冴ゆる花 … 13




 待っていた。
 信じていた。
 嬉しい。

 その言葉を、数え切れないほど化野は聞いた。里中のものが浜に集まり、舟で戻った化野を取り囲み、口々にそう言い、そして泣いていた。何年もずっと戻らず、もう戻らないままかもしれなかったのに、それでも皆待っていてくれたのかと、化野は心底嬉しかった。でも、彼の分かる顔はその中にひとつも無い。

「すまない、俺は」
「忘れちまったってんだろう? いいんだよ、大丈夫、ギンコさんの手紙に書いてあった」
「そうともさぁ、先生が忘れたって俺らみーんな、覚えてんだから!」
「生きて帰ってきてくれただけで、もう、いいの」

 そして彼の目の前に、夫婦して跪くものがいたのだ。自分を庇ったせいで崖を落ちたのだと夫が言い、妻は腕に子供を抱いたまま、言葉なく深く頭を下げた。化野は彼らの前に膝をつき、顔を上げさせると、その時のことをなるべく詳しく教えて貰った。

「そうか…なるほど。あぁ、よく分かったよ、俺がどんな男なのかと言うことがな。教えてくれて本当にありがとう。もう何も気にしないでくれ。長い間、苦しい思いをさせてしまったな」

 里人たちは、万が一でも思い出してもらえるのならと、色んなことを言った。聞けば聞くほど、自分がどんなに大事にされているのか分かって、戻ってよかったと化野は思うのだ。

 彼は里人に聞いて、日誌や薬類にざっと眼を通し、ここで自分が日々どんな風に、里人たちを診て居たが尋ねた。すると一人の娘が、皆に押されるようにして出てきたのだ。

「いお、お前さんたまに手伝ってただろう? 家のことはしばらくいいから、ここに居て先生にいろいろ教えてやりな」
「それがいい。いおがずっと先生のこと見ててくれりゃ、俺らも安心だ」

 また、何処かに居なくならないように、と、そういう意味が込められているのだろうと、化野には理解出来た。

「いお?」

 名を呼ばれ、娘は化野に縋り付いて、それから彼の顔をじっと見上げた。その両目からは涙が溢れ出し、彼女は何かを言いたげだった。

「皆」

 と、周囲を見渡し化野は言う。

「あとはいおに聞くよ。だからそれぞれ家に帰ってくれ。こんな時間だ、明日の仕事に障るだろう」

 にこりと笑った顔を見せてやると、里人たちは納得して帰って行った。

 いおと二人だけになって、化野は彼女に向き直る。火を入れた囲炉裏を挟んで、向かい合うと、いおはもう泣いてはおらず、けれども思い詰めたような目をしているのだ。

「…先生、私」
「うん。何か話したい事があるんだろう?」

 こっくりと彼女は頷く。

「ギンコさんのこと」
「あぁ、話してくれ。それが一番聞きたかった」

 身を乗り出すようにした化野へ、短くまとめることなど出来ない話を、彼女は話したのだ。

 冬に化野が崖から落ちて以来、ずっと行方がしれないのだと、ギンコに伝えたのは二年半ほど前の春。彼はそれ以後も何度も此処に、まだ見つかって居ないことを告げにきた。そして二年が過ぎた頃、彼が言った言葉をいおは忘れられない。

『なんならもう、忘れていたっていいさ。だけど、もしもあいつが戻ったなら、その時は皆で歓迎してやってくれ。何か理由があったとしても、此処へ何年も戻らずいたことを、あいつは気に病むだろうから』

 里人にはそんなことを言いながら、ギンコはずっと化野を探していた。ギンコの木箱の中にあった、書込みや印だらけの地図をいおは見たから、誰よりもそのことを知っている。

「ギンコさん、山中に倒れていたんです。酷い怪我だった。あまり手当てされた様子がなくて。もしも私が見つけていなかったらと思うと、怖いぐらい。その時は私に出来ることをして、里のみんなに知らせに戻ったら…。先生が見つかった、って里中大騒ぎになってたの。ギンコさんの手紙が此処にあって、居場所が書かれてた、もう、迎えに出たって…」

 いおは唇を噛んで、言葉に迷うような表情だった。化野はひたと彼女を見つめ、言ってくれ、と促す。

「…なんだかおかしいって、思ったの。だって先生と一緒に居たなら、あんな怪我、そのままにしてる筈、ない。ここまで二人で来なかったのだって、どうしてって。聞いたけど、ギンコさんは答えてくれなかった。ただ、別れの時なんだ、運命には逆らえないって、笑って…」

 彼女の目に、また涙が浮かんだ。ほろりと零れて、雫が頬を伝う。いおが教えてくれたのは、化野の知らないギンコだった。彼がどうしても、捕まえなければならないギンコだ。

「いお 」

化野は彼女を、もう一度強く見つめた。

「こうしてたら朝になっちまう。色々聞くのは明日からでいいから、もう休もう 。俺は此処に布団を敷くから、お前さんはそっちの部屋に」

 いおは涙を片手で拭うと、小さく含み笑いをする。

「先生、変わってない。嘘が下手。追い掛けるんでしょ、ギンコさんのこと。支度手伝うよ、私。皆には、先生はまたちゃんと戻ってくるから、待ってればいいんだ、って言うから」
「…参ったな、聡い娘さんだ」
「私、二人のこと知ってるから、わかるの」

 そうして化野は、いおに手助けされながら旅の用意をした。手当ての道具に、金子、少しばかりの食べ物、寒さを防ぐ身支度、そして竹水筒には薬茶を。

 匂いを嗅いで、化野は思う。やはりこの薬茶は己の馴染みのものだった。いおが山中でギンコを見つけたのも、茶にする薬草を摘みに山に入っていたからだという。

「そうか、ならこれは縁起物だな。茶葉も持っていこう」

 カタカタとあちこちを開けて、ふと目に触れた小箱。中には布が一枚きりで、化野はその小箱の中に、目元から外した片眼鏡を入れてみた。ぴたりと誂えたように、片眼鏡はそこに収まった。まるで悪いことをしているみたいにコソコソと、ギンコが此処から片眼鏡を持ち出す姿が見えるようだ。

「じゃあ。いくよ、いお。みんなを頼む」
「えぇ。大役だけど、任せて。でも先生くれぐれも無理をしないで。ギンコさんはきっと」
「分かってる、いお」

 化野はつい少し前に戻った家を、また出ていく。いつもものぐさしてそうしていたように、庭から、垣根の低くなった所を跨ぎ越して。いおはそれを見ていて思っていた。記憶を無くしてるだなんて、嘘みたいだ。

 数歩行ったあと振り向いて、化野は彼女にもう一つだけ尋ねた。

「いお。なぁ? いおの知っている俺とあいつは、どんなだった?」

 問われた彼女は少しだけ躊躇い。垣根の際まで駆けてきて言ったのだ。

「もし私が、先生かギンコさんのこと好きだったら、きっと辛くて見てられなかった。そんなふう、でした。いつも」
「ありがとう。そうじゃないかと思ってたんだ」

 化野は照れたように少し笑い、そのまま旅へと発った。

 少し歩くと、徐々に空は白んでくる。まだ眩しくはない空を眺めると、其処には何かが見えてくる、それは、今まで見えていかなったものだ。うっすら青い、不思議な模様のようなもの。化野が片眼鏡を外して、古い傷だらけの硝子の表面を見ても、そこには何も無い。

教えてくれよ、ギンコ。

 そう、化野は呟いた。サイカという名のあの蟲に蒼く浮き上がった模様と同じものが、視野に見えるその理由を…。もしかしたらギンコも知らないかもしれない。たった今、己に害為す恐ろしい生き物を己で喰らう人間など、きっとそうは居ないだろう。

 怖くないと言えば嘘になる、正直を言えば芯から恐ろしい。でも、自分で決めたことだ。大切な記憶を奪われ、見る間に消化され、永遠に失ってしまうくらいなら、蟲ごと喰らって、記憶を奪い返す。

「にしても、不味かったなぁ」

 化野は歩きながら、崖下でのことを思い出す。




 化野はどうしても、記憶を失いたくなかった。今から三年より前の記憶は、二度と取り戻せないと知ったが、それでも、そこから先のきおくを奪われるのは嫌だった。だから花を喰ったのだ。もしも方法があるのなら、それしかないと思ったからだ。

 今だって顔を顰めたくなる、あの刺すような苦味と冷たさ。噛むと口の中で、花は虫のように暴れて鋭い痛みまで。それでも吐き出さず、青い模様の浮いた花を全部喰った。嘔吐も堪えた。

 えずいてもえずいても、喉より上に込み上げても、再び飲み込んだ。全てを食い尽くし背を丸めて蹲り、臓腑から凍りつくような苦しさが、少しずつ薄れた頃、とうとう勝ったと、化野は思った。

 彼は何も、忘れていなかったのだ。ギンコのことを覚えていた。去っていく前に言っていたことの、すべても。

 そろそろと身を起こし辺りを見回した。居て欲しかった相手の姿はなかったが、すぐ傍の岩の影には、何かがまとめて置いてあった。

 少しの食べ物と水。
 襟巻き。
 すぐに火を灯せるようにと、
 準備された提灯。

「お優しいことで」

 化野は苦く笑って、提灯に火を入れた。食べ物にも口をつけ、水を呑み、置かれていた襟巻きを首に巻いた。気付けば雪はまだ降っていた。襟巻きを引き上げて鼻までを覆うと、ギンコの吸っていた煙草の匂いがした。

 自分のためを思い、置いていってくれたものに、化野は感謝する。だけれどギンコに腹を立てていた。身勝手だったと詫びておいて、それより何倍もお前は身勝手だ。許さないと、化野は思っていた。

 そして遠い沖から見えてくる、ゆらゆらと揺れる灯り。里からの迎えだった。それを見ながら化野は更に思う。

 捕まえてやる、絶対に。
 感謝も恨みも全部、
 お前にぶつけてやる。







  

 
  
 こちら入院中に書きました。など、前回に引き続き言ってみる。スマホで文字打つのはパソコンで打つのの三倍は時間かかるので、休みながらですが昨日ほぼ一日これを打っていましたよ。頑張った甲斐があって13話が書けました、が! ストーリーはそんなに進んでおらず。

 しょーがないかー。次回も頑張りますっ。





2022.07.20