで」

 よろめいて、後ろにあった階段に、ギンコは腰を下ろした。影の中から、ギンコの声がする。

「なんでそんなに俺に拘るんだ」
「言って欲しいか? ギンコ」

 問い返されて、ギンコは慄くように首を横に振った。化野は言葉を止めなかった。もう言ったも同然だと思っていた。

「お前が好きだからに決まっているだろ…?」
「忘れたくせに」
「あぁ忘れたさ。だけどな、全部忘れたって、俺は俺なんだ。もう一度お前を好いた。それだけのことだよ」

 お前は? と、化野はギンコに聞いた。ギンコは光の届かないところにいるまま、恨むように彼を見つめ返した。

「嫌えたら…」

 どんなに楽か。

 嫌えたら。
 もうとうに、 
 離れている。

 どんなに駄目だと思っていても、唯一の相手に、もうしてしまった。自分の中で、どうしたってそれを覆せないから、化野の記憶を消してまで、関係を終わらせようとしたのだ。身勝手だってなんだって、化野を守るためにそれしかないと思ったのに。

 化野はギンコに近付いた。自分も光の差すところから離れて、ギンコのいる暗がりで身を屈める。近付いてくる顔を、ギンコは黙ってみていた。唇が重なっても、動かなかった。

「驚かないな、ギンコ」
「……」
「記憶を失う前も、俺はお前にこうしてたか?」

 ギンコは膝の間に両手を垂れて、泣くような笑い顔を作った。

「他にどんなことをしてた…? お前はどうだかしらないが、俺は早く戻りたいよ。だから、もう逃げないでくれ。頼むから」
「…逃げちまいたいよ」

 ギンコは疲れ切ったように、前へとゆっくり倒れ掛かって、化野の胸にそっと額を付けるのだ。
 
「でも、お前が蟲憑きになったんじゃ、そうもいかないなぁ…」
 
 化野は、そんなギンコの背中をそっと撫でた。震えるような息を吐いて、ギンコはしばらく動かなかった。




「なんだっ、ギンコっ、この雑な手当ては?!」

 蔵から出てきた化野は、明るいところでギンコの腕の傷を見て怒鳴った。何度も繰り返し膿んだのが、傷の治った痕を見ただけでわかる。 

「いおも言ってたが、そのあとも散々放置していたな! 隠したってわかるぞッ」

 耳に刺さるほど大声で怒鳴られて、ギンコは嫌そうな顔をした。

「薬が底をついてたんだよ…」
「寝言は寝て言えっ、薬屋でも医家でも、あちこちにあるっ。なんでこんなになるまで放ったかした?! 熱が出ただろうっ? もしかして倒れたんじゃないのか? あっ、それで動けなくなって此処へ来るのが遅れたなっ? ったくッ、医家の友として恥ずかしくないのかッ。罰として、俺の届かないところに行くなと命じてやろうかっ、あぁっ?!」

 蔵から出て、明るい場所でギンコの腕を診た化野は、キツツキの嘴のように早口でギンコを責め立てた。化野の叱責が、ギンコの右耳から入って左耳から抜けたあと、遅れてギンコはうるさそうに両耳を塞ぐ。

 その両手を掴んで耳から剥がし、ギンコの耳穴に向けて化野は更に怒鳴った。

「誰かさんが手紙で随分褒めてくれたんでな、俺は誰より立派な医家兼薬師になるつもりなんだっ、そんな俺の友である以上、病も怪我も、金輪際甘く見ないで貰おうかっ。あと、薬研はいいのがあったら買ってきてくれ! 大事に使うっ」

 それを聞いて、ギンコは最初、自分で書いたふみのこととは思い出さなかったようだった。何言ってんだ、とぶつぶつ言ってから、じわっと顔を赤くする。

「なっ、なんで覚えてっ」
「なんでも何も、手紙が此処にあるからだ。これは俺の宝でな」
「そ、そんなもん大事にとって置くな。よこせっ」
「こらこら、何をするっ」

 奥の間でどたばたと騒いでいる二人のことを、誰もが呆れてしまって、暫くは口を出すことも出来ない。それでもその暫くが過ぎたあと、口を挟んだのはアユだった。

「あんたらうるさ過ぎだよっ。さっきは蔵の高窓から時々声も飛んで出てくるしっ。近所迷惑なうえ商売の邪魔だから、もうそんな仲良しこよしなら、仲良しらしくしとくれよっ」

「喧嘩するほど」

 と、フチが呟き、

「仲がいい、だなぁ」

 と、オキが言った。

「というか、あの二人って、なんか」

 何かを言い掛けたソウ太が、目の前に居るフチの耳をはばかって、自分の口を手で塞いだが、当のフチが薄く笑ってこう言った。

「私も、そう思います」

 フチは止めていた薬作りの手を動かしながら、心の中で思っていたのだ。あの手紙を化野に見せたくないと思った理由は、きっとこれだったのだ、と。

 はら薬に、きず薬―、
 おいしいお茶もあるよー。

 けれど、とっくに仕事に戻っていたシオの可愛い声が耳に届いて、フチはにっこりと笑うのだった。
 

 
 
 翌日の朝である。アユとソウ太の薬屋は、何やらまた賑やかであった。

「これ入らないか? こっちの束も」
「いや、もう無理だって」
「そう言わず、なんとか入れてくれ、背負うのは交代するから」
「元々お前の背負える重さじゃねぇよ」

 蔵から出した古い薬の書付けを、化野は里まで持って帰ると言い出した。読み解いた順に分かり易く書き直し、それを時々ギンコに持たせて此処へ戻す、というのは彼の勝手な発案であった。

「だって借りっぱなしというわけにいかないだろう? これはアユさん達の父親の形見でもあるんだから」
「そうだねぇ。ギンコさんも大変だろうけど、頼まれてくれると助かるよ。お礼、フチさんの丹精込めた薬茶でどうだい?」
「薬茶って…」

 なんとか書付を抽斗に詰め込もうと苦心しながら、ギンコがそう呟くと、アユは今気付いたようにポンと手を叩く。

「あぁ、ごめんごめんっ、あんたにゃぁ化野先生の丹精込めた薬茶があるものね。いらない世話だったっ。まぁ、うちでよけりゃいつでもただで泊めたげるからさっ」
「じゃあ、フチさん、こちらの一束は読めそうだから置いて行きます。オキさんによろしく。ソウ太さんにも」

 早朝に行商に出たオキとソウ太は、違う方向へ行ったから、ギンコと化野が道で会うことは無いだろう。

「ギンコ、入ったか?」
「なんとかな」

 そして二人は、また旅の人となる。前より厳しい冬の最中、高地にゆけば積雪もあるだろう。宿で足止めを喰らうこともあるかもしれない。化野の里までざっと二か月か、もっとか。

「無理だったら今のうち言ってくれ」
「…詰め込ませてから言うな」
「そりゃーそうだな」

 馴れ馴れし過ぎる化野の態度に、ギンコは度々眩暈のするような心地になる。三年の月日が、どこかへ消えてしまったのかと思う。皆に笑顔で見送られ、小さなシオには手を振られ、広い街道を長々通り、抜け道へと一本逸れた時、化野が「三年」を思い出させることを言う。

「お前は教えてくれないだろうから、言っておく」
「……何をだ…?」
「記憶になくとも、俺は早く『前』のようになりたいんだ。だから、こうかなと思ったらその時は、躊躇わずに行動に起こすからな」
「な…」

 なんの話をしているんだ、と聞きたかったが、ギンコはその言葉を飲み込んでしまう。友ではなかった互いのことを、化野は言っている。嫌だとも言えない、わかった、とも言えない。ギンコは口を噤んだままで、黙々と歩くしかなかった。

 実際、行動に移された時、そんなことはしていなかったと突っぱねることが、酷く難しいように、ギンコには思えてしまうのだ。生きているかどうかも分からなかった二年半、他人の振りを通したそのあとの半年近く。

 本当は、飢えて、飢えて、飢えて、いるのかもしれない。捕まったそのとき、逃げられないほどに。

 あぁ、
 いっそ今度は、
 俺が記憶を蟲に、
 喰われやしないだろうか。

 本気でそう思うことも出来ないほどに、
 本当は俺も、
 お前を好きなのだ。
 
「ギンコ」
「なんだよ」
「何度でも言うが、好きだぞ。多分、再会した最初の時から、既にな」

 あぁ、あぁ、難儀だ。
 これだから。

 せめて離れて歩こうと、ギンコは脚を速めたが、随分旅になれた化野は、ぐいぐいとついて来て、片時も彼を一人にはしなかった。

 懸命に化野が追い掛けるギンコの背中には、青い模様が重なって見える。化野はその模様が、芯から嬉しいと思えていた。夢中で喰らった、咀嚼し、飲んだ。あの、冷たい冷たい白い花。青い模様の美しい、異形の命。それが己とある限り、ギンコは心配して、彼に会いに来るだろう。

 蟲は恐ろしい存在だ。もしかしたら本当に今に、化野の命を奪うかもしれない。彼以上に、ずっとギンコは化野を案じて、案じて、罪の意識を負い続ける。

「ギンコ」
「だから、なんだよ」
「いや…。何でもないんだ」

 俺は冷たい男なのだ。
 それでも、
 こんなに嬉しいと思っているなんて。

 冷たく冴ゆるあの花を、
 宿したままで喜んでいる。
 冷たい、冷たい、男なのだ。

 






 よもやこんなに長くなっ…。いや、もう何も言うまい。2月にサイト誕記念で、と思って書き始めたんだけどね。もう…来年はこんなふうにならないように、ほんと気を付けるよ。ふ…。記憶を取り戻さない、記憶喪失の話、書いて見たかったので、書けて良かったです。はい。

お疲れ様、わたしー。






2022.08.27